スーパースターの条件は、その期待を超えること。~長嶋茂雄名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■長嶋茂雄名言集

デビュー開幕戦でも4連続三振。監督としても最初は最下位。あとはよくなるばかりだと思うしかなかった。

雨を喜び、風を楽しみ。

ウサギとカメならカメでいい。我慢する勇気が重要なんです。

打ったときより三振したときに、いかに豪快に見せるか、相手に恐怖感を意識させるかを考えた。

グランドに出たなら、先輩後輩の序列はないんだ。

ジャイアンツの監督は大変、なにしろ毎日がジャイアンツ戦ですから。

失敗は、成功のマザー。

なにか一つのことに脇目も振らずに打ち込める時期を持てる人は幸せかもしれない。今の若い人達はのめりこめるものを見失っている。不幸な時代だとは思うけども、時代のせいにするのはどうかな。

チームコンダクターっていうのはね、いつも顔色をよくしとかんといかんのですよ。コンダクターが暗い顔でいたんじゃ仕様がない。体調をよくして、いつも元気いっぱいなところを見せないと選手はついてこないし、チームも元気がなくなるもんです。

人生はトータルだもの。一年や二年の勝負じゃないよ。

いつもずっと思っていることは、現実になっていきます。よいことを常に思っていましょう。

野球選手には人間関係で悩む暇などない。すべてはバットを振り、ボールを追いかけることで解決すべきなのだ。

昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、巨人並びに長嶋茂雄のために、絶大なるご支援を頂きまして、誠にありがとうございました。皆様から頂戴致しましたご支援、熱烈なる応援を頂きまして、今日まで、私なりの野球生活を続けて参りました。今ここに、自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意致しました。振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。その試合をひとつひとつ思い起こしますときに、好調時は皆様の激しい、大きな拍手をこの背番号3を、さらに闘志を掻き立ててくれ……。また、不調なとき、皆様のあたたかいご声援の数々のひとつに支えられまして……。今日まで支えられてきました。不運にも、我が巨人軍はV10を目指し、監督以下、選手一丸となり死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし闘いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は敗れ去りました。私は、今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です!

若いプレイヤーが昔のように心から感動したり、感動しきれない。それは、やはり時代でしょう。だけど感動を知らない人生というのは、何か生きている味わいみたいなものがないわけです。感動はスポーツばかりじゃありません。あらゆるジャンルにある。何かに感動しながら日々新たな気持ちで挑戦して行く。これこそ生きる上での一番の王道と言えるのではないでしょうか。

「あしたはきっと良いことがある」。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません。

スターというのはみんなの期待に応える存在。でもスーパースターの条件は、その期待を超えること。

なぜ逃げるのか。打たれて命を取られるのか。打たれたからって命を取られるわけないんだ。逃げるな。

少なくとも、セオリー通りの安全な道ばかり歩いていては、生きがいなんか生まれませんよ。ときには冒険も必要です。周囲の批判を恐れず、「俺はできるんだ」とやり抜く。それが男のロマンでしょう。

■長嶋茂雄とは?

長嶋茂雄。

1936年2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現:千葉県佐倉市)に生まれた。

父は「利(とし)」、母は「チヨ」。

兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子である。

生家は農家だったが、土地は貸し出し、父は臼井町役場の収入役や助役をしていた。

父は在所の世話役だけに短気ではなく、母は意志が強いしっかり者だった。

幼少時代、東急フライヤーズの青バットこと大下弘や大阪タイガースの藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。

藤村への憧れから、当時の関東在住者としては珍しく、幼少期は阪神ファンだった。

小学校6年生の時に兄が所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団した。

兄の下で遊撃手として育てられた。

中学は臼井二町組合立中学校に入学し、長嶋は野球部に入部した。

1951年4月、地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校(現・千葉県立佐倉高等学校)に進学する。

2年生から4番打者を担う。

高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉代表校として出場を果たす。

第1回戦、熊谷高校との試合(1953年8月1日大宮球場)で、遊撃手の長嶋は試合前に負傷していた三塁手・鈴木英美に代わって三塁手を務めた。

遊撃手で度重なるエラーをしていたことからのコンバートであり、以降、三塁手として定着。

同試合には敗れたものの、6回表に福島郁夫投手から高校公式試合で自身唯一の本塁打を放った。

このバックスクリーン下の芝生への鋭いライナー性の本塁打を、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107m)と推定した。

この特大の本塁打により長嶋は野球関係者から大いに注目を集めることとなった。

1954年、立教大学経済学部に進学。

しかし同年6月に父親が急逝する。

長嶋家は一家の大黒柱を失い困窮したが、当時の印旛地区では印旛地区内や印旛地区外から千葉・東京方面に野菜を販売する行商の数が盛んだったこともあり、母親が京成本線や京成千葉線を利用して千葉や東京に出向いて野菜売りの行商をするなどして生計を支えた。

野球部では砂押監督に目をかけられ、ジョー・ディマジオやヨギ・ベラなどのプレイを参考にしたメジャー流の練習や、杉浦の自宅に呼んでの練習など「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。

長嶋は辻猛の下で同期の杉浦忠投手、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において、1956年(昭和31年)の春季リーグ戦と1957年(昭和32年)の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せた。

また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。

1957年には六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を放った。

1955年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)に選出された。

リーグ通算96試合に出場し、打率.286(304打数87安打)、8本塁打、39打点、22盗塁。

高校時代から社会人野球に進むと思われていた。だがさまざまな球団が長嶋との接触を図っていたが、本命は南海ホークスとされていた。

そんな中、読売ジャイアンツ(巨人)が長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。

背番号は千葉茂のつけていた「3」に決まった。

ルーキーの1958年は、オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。

4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。

国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。

また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。

オープン戦の最中、ある解説者が長嶋を褒め称え「金田など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを偶然耳にした金田は激昂、この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークがちょうど来るようにしたという。

しかし、その後は長嶋も金田を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。

長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。

デビュー2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放ち、8月6日の対広島戦から、巨人の中心打者であった川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された。

もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人としても巨人の選手としても、唯一のトリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)の記録を達成していた。

長嶋は翌9月20日の対大阪戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成。

最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。

打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。

しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。

また、単打(83)、二塁打(34)もリーグ最多であったが、三塁打は田宮謙次郎に1本及ばず8本に終わり、「単打・二塁打・三塁打・本塁打のすべてでリーグ最多」という大記録を逃した。

新人記録では、1956年の佐々木信也(高橋ユニオンズ)以来2人目の全イニング出場、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。

6月25日、後楽園球場で行われた天覧試合では、4対4で迎えた9回裏、先頭打者の長嶋が阪神の二番手、村山実からサヨナラ本塁打を放つ。

この試合を機にプロ野球人気が大学野球のそれを上回るようになったとされ、また、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった。

なお、同試合では当時ルーキーであった王貞治も本塁打を打っており、106回あったONアベック本塁打の第1号になった。

2年目となった同年シーズンは、シーズン途中まで、パリーグの葛城とともに3冠ペースだったが、終盤に本塁打と打点が伸びなかった。

2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。

本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。

1960年
打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。

1961年
打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者、初のセ・リーグMVPを獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。

1962年
打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。同年から、長嶋と王貞治が巨人の中軸打者として永らく活躍するようになり、になぞらえてON砲との呼称が定着した。

1963年
打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。2年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献し、2度目のセ・リーグMVPを受賞。

1964年
リーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。

1965年
王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。同年から巨人のV9が始まる。

1966年
打率.344で5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。3度目のセ・リーグMVPを受賞。

1967年
入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。

1968年
9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人の荒川博打撃コーチが退場となった。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。

1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。39本塁打は2019年に坂本勇人に抜かれるまで、巨人の生え抜き日本人右打者の1シーズン最多記録であった。4度目のセ・リーグMVPを受賞。

1969年
1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。球界最高の年俸4560万円で契約更改した。

1970年
1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。

1971年
1月20日巨人軍13代目のキャプテンに就任。5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。5度目のセ・リーグMVPを受賞。

1972年
選手兼任コーチとして迎えたシーズン、リーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。

1973年
打率.269、20本塁打、76打点と成績が下降した。南海ホークスとの日本シリーズは、右手薬指を骨折し欠場を余儀なくされた。同年シーズン終了後、監督の川上より「生涯打率3割を切らないうちに引退したほうが良い」と引退を勧告されたが、それを拒否して翌年も現役を続けた。

1974年10月12日、中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明。

引退セレモニーのスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です!」という有名な言葉を残した。

長嶋の引退は読売新聞の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツに留まらない社会的事件であった。

同年11月21日、選手時代につけていた背番号3は読売ジャイアンツの永久欠番と認定された。

1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。

新背番号は「90」。

1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。

翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。

1977年シーズンは2位に15ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす(V2)。日本シリーズは1勝4敗で2年連続で阪急に敗れた。

1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、一旦は首位に立つものの力尽き、結局、2ゲーム差でOBの広岡達朗が率いるヤクルトが優勝した。同年オフに江川事件が起きており、江川卓との交換トレードで、エースの小林繁が阪神に移籍。

1979年は5位に終わった。

長嶋は辞任という名の「事実上の解任」後、正力からフロントへの入閣を進められたが、フロントは性に合わないと拒否して退団届を提出し、個人事務所「オフィスエヌ」を設立し、浪人時代を始める。

後継監督には藤田元司が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。

1990年の川上哲治との和解、1991年の務臺光雄の死去、渡邉恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がり、1992年オフに報知新聞社客員を辞任し、1992年10月12日に第13代監督として復帰会見を行う。

新背番号は「33」。

監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」を標榜。

浪人時代に感銘を受けたキューバ野球の実践を目指した。

復帰初年度の1993年は3位に終わった。打線は低迷しチーム打率は12球団最下位だった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。

翌1994年には中日と同率最終戦に勝利し、リーグ優勝達成。

日本シリーズでは西武ライオンズに4勝2敗で勝利した。監督として初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。

1995年はヤクルトからFAで広沢克己と自由契約になったジャック・ハウエル、広島からもFAで川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30億補強とも言われた大型補強を敢行したが広沢・松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。

1996年には広島に最大11.5ゲーム差をつけられたが、リーグ優勝を果たし、前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し、同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役引退させる。

1997年は西武からFAで清原和博、ロッテからエリック・ヒルマン、近鉄から交換トレードで石井浩郎を獲得するなど大型補強を行ったが補強戦力が不振や故障に泣き、またエース斎藤雅樹の不振もあり4位に終わり、若手も伸び悩むなどで長嶋への批判も多くなる。

1998年は大物ルーキー高橋由伸の加入で野手の若返りが進み、開幕5連勝を飾るなど順調なスタートを切ったが、6月以降斎藤や桑田などベテラン投手陣に疲れが見え徐々に失速。7月に横浜に7点差を逆転された試合が契機になり以後は3位でシーズンを終えた。開幕初の4番に座った松井がプロ初タイトルでホームラン・打点の二冠を獲得した。

1999年は大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本をマークするなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。高橋や松井ではなく大不振の清原を4番に置き続けた長嶋の采配も疑問視され2位に終わり優勝を逃した。

2000年には、FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」に変更。この年は4年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズの相手は王貞治監督が率いる前年日本一のダイエーで、ON対決として注目を集めた。シリーズは第1・2戦を落とすという苦しい展開だったがその後4連勝して日本一を達成した。

翌2001年、この年をもって監督業から勇退した。9月28日に監督退任と、専務取締役終身名誉監督への就任が発表され、9年間の監督生活にピリオドを打った。

2002年2月20日に宮崎市名誉市民、同年3月に佐倉市名誉市民顕彰。

4月22日アテネ五輪を目指す日本代表の強化委員長に選出される。

7月には立教学院栄誉賞(第1号)を受賞する。

12月2日アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。

2003年11月に行われたアジア選手権で中国・台湾・韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月4日、脳梗塞で倒れ、入院。

一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行ったため、肩書きはそのままだったが長嶋が現地アテネで指揮を執ることはできなかった。

長嶋の代理としてヘッド兼打撃コーチの中畑清がチームの指揮を執ったが、結果は3位に終わった。

2005年7月3日、長嶋は東京ドームの巨人対広島戦を観戦し、病気で倒れてから約1年4か月ぶりに公の場に姿を現した。

2005年11月3日、平成17年度文化功労者(スポーツ振興)に決定される。

2012年11月、キューバより、友好勲章を授与される。

2013年4月16日、国民栄誉賞を松井秀喜と同時受賞した。これに続いて、5月31日に千葉県県民栄誉賞、7月12日に佐倉市民栄誉賞をそれぞれ受賞した。

後者の受賞に合わせて、会場の佐倉市岩名運動公園第一野球場が同日より長嶋茂雄記念岩名球場に改められた。

2014年8月、東京都名誉都民の授与が決定し、10月1日、顕彰式が行われた。

2014年12月、日本プロ野球名球会の理事を退任し、顧問に就任。

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