新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■松井秀喜名言集
一度のミスも、スランプもない野球選手など、絶対にいません。プロ野球選手として成功してきた人々は、才能だけではなく、失敗を乗り越える力があるのだと思います。
自分にコントロールできないことは、いっさい考えない。考えても仕方ないことだから。自分にできることだけに集中するだけです。
調子が悪くなったときも、絶対に前の感覚を思い出そうとするのは嫌なんです。そう思った時点で、それは後戻りですから。
野球というスポーツの素晴らしさを子供たちに伝えていきたい。そのためにも、大きなホームランを打ちたいんです。
その日、その日の、ベストを尽くしていきたい。
人生とは幸と不幸が交互にやってきます。だから、僕は「人間万事、塞扇が馬」ということわざが好きなんです。
努力できることが才能である。
(松井昌雄/父から贈られた言葉)
主観的に自分を見てはいけません。客観的に立場を見なさい。周囲の人、たとえばマスコミやファンは野球選手として、バットマンとしての一面を見て、美化しているにすぎません。人間性とか、ほかの面で評価しているのではないのです。
松井昌雄(父)
□心が変われば行動が変わる □行動が変われば習慣が変わる □習慣が変われば人格が変わる □人格が変われば運命が変わる(星稜高校時代の恩師、山下監督の言葉)
高校時代には、あまり意味が分かっていなかったかもしれません。しかし、卒業してプロ野球の世界に入り、大リーグに入り、年を重ねていくにつれて少しずつ理解できるようになってきました。今も自分の心の中で輝く言葉です。
石川県根上町(現能美市)の少年野球チーム、根上中学、星稜高校、巨人軍。これまで自分が所属してきたチームを誇りに思ってきた。
外国人選手のように肩が強くなければ、捕ったらすぐに投げればいい。脚力が劣れば、スタートの第一歩をどうするかを考えたらいい。自分は何で勝負出来るかを考えることによって、活路が見いだせるはずです。
打撃というのは相手投手、場面によって変わってくる。常にニュートラルな位置にいて、投手に向かっていくようにしています。だから、たとえ良い打撃をしても、その感覚を次の打席も続けようとは思いません。良かったことを忘れることも大切なんです。
野球というスポーツは、3割を打てば一流選手になります。つまり、一流選手でも、残りの7割は凡打しているわけです。僕は、この7割の失敗をずっと生かそうとしてきました。
打てないボールは、打たなくていいという諦めを持つには勇気が要ります。
腹が立ったり不満が出てきたりするのは仕方がありません。思ってしまうのだから、自分にも止められない。でも、口に出すか出さないかは、自分で決められます。そこに一線を画した方が自分をコントロールできるような気がします。
いつか現役を引退するとき、左手首を見つめて「おい、あのとき骨折してよかったよなあ」と語りかけてやりたい。
ジャンプをする前には、体を縮めます。そうした準備行動をしなければ、決して高く飛び上がることはできません。「今は、体を縮めてジャンプの準備をしているんだ」と自分に言い聞かせ、我慢の生活を、できるだけ明るい気持ちで過ごしました。
僕の活躍を楽しみにしてくれる人がいる。それがどれほど力になるか。
神様は頑張った人や苦しんだ人に、最後は微笑んでくれる。
考え抜くのが当たり前だと思っていた。それが今の仕事に役立っているかは分からない。打撃技術の向上や不振からの脱出は何か違うことで解決できる問題でない。自分の頭で考える以外に道はない。考え抜くしか何かを導き出す方法はないと思ってきた。指導する立場となって感じるのは、悪い点を指摘するのは簡単だということ。打撃を見ればすぐ気付くし『こうすればいいのに』と言える。でも指摘されてそれを直すすべを選手が持っているかと言ったら、持っている選手はほとんどいない。変わる必要性を選手にどう気付かせ、納得させて改善するか。コーチが見て良くなったと評価できる形で、かつ選手自身の感覚でもいいと思えるものを導き出さなければいけない。指導するうえで一番難しい部分だ。指摘することと、変わるように導いてやることは全く別で、両方やって初めて指導者と言える。『こうなっているから、こうしろよ』と指摘するだけの指導者なら、はっきり言って簡単だ。本当に賢い選手はいるのかもしれないけど、普通は『じゃあどうしたらいいの』となる。この仕事を3年間やって難しさを痛感している。
(長嶋監督は)ジャイアンツに入団して以来、つきっきりで指導していただきましたので、一緒に過ごした時間という意味でも、密度という意味でも本当に感謝しています。その時間がなければまったく違った野球人生になったと思います。
勝負に負けたのは悔しかったですが、3年間で一番、思い出に残る試合でした。あの試合が、思い出に残る試合でした。あの試合が、その後の野球人生のエネルギーになったのは間違いありません。高校時代、あれ以上の出来事はなかった。お互いに精一杯やった結果。5連続敬遠に感謝したくらいです。
困難に直面したとき「今、自分にできることは何か」と自問します。悔やみ、落ち込むしかないのでしょうか。多くの場合、そんなことはありません。きっと前に進める選択肢があるはずです。
苦しみや辛さこそが生きている証ではないでしょうか。今、自分がすべきことは何なのかを正確に受け入れ、それを補う努力をしていくしかないと思っています。
どんな道でも進んでいけば嫌なことはいっぱいあります。それでも逃げないことだと思います。
悔しさは、それに耐えられる人間にしか与えられない。
生きる力とは成功し続ける力ではなく失敗や困難を乗り越える力。
■松井秀喜とは?
松井秀喜。
1974年生まれ、石川県能美郡根上町(現・能美市)出身。
瑠璃教会二代目司教である父・昌雄と母・さえ子の二男として生まれる。
生まれたときの体重は3,960グラムで自宅近くの保育園に入園した際、保育園史上最大の園児と言われた。
体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、一旦野球を辞めてしまった。
野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。
小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始める。
能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。
柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた。
これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノも演奏する。
中学校への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、能美市立根上中学校に進学して野球に専念するようになった。
中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した。
通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。
その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。
高校は星稜高校に入学。
既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。
「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという。
投手として入部したが、すぐに野手(一塁手)に転向。
その後、三塁手に転向する。
高校3年の夏の甲子園は2回戦の明徳義塾高校戦で敗退。
この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。
高校通算打率は.450、本塁打は60本。
夏の県大会では、当時としては石川の1大会の最高記録となる4本塁打を三大会連続で記録している。
高校通算60号は国体の尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録しチームを優勝に導いている。
1992年11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議では前述の4球団から1巡目指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。
1993年、オープン戦でプロの投球の速球に手こずり、三振と凡打の山を築く。
オープン戦は53打数5安打、打率.094に終わり、20三振は全体トップだった。
4月7日に長嶋から二軍落ちを通告され、公式戦開幕は二軍で迎えた。
二軍落ちを通告され、イースタン・リーグの開幕戦で松井と同期新人のヤクルトスワローズに入団した伊藤からホームランを放つなど12試合で打率.375、4本塁打の活躍を見せ、5月1日のヤクルト戦で「7番・左翼手」として一軍デビューを果たした。
7月のフレッシュオールスターに出場して優秀選手賞を獲得し、8月下旬に再び一軍に昇格するとヒットを連発し、セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った。
1994年は、広島東洋カープとの開幕戦で2本塁打を記録し、4月には自身初の月間MVPを受賞した。
同年のオールスターゲームではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。
中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。
迎えた日本シリーズでは西武ライオンズを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。
1995年は22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。
1996年は夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。
初のセ・リーグMVPを受賞した。
リーグ最終戦まで山崎武司、大豊泰昭と本塁打王を争っていたが、山崎に1本リードされて迎えた10月8日シーズン最終戦の中日戦では長嶋の配慮で自身初の1番打者として出場したが、4打席すべてで敬遠されてタイトルを逃した。
それでも、22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録。
1997年は西武ライオンズの清原和博がFAの権利を用いて、巨人に入団し、清原とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。
打率は3割をわずかに下回ったが、37本塁打を放った。
しかし、ドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初めて2年連続して1本差で本塁打王のタイトルを逃すことになった。
1998年は7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。
最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。
巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙であった。
1999年は7月のオールスター第1戦では4試合連続本塁打(新記録)を放った。
ロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。
日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。
2000年は135試合全イニングで4番に座り、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点をマーク。
シーズン全試合4番出場は巨人では1950年の川上哲治以来50年ぶりの記録だった。
本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。
正力松太郎賞も初受賞した。
2001年は、1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。
5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。
5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。
9月27日、広島カープ戦で自身初の1試合3本塁打(3打数連続)を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。
この年、初の首位打者のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙となった。
2002年は史上8人目の50本塁打を記録する。
打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。
西武ライオンズとの日本シリーズでは、松井の安打数は4本に留まったが、チームは1990年の西武以来12年ぶりで球団(巨人として)初の4連勝のストレート勝ち(4勝0敗)で西武を下し、日本一の栄冠に輝いた。
2002年12月19日にニューヨーク・ヤンキースと総額2100万ドル(当時約25億4100万円)の3年契約に合意。
海外FAは巨人史上初。
公式戦開幕試合のトロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にロイ・ハラデイから左翼前への適時打を放ち、初打席・初安打・初打点を記録。
4月8日の本拠地開幕戦、ミネソタ・ツインズ戦ではメジャー初本塁打となる満塁本塁打を放つ。
7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。
7月17日に行われたオールスターゲーム出場後の後半開幕戦のクリーブランド・インディアンス戦でデビッド・リスキーの146km/hの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放った。
フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初本塁打を放った。
結果、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。
2004年は31本塁打と同最高のOPS.912を記録し、打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残した。
ポストシーズンでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点、OPS1.221を記録。
前年に引き続いての対戦となったレッドソックスとのア・リーグチャンピオンシップシリーズではリーグチャンピオンシップシリーズ史上最多タイとなる14安打、28塁打を記録。
2005年は、3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでの自己最高となる打率.305、116打点を記録。
2006年は左手首(橈骨)骨折もあり、51試合の出場ながら打率.302をマークした。
2007年は、シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残した。
2008年は、打率は.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。
2009年チームはワールドシリーズへと駒を進めた。
ワールドシリーズでは5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。
第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから決勝本塁打を放った。
第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した。
ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回にペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点をマークし、スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。
9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなるワールドシリーズMVPに選出された。
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にFAとなり、ヤンキースは松井との残留交渉は行わなかった。
2009年12月16日にロサンゼルス・エンゼルスと年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった。
2010年のは、打率.274、21本塁打、84打点、チームトップのOPS.820を残した。
11月2日に1年契約が満了しFAとなり、翌日エンゼルスは同月6日が期限となっていた独占交渉期間中に翌年の契約を提示しないと表明した。
2010年12月14日にオークランド・アスレチックスと年俸425万ドルで1年契約を結ぶ。
2011年はシーズン通算では打率.251、12本塁打、チーム2位の72打点、OPS.698と100試合以上出場ではプロ入り後ワーストとなる成績でシーズンを終えた。
2012年は年明けから古巣ヤンキースやロサンゼルス・ドジャース、ミルウォーキー・ブルワーズなど様々な球団が浮上したが正式な契約には至らず、プロ入り後初めて未所属のままで開幕を迎えた。
2012年4月30日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだことが発表された。
結局、現役最終年となるこのシーズンは、出場34試合で打率.147、2本塁打、7打点、OPS.435という過去最低の成績に終わった。
2012年12月27日にニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見を開き、2012年シーズン限りで現役を引退することを明らかにした。
2013年5月5日、東京ドームで行われた読売ジャイアンツ対広島東洋カープ戦の前に松井の引退セレモニーと国民栄誉賞授与式が行われ、内閣総理大臣の安倍晋三から国民栄誉賞が授与された。
2014年2月1日から13日まで読売ジャイアンツの春季キャンプで臨時コーチを務めた後、2月19日から3月4日までニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた。
2016年もヤンキースGM特別アドバイザーとして活動。
2018年1月15日 、野球殿堂博物館は、2018年度の野球殿堂競技者表彰プレーヤー部門の顕彰者として松井を選出したことを発表した。
ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続している。