正解を作るために努力するのみ~田臥勇太(バスケットボール)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■田臥勇太(バスケットボール)名言集

バスケットが好きだという気持ちを、誰にも負けずにやる。

バスケットでは負けたくないなと思い始めたのは小学校の時。親も協力してくれたんですよ。「勉強しろ」なんて一言も言われなかった。その代わり、やる以上はバスケットを一生懸命やれと。

落ち込んだときも「しょうがないや」ってけっこう開き直っちゃうタイプ。

ネガティブなことを考えるより、その間にできること、言い方をかえればその間にしかできないこと、それを自分なりに見つけて毎日取り組むべきじゃないかな。

自分の売りをしっかりと理解すること。

大きい選手と同じことをやってもかなう訳がない。自分で生きる道、得意なものを見つけることでした。基本的にスピードをいかすプレーは得意なので、そこを見せつけようと思っていました。それに、日本人というか自分にしか出来ないという気持を持って、小さくてもやれるという処を意識していましたね。

どのタイミングで、どの引き出しを使うか。そういうことを考えながらプレーしていると、楽しいなって思います。

アメリカに渡ったとき、初めは、選手の見た目だけでびびってました。みんなデカいし、自信に溢れていたし……。「オレ、ここでやっていいのかな」って。でも、いざコートに入ると、自分のほうが動きが速かったりして、スティールとか、なにかしらできちゃっているんですよ。ちょこまか動き回っていると、相手も嫌がるし、そういうことを肌で感じていくうち、サイズが気にならなくなっていきました。

負けたら終わりなので、結果にこだわる激しさを出さないと勝てません。

例え1分のプレーだろうと、1つのプレーだろうと、何を期待されているのかは明確だと思います。選手はそれに応えようと努力をします。そういう姿勢やメンタルが大事だと思いますね。

大変じゃなかったことは無いですね。やはりNBAは世界トップなので。ただ、とにかくNBA挑戦はいろいろなことがチャレンジなんですけれど、「そのチャレンジをする機会を与えてくれる」という意味では、それこそ僕がNBA挑戦の機会を得られたように、「絶対に無理」ということはないです。何かのきっかけがあったりだとか、コネクションがあったりだとかすると、NBAチームから「じゃあ練習に来ていいよ」という連絡を貰えるチャンスが巡ってきたりするので、あきらめずに夢を見てもらいたいです。本場の選手のレベルやスキルの高さだとか、メンタルの強さだとかといった高い壁は、実際にアメリカに行ってみて体験することですが、そこに至るまでのチャンスはいたる所にあります。

チャンスということで言えば、誰にでもある。

アスリートの課題ってどう自分をコントロールできるかなんですよ。若いときってそのペースかなかなかつかめない、だけどねそこで立ち止まったらダメなんです。とにかく動かないと。

ハングリー精神って、言って聞かせて身につくものではない。でも、僕がアメリカのサバイバルの中で培った不屈の精神を他の選手たちにも何とか伝えていきたい。一人ひとりが向上心を持って進まないと日本のバスケのレベルも上がっていかないから。

周りとは違う自分の良さを出すこと。

「オレはできるんだ」「いや、もうダメかもしれない」という自信と不安のせめぎ合いというか、それこそアップダウンを繰り返すジェットコースターに乗っているようなもんでした。そこにスリルと楽しみを感じていられるうちはプロなんだと。いかに不安を自信が上回れるのか、毎日が自分との戦いでした。

厳しい環境で揉まれない限り、ハングリーな魂なんて身につかない。

日本に帰ってきたときに、「圧倒的なスタッツ(成績)を目指しています」と言ったのは、そう簡単に数字を残せるほど甘いとは思っていなかったですけど、そこを目標にしなければいけないと思ったから。そうやって口に出せば、対戦するチームも「ふざけんな」という感じで、ゲームもエキサイティングになりますし。互いのレベルアップにもつながるので。

若いときは1日の大切さ、1試合の大切さをそこまで気にしていなかった。でも、年齢を重ねていくと、1年どころか、1日1日、1試合1試合が本当に大事になってくる。1日でも、1試合でもサボったら取り返しがつかないんで。それを身に染みて感じます。だから、やれることをまずやる。歳を重ねて、日々の生活における優先順位を、よりはっきりさせるようになりましたね。

チャンスを作れるか作れないかは、ホントに自分自身。

いかに頭の中に、体に染みつかせるかというのはすごく大事なこと。プレーで言うと、やっぱりその状況、状況で判断力や決断力というのが大切になってくるんです。でも、常に「こうすれば、こういうふうになるんじゃないか」ということを意識していれば瞬時にポンと一歩踏み出せるというのはあるかもしれない。

誰もやっていなかったことだったので、「成功も失敗もない」って思えた。

周りからは、けなされ「無理だ」って言われてた。でも他人に自分の限界を決めさせたくなかった。

まずどっちに進むべきか決める。決めたらすぐ行動。後先考えずガッと突き進みます。そのくせ後になって不安がこみ上げてくるのですが、失敗したらまた違う道を探せばいいと思っているので、後悔はないんです。

戦い続けることしかない。

何万回もパスをして、何万キロもドリブルをして、何万本もシュートを打って、何十足もバスケットボールシューズを履きつぶしてアメリカのコートに立った。でもこれが終わりではなくて、始まり。

後悔もするし弱音も吐く、それでも必ず前を向く。

正解を作るというのは意識をしている。今回、日本に帰ってきたことも、自分で決めたうえでのことなので、そこに責任を持つ、持たないは自分の問題。決めた以上は、正解を作るために努力するのみ。

気持ちで負けるなんて話にならない。

■田臥勇太(バスケットボール)とは?

田臥勇太。

1980年10月5日、神奈川県横浜市金沢区に生まれる。

父親は植木職人。

高校時代に関東大会まで進んだ母親の影響で小学校2年生(8歳)でバスケットボールを始める。

ミニバスケット時代は横浜市戸塚区の矢部小学校ミニで経験を積んだ。

小学校3年生からはソフトボール(ポジションはキャッチャー)も掛け持ちで始め、シニアリーグからの誘いもあるほどだったが、中学からはバスケットボールを選んだ。

1993年4月、横浜市立大道中学校に入学後、1995年8月の第25回全国中学校バスケットボール大会に出場し3位。

大会ベスト5に選出された。

1996年4月、バスケットボールの名門校・秋田県立能代工業高等学校に入学後、即スタメンとなり、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の3大タイトルを制し、史上初の「9冠」を達成。

公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみ。

全国高校選抜では3年連続でベスト5に選出された。

高校3年生時は地元で開かれたかながわ・ゆめ国体に出場、全国高校選抜では東京体育館に1万人の観客を動員した。

また、この9冠目の試合が同校で50回目の全国大会優勝でもあった。

現役高校生としては史上2人目の全日本候補選手に選ばれた。

1998年、男子アジア・ジュニア選手権大会に出場し第3位。

男子ジュニア世界選手権に進出した。

1999年1月、史上初の特別推薦で能代工業高等学校が全日本総合選手権に出場した。

同年3月、ナイキ・フープサミットに日本人として初めて出場した。

同年7月、男子ジュニア世界選手権大会に出場し第14位。

2000年、NCAA2部のブリガムヤング大学ハワイ校へ留学。

しかし、2年間は単位取得や怪我(椎間板ヘルニア)のためにプレイが出来なかった。

初めて選手登録された2001年には、「日本のジョーダン」と紹介され、全試合に先発出場。

MVPに選ばれたゲームもあった。

2001年8月、ヤングメン世界選手権に出場し第11位。

2002年、大学を3年半で中退した。

2002年5月、スーパーリーグ・トヨタ自動車アルバルクに入団した。

同年11月8日、02-03年の開幕戦新潟アルビレックス戦の第3クォーターから出場し、JBLデビュー。

14分の出場で8得点、2アシスト。

満員御礼となる3,323人の観客を動員した。

レギュラーシーズン21試合・プレーオフ4試合すべてに出場し、通算113得点・63アシストを記録。

チームの準優勝に大きく貢献し、新人王を受賞、オールスターにもファン投票1位で選出された。

2003年5月、トヨタ自動車アルバルクを退団し、同年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。

同年9月、NBAのデンバー・ナゲッツと契約し、プレシーズン戦3試合に出場したが開幕ロースターには残れず解雇された。

ナゲッツのチームメイトには田臥よりも身長の低い165cmのアール・ボイキンスがいたが、ポジションを奪うことはできなかった。

同年11月、ABA(アメリカ・独立プロリーグ)のロングビーチ・ジャム・アルビレックスと契約した。

ロングビーチ・ジャムではデニス・ロッドマンとも一緒にプレイした。

2004年4月、ロングビーチ・ジャムで優勝を果たす。

2004年9月6日、NBAフェニックス・サンズと契約した。

同年11月1日、フェニックス・サンズの開幕メンバーに登録され、日本人として初めてのNBAプレーヤーとなった。

その後、開幕戦を含む4試合に出場したが、同年12月18日に解雇された。

サンズでは後にシーズンMVP、アシスト王になるスティーブ・ナッシュの指導も受けた。

同月、ABAのロングビーチ・ジャムと再契約し、NBAへの復帰を目指した。

2005年9月、NBAロサンゼルス・クリッパーズと契約し、プレシーズン戦7試合に出場したがシーズン開幕前の10月31日に経験不足を理由に解雇された。

同年11月3日にNBA傘下のNBAデベロップメント・リーグに9巡目70位でドラフト指名され、アルバカーキ・サンダーバーズに入団した。

チームの主要選手として活躍したが、シーズン後半に怪我で戦線離脱した。

2006年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。

同年11月にNBAデベロップメントリーグのベーカーズフィールド・ジャムに3巡目11位指名を受けて入団した。

ジャムの前身はABAのロングビーチ・ジャムであるため、2年ぶりの古巣復帰ともいえる。

2007年11月にジャムのロースターから外れ、同リーグのアナハイム・アーセナルへ移籍した。

2008年7月、NBAニュージャージー・ネッツのサマーリーグに参加した。

2008年8月31日、能代工時代の指導者加藤三彦が率いるJBLのリンク栃木ブレックスに入団し、6年ぶりの国内復帰となった。

2008-09年レギュラーシーズンでは、アシスト王・スティール王の2冠に輝き、レギュラーシーズンのベスト5に選出された。

しかしチームは5位に終わり、プレーオフに進出できなかった。

2009年6月、NBAに再挑戦する意向を表明し、NBAダラス・マーベリックスから招待されたミニキャンプに臨んだが、直前の練習で右かかとを打撲し練習に参加できなかった。

同年7月、2009-10年シーズンはNBAを断念し、引き続きリンク栃木でプレーすると発表した。

2009-10年レギュラーシーズンでは、右かかとの怪我のために開幕から1カ月以上欠場した。

2009年11月28日に復帰後、レギュラーシーズンを2位で終え、チームをJBL昇格後初のプレーオフに導く。

2010年4月のJBLファイナルで、それまで2連覇していたアイシンシーホースを3連勝で破り、初優勝(JBL)を果たした。

田臥はチームの中心選手として活躍し、プレーオフのMVPに選出された。

また、年間ベスト5賞に選出された。

2010年4月、リンク栃木と来季2010-11年シーズンの契約延長に合意したと発表した。

同月17日、リンク栃木の本拠地・宇都宮市での優勝パレードに参加、沿道には約1万人の市民が駆けつけた。

同年7月、12年ぶりにバスケットボール男子日本代表の試合に出場した。

2010年11月、日本代表として初めて主要国際大会である2010年アジア競技大会(中国・広州)に出場、1994年アジア競技大会(広島市)以来16年ぶりのベスト4入りに貢献した。

2010-11年レギュラーシーズンでは、チームはプレーオフ圏外の6位で終わったが、東日本大震災の影響で3月11日以降の公式試合日程が中止となり、プレーオフ自体が開催されなかった。

個人成績では前年よりも落ち、平均アシスト数はリーグ6位の3.35であった。

2011-12年レギュラーシーズンは、アシストは安定していたものの、3ポイント成功率が2割を下回り、平均得点も近年では最低の6.4ppgに落とし不振の年となった。

2012-13年レギュラーシーズンでは、平均得点は10点台と改善したが、3ポイント成功率が改善されず、アシスト、スティールともに振るわず、出場時間も減ることとなった。

2013-14年レギュラーシーズンからはJBLがNBLとなったが、引き続きリンク栃木でプレイ。

オールスターに選出されるとともに、ポカリスエットNBL月間MVP(11月、4月)受賞、アシスト王、スティール王、ベスト5を獲得した。

2014-15年レギュラーシーズンでは、オールスターに選出されるとともに、アシスト王、ベスト5を獲得した。

2015年以降も栃木ブレックス活躍。

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