新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■朝原宣治(陸上)名言集
中学ではハンドボール部に入って全国大会に出場しましたが、燃え尽きてしまったんですよね。それで『新しいことをやろう』と思っていた時に、友人に誘われて高校では陸上部に入りました。その頃から大学、社会人と、走幅跳びをメインにして100mもやっていたので、大会でも両方に出場していました。ただ、1999年に幅跳びの踏み切り足である左足首を骨折してしまって。その影響もあって100mに専念するようになりました。
将来のことを考えて、視野を広げるために大学院へも通ったから、結構忙しくしていましたね。午前中は会社に出て、午後からは体を動かし、夜は大学院と、三足の草鞋でやっていたんです。2007年に向けて競技をやりたいという気持ちも自然に湧いてきました。だから9月くらいから冬季練習の準備を始められたんです。
僕たちは技術が身についているから、ある程度の練習をしていれば10秒5くらいでは走れるんです。でも、それに出力が加わらないとスピードを出せないんですね。だからまた本格的にウエイトトレーニングを始めたり。それに、会社や大学院、家庭で当り前の生活をしていると頭の中は現実的になっていました。このままだと100mを戦っていくための脳は上手く働かないと思ったから、家族から離れて2カ月間、タイでトレーニングをしたんです。まずは、出力を出すための練習に耐えられる体を作らないといけないですから。
ここまでの(やってきた)準備で自分が出せる力は決まっている。
競技を長く続けて得ることができたものというのは、トップアスリートでありながら社会と繋がっていられたということだと思いますね。例え会社員であっても、27とか28歳まで突っ走ってきて突然止めたら、競技のことしかわからなくて『どうしよう、俺』ってなると思うんです。僕はそういう形で終わらなかったことを幸福に思いますね。やっぱり競技力というのは、筋力だけじゃなくて人間力、総合力だと考えているんです。練習のプランニングだったり精神力だったり。そう言うのを全部合わせた今の僕が、10年前の自分とほぼ同じタイムで走っている。最後の方は、『そうやって戦っているんだな』と思ってやっていましたね。
1998年からの2年間、体力も精神力も消耗しなかったことを、その後僕が長く競技を続けられた要因にあげる人もいますね(笑)。ただあの時期は、骨を折る前の方が精神的にはきつかったですね。ちょっと良くなると『ああでもない、こうでもない』と考え、練習をしてはまた痛くなるというのを繰り返して、モヤモヤしていました。だから骨折してからは逆に開き直れて『これまでのものを全部捨ててやり直そう』と気持ちもスッキリしました。
シドニーオリンピックはリレーでしか行けなかったけど、あそこが長く競技を続けるキッカケになったというか、第2の競技人生の始まりのような感じはありましたね。元通りというよりは、また新しい僕のスタイルができたらいいな、と思っていました。
リレーで結果を出すためには、僕の個人的なレベルを上げることももちろん大事ですが、僕だけが強くてもダメだし、僕だけが弱くてもダメ。みんなの力が合わさらないとタイムは伸びないし、ましてやメダルという結果は出ません。レベルの高い個人とチームワークの両方が揃わないと高みにはいけない。
もし4番手で予選を通過していたら、『ひとつ上がればメダルだ!』というような、チャレンジする気持ちになれるんです。でも今回はそうではなくて、『普通にいけばメダルかも』という状況でしたから。こんなチャンスはそうそう巡ってくるものではないから、余計に緊張するというか。メダルのことを考えないようにしようと思っても、心の片隅には『絶対にメダル!』という思いもあるし、『失敗できないな』という気持ちもある。だからそれが怖くもあり、辛くもあり・・・。
世界のトップスプリンターはみんな9秒台の記録を持っているから、僕にも憧れはありました。今振り返ってみると、『9秒台を出したい』と思っていたのは02年がピークでした。9秒台を出すチャンスは何度かあったと思うんです。でもそれが僕のもとに訪れなかったというのは、そういう巡り合わせだったのかとも思います。ただ、そこから何が僕を悩ませたかというと、世界選手権も何度か経験して、オリンピックにも2回出ている僕が、次に何を目標にすればいいんだろうということだったんです。
私はドイツとアメリカに留学しました。ドイツに行く時、ドイツですから冷静で綿密な計画通りにやるのかと思ったのですが、全くそうではありませんでした。コーチによるとは思いますが。初め、一年間のプログラムを立てて細分化していき、一週間単位に分けたものに従って練習するのですが、その内容がコーチの興奮度によって変わるのですよ。彼は大体いつも興奮していますから、「もっといける」「もっといける」と、どんどん増えて行くので、結局練習内容は計画よりも大幅に増えました。感情によって左右されるのですね。でも、とても熱心にアジアから来た選手を教えてくれました。一方、アメリカはもっと適当かと思ったら、全く違いました。ダン・パフというアメリカで3本の指にはいる有名なコーチなのですが、非常に細かい方で、「練習量がオーバーすると、年間のプログラムに影響を与えるからここでやめて」と予定通りで練習を止めます。解剖学なども学んでいるので身体のこともよく知っていて、身体のここが痛いというと、何かをメモして「トレーナーにこれを見せて治療してもらえ」と渡してくれるのです。
以前であれば、『勝った』『記録が出た』ということだけでよかった。しかし今は、わけがわからないまま記録が出ていたというのは納得がいかない。そこにいくまでのプロセス、自分自身をコントロールする楽しさ、そういうのがあって初めて走る喜びになっているので、ただ結果だけではないのです。
ジャマイカの選手のように、100mは持って生まれた素質が大きいですが、日本人は劣っているからと言ってしまったら、そこで終わりです。ある程度、才能というのはあると思いますが、何もしなくても速い選手に比べたら、日本人はまだやりがいがあります。私たちは練習量とか質、技術をつきつめてやっています。そこは諦めるわけにはいきません。どのようにして今の力を最大限にひきだすか、そこが大きいです。例えば、同じ才能をもっていたとしても、何かのきっかけで、非科学的な言い方で言えば気持ちの持ち方で、伸びしろが全然ちがってきます。良いコーチが関わり、伸びるスイッチを押してあげると、飛躍的に選手が伸びる場合もあるのです。
選手は一人一人違うので、画一的な作戦では勝てません。本人に何があっているのかを試してみなければならないのです。様々な刺激を様々な方向から与えてみて、様子を見ます。本人が何を感じているか、私も探り探りやっているのですが、一つにこだわるのではなく、いくつもの方法を試す必要があります。ワイルドに行きたいのですが、効率のいい練習もしなければなりません。本能を出させる、リミッターを切る、そこが勝負です。選手はいい人であるよりも、ある意味、嫌な奴、馬鹿な奴にならないと。それが指導によってできるのかどうかはわかりませんが。
人事を尽くして天命を待つ。良い意味での「開き直り」ができたときこそ実力を発揮することができる。それには、心身ともに充実すべく周到な準備が必要である。
正直に言って、僕は高校時代も大学時代も、「いかに楽して強くなるか」ということばかり考えていた気がします。しかし、そんな方法は絶対存在しないわけです。十分なトレーニングをしなければトップにはなれませんし、トップの選手はトップになるにふさわしいトレーニングをこなしています。ただ勘違いしないでほしいのは、単純に量をたくさんこなしているということではないことです。質の良いことを効率良く、ムダなくやっているのです。ムダが多いのはダメです。
自分自身が自分の頭で常に「考える」ことです。人の言われるままに動き、人のマネをして動いているうちは、自分自身を向上させることはできません。僕も、ラップさんの言うことを鵜呑みに実行しているわけではありません。自分で納得できないものは取り入れません。ただし、そういう自分の判断が間違っている場合もあるわけです。そういう時にすばやく、素直に修正する柔軟性も大事です。僕はずっと一人でトレーニングをしてきたので、自分で考えるクセがついています。
リレーという団体種目は、「チームワーク」「絆」「信頼」といった科学では証明しにくい要素が思わぬ力となり、結果に結びつくことがある。実際、メンバーの気持ちに温度差が生じると、バトンミスなどにつながる恐れもある。
大学2年生から感覚をメモする習慣を身につけています。そのきっかけをくれたのは、いまは「ゆる体操」というものを提唱している武道家の高岡英夫先生です。ぼくはそれまで陸上競技は練習量とその内容を工夫すれば、パフォーマンスが上がると思っていました。でも、もっと体を細く分析したり、体感を大事にしたりすることを先生から学んだんです。いちばん印象的なのは、体の軸の話をしていて、「カール・ルイス選手の軸は頭上800メートルまで伸びている」と言っていたこと。ふつうちょっとおかしいと思うかもしれないですが、体の感覚をそう捉えることもできるのか、武道では陸上にはない体の考え方や捉え方があるのか、と当時のぼくは新鮮に思いました。それだけ、自分の体の使い方や感覚にもっと繊細にならなければいけないと思うようになったターニングポイントでした。だからこそ、感覚を言語化して忘れないようにするのが大事なんです。
.
失敗をどう捉えるのは非常にむずかしい。それをプラスに変えるのは、資質なのか、性格なのか、努力なのか。たまたまバトンを落とし、たまたまメダルを獲った。仮にメダルを獲っていなくても、世界4位だったらそれはそれで納得の成果──世の中的な期待はメダルにありますが──だったのかもしれない。だから、ケガでスパッと競技を辞めて、次の人生がうまくいった人もいる。その人にとっては、失敗がプラスになっている。そう考えると、失敗は捉えようで、いくらでも未来につながるのかな、と思います。
私が陸上を続けてきた理由の一つは、100メートルは、絶対にごまかしの利かない競技だからです。強い選手だけが勝つ世界。もちろん生まれ持った才能も必要でしょうが、それだけでは勝てない。勝つためには理由がある。そのために選手はあらゆる努力をするんです。
「お疲れ様」というよりは「ありがとう」と言いたい。
適当に走って負ける、というのがすごくいやです。
100mは人間力。
.
■朝原宣治(陸上)とは?
朝原宣治。
1972年生まれ、兵庫県神戸市北区出身。
神戸市立小部東小学校、神戸市立小部中学校、兵庫県立夢野台高等学校、同志社大商学部卒業後、大阪ガス入社。
小部中時代はハンドボール部レギュラーで全国大会出場果たす。
陸上競技は夢野台高から始め、高3時に走幅跳でインターハイ優勝。
元々当初は走幅跳が専門だったが、同志社大学在籍中の1993年10月26日に行われた国体の100mにおいて、当時の日本記録である10秒19をマークして優勝し、以後、スプリンターとしても注目されることになった。
当時は和製カール・ルイスと呼ばれた。
100mでの功績は大きく、1993年の10秒19、1996年の10秒14、1997年の10秒08と、日本人として初めて10秒1台、10秒0台を記録し、日本記録を3回更新した。
また、オリンピック、世界選手権の100mでは、1996年のアトランタ、1997年のアテネ、2001年のエドモントン、2003年のパリ、2007年の大阪と、5回準決勝に進出している。
しかしながら、世界大会での決勝進出は実現することはなかった。
2007年世界選手権では日本代表のアンカーとして4x100mリレーに出場。
決勝で5位入賞(38秒03 元アジア新記録・元日本新記録)
2008年は年齢をおして(35歳)現役続行を宣言した。
北京オリンピックの代表入りを目指して6月の日本選手権に出場。
決勝は10秒37の記録で2位であったが、6月30日の日本陸連の理事会で代表に選考され、4大会連続の代表となった。
日本の陸上競技選手ではハンマー投の菅原武男に次いで2人目の4大会連続出場となった北京オリンピックの本番は100mでは2次予選で敗退し、アトランタオリンピック以来の準決勝進出はならなかった。
しかし、8月22日の4x100mリレー予選では1組2着に入り決勝進出。
そして翌日、8月22日の4x100mリレー決勝では、最終走者として登場し、3着でフィニッシュ。だがそれから8年経過後、このレースで当初金メダルを獲得だったジャマイカチームのネスタ・カーターがドーピングの検体の再検査で禁止薬物の陽性反応を示したため、2017年に銅メダルから銀メダルに正式に繰り上げとなっている。
日本男子トラック種目のオリンピックでのメダル獲得は史上初であった。
その年齢や、メダルを獲得したことから今後の進退が注目されていたが、2008年9月のスーパー陸上を引退レースにすることが発表され、正式な引退会見も行われた。
9月23日、引退レースとなるスーパー陸上では男子100mに出場、銅メダルメンバーの3人を含むレースで3位に入り、ラストランを飾った。
「GQ MEN OF THE YEAR 2008」を受賞。
母校の同志社大大学院に、2008年4月からは同大学に新設されたスポーツ健康科学部のアドバイザーに就任し、陸上のみならずスポーツ全体の貢献に関わっていく意思を表明した。
2010年には柳本晶一らとアスリートネットワークを結成。
4月には自らが主宰するスポーツクラブ『NOBY TRACK and FIELD CLUB』を旗揚げし、ジュニアやユース世代の選手育成を主眼とした陸上競技教室などを開講している。
2018年に行われた世界マスターズ陸上競技選手権大会の4×100mリレー(45 – 49歳クラス)において43秒77で優勝(武井壮・佐藤政志・譜久里武・朝原宣治)。