死に至らしめるのがいいレスラーだというのなら僕は辞表を出す。~ジャンボ鶴田(プロレス)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■ジャンボ鶴田(プロレス)名言集

人生はチャレンジだ!チャンスは掴め!

涙を知らない人よりも優しい別れを知るほうがきっと幸せ近づいてくる。人は誰でもローリングドリーマー。

60、70歳になったときにいいプロレス人生だったと振り返られるように人生設計してるんです。だから横山やすしにはなれない。西川きよしなんです。

蔵前国技館は満員だったし、僕はどっち向いても師匠ばかりで本当に緊張してたんです」。「師匠(馬場)よりも先に出なくてはいけないだろうと思うと、さらに緊張する。客はどんなすごいレスラーかと期待して僕を観ている。その時、馬場さんが『いい、今日は俺が出る』と言ってくれて。本来だったら僕は『いや、いいですよ』とか言うべきところなんだけど、『あ、お願いしますっ』と言ってました。

プロレスに上も下もないんだよ。人生はみな違う。プロレスも同じだ。

プロレスはもちろん一生懸命やります。でも、オフになったら人生を楽しみます。青春を謳歌する。それがボクの生き方です。

『天才』なんて呼ばれて、努力しないみたいに言われたけど、本当はものすごく努力した。坊ちゃんレスラーとも言われたけど、実際は僕は苦労人なんです。

最大筋力の2割程度を使い、週に3回程度鍛えただけで筋力が付くトレーニング法を研究しているんです。対象は大学のスポーツ選手に限らない。重いウエイトを持つ必要がないので、病気の人や高齢者も気軽にできる。怪我などのリハビリにも使えるのではないかと思うので、病院にも行ってみようと思っています。

プロレス界に就職します。

僕は悪い意味で言ったんじゃないんですよ。大学4年になれば、同級生も企業などに就職する。自分の中の最も優れた能力を高く買ってくれる企業に就職するのが理想的でしょう。僕の場合は、一番優れた部分はレスリングだった。レスリングを一番高く買ってくれたのが全日本プロレスだったので、そこに就職すると言っただけなんです。あの時代のプロレスラーは皆、『修行に来ました』とか言っていたし、記者もそういう言葉でないと納得できなかったんでしょうね。

あの時は、『絶対に連中よりも人気をつかみ、出ていったレスラーを見返してやろう』を合い言葉に、残ったレスラーが一丸となってがんばった。トップレスラーが出て行ってしまったが、かえっていい興行成績を残せました。

何かあったらすぐに言って来いよ。俺は三沢君の味方だから、それだけは忘れないでくれ。

僕は本来、レスリングをしたいタイプなの。若い頃、ドリー・ファンクJr、ビル・ロビンソン、ジャック・ブリスコと闘ってきたことも影響しているんだろうね。でも、日本人対決は喧嘩試合のニュアンスが強くなっちゃう。僕がマット・スタイルなのに対して天龍はアップ・スタイルなんだよ。今は時代が要求しているのかもしれないけど、ウォリアーズもそうだし、アップ・スタイルばかりなんだけど、僕は自分のスタイルを変える気はないね。まあ、天龍とかのアップ・スタイルにはアップ・スタイルで、ドリーとかのマット・スタイルにはマット・スタイルで…相手に合った対処をしていくのが僕のスタイルかな。天龍とやると感情的になってレスリングよりも喧嘩…ジャンピング・ニーとかだけになっちゃうから“鶴田が本気になった”とかって言われるんだろうけどね。僕は、本来は相手の状態を計りながら詰めていくから、間があるように見られるのかもしれないね。結局、土壌によるんだよ。一瞬に大きな力を出さなければいけない相撲出身の天龍はワッと一気に行くタイプだけど、僕のスタイルはバスケットボールをやって、レスリングをやってきたのが基本になっているんだよ。

経済的なことを考えると、テレビのタレントになるのが一番の早道だった。でも、人気というのは一生続くものではない。人気がなくなったらぽいっと捨てられてしまう。残された人生、どうやって生きたら自分で納得できるのか。ここはひとつ、大学院に行って自分に力を蓄えようと思って…。それに大学に入学すれば、自分がどういう道を選んだらいいのか、いろいろな先生方に意見も聞ける。2年間は大変かもしれないけれど、大学で学ぶのが一番。

私はここに引退はしますけど、全日本プロレスには有望な若手がたくさんおります。三沢、川田、小橋、田上、いい選手がいっぱいいます。ですから、ファンのみなさま、ぜひ、これからも全日本プロレスに熱きご指導とご支援を切に切によろしくお願い致します。

全盛期にぱっと辞めたい、格好悪い姿を見せたくないという気持ちがある。もちろん馬場さんのように、生涯1レスラーとしてずっと試合を続けたいという人もいる。ラッシャー木村さんにしても、あの年齢でやっているというのは凄いことだと思います。僕はどの道を選んだらいいのか、随分と悩みました。レスラーは、すぐに独立だとか言って自分の団体を作りたがる。そういう道しかないのだろうか? 自分で団体を作ったり、他の団体に行ったりという、馬場さんの顔に泥を塗るようなことは絶対にしたくなかった。

妻と馬場さんの力添えが確約されたので、僕も安心して『人生はチャレンジだ』と決心することができたんです。

馬場さんとは一番長くタッグを組んだ。もちろん師匠と組むというのは緊張するし大変な面もあったが、僕をここまで育ててくれたのは馬場さんだし、僕の良さをよく見ていてくれた。馬場さんのすごさは僕が一番よく知っている。馬場さんは練習中は厳しかったが、練習を離れると師匠というより良い先輩という感じで、よく飯を食わせてもらったりした。馬場さんのことが大好きだ。

プロレスラーは世間に出たら何もできないと思われているのが悔しい。

米国のポートランド州立大学の教授に就任することが決まりました。ジャイアント馬場選手のちょうどご逝去ということになり、時期の延期とか中止なども考えましたが、馬場選手がいつも僕にそう言ってくれたみたいに『人生はチャレンジだ! チャンスは掴め!』と、その言葉を信じ今日の決断となりました。

プロレスラーというのは一生できない。だから現役のうちに人生設計を立てて、次の人生に困らないように、プロレス界に迷惑をかけないように一般社会に通用するものを築いておかなきゃいけないと思います。家族を大切にするからこそ人生設計もするし、そのために一生懸命に仕事する。一生懸命にプロレスをやって50代、60代になった時に”プロレスをやってよかったな”という人生を送りたい。

レスラーとしてリングで完全燃焼するというのはいかにもかっこいいように聞こえる。しかし80年の人生は他の誰のものではない自分のもの。第二の人生を演出する責任は自分自身にあるんです。

相手のレスラー生命を終わらせる、もしくは死に至らしめるのがいいレスラーだというのなら、僕は明日にでも会社(全日)に辞表を出す。

生きるとは『挑戦』です。あることに自分がぶつかり、それを乗り越えようと努力する。子供達には困難に出会っても歯を食いしばって立ち上がる、たくましさを与えることです。

人生はチャレンジだ、前のめりになって倒れたい!

■ジャンボ鶴田(プロレス)とは?

ジャンボ鶴田。

本名及び旧リングネーム「鶴田友美」。

1951年生まれ、山梨県東山梨郡牧丘町出身。

広大なブドウ農園を営む家に生まれる。

生まれた時は3,000gと普通の大きさであった。

生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた。

この頃はスポーツなどはせず、家の手伝いをして体を鍛えていた。

荷物を持って坂道を上り下りする作業がアマレスやプロレスで発揮した脚力の源となったとされる。

小学生の頃に虫垂炎の手術を経験したが、後の肝炎を除けばこれを除いて大病には縁が無かった。

中学では野球をやっていたが、この頃になると体が大きすぎて履くものに困るようになったため、運動会では運動靴のかわりにゴム草履で走っていた。

2年生の夏休みには朝日山部屋に入門。

本当は体験入門のつもりであったが新弟子検査に受かってしまったため力士になってしまい、叔父の甲斐錦が慌てて話を付けて新弟子検査を取り消させ、すぐに地元に戻った。

そのためか、日本相撲協会には鶴田の記録が残っていない。

高校時代はバスの便が悪いこととバスの天井が低くて乗り心地が悪いことから自転車通学をしていた。

行きは下りだが帰りはずっと登りであり、しかも道は舗装されていない砂利道であったため、自転車は何台も乗り潰していた。

これも鶴田が鍛えられた要因の一つである。

中学時代にやっていた野球は受験の影響で目が悪くなったことからボールが目で追えなくなり、それなら大きいボールを扱う方が良いとバスケットボールに転向した。

高校のバスケットボール部は山梨県下では無敗であり、在学時は3年連続でチームはインターハイに出場。

自身は1年生の時こそ半年間野球部に在籍していたのでインターハイには出られなかったが、2年生の時は石川県、3年生の時は広島県で開催されたインターハイに連続出場した。

3年生の時には山梨県の相撲大会に出場して3位の成績を収めた。

その後、一般入試で中央大学法学部に入学。

選手層の薄いレスリングであればオリンピックに出場しやすいと考え、大学のレスリング部に入部を申し込むが、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」との理由で一旦は断られる。

そこで、自衛隊レスリング道場で練習を始め、わずか1年半足らずで全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇(1971年、1972年)するほどの選手となった。

大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、名門中央大学レスリング部へ入部した。

レスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。

レスリングでの実績により、ジャイアント馬場からプロレスにスカウトされる。

プロレスに対する偏見や評価などを考え葛藤したが、1972年9月16日、父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思ったことと、大学の監督、先輩、マスコミなどからのアドバイス、日本レスリング界のドンと言われた八田一朗の「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロレスラー入りを決意した。

大学在籍時の1972年10月31日全日本プロレス入団。

ニックネームは「若大将」。

入団後ほどなくして、テキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとで修行し、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。

特にハンセンとは気が合ったようで、ハンセンは鶴田を「トミー」の愛称で呼び、鶴田が日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった。

1973年3月24日、アマリロにてエル・タピアを相手にプロデビュー。

2ヶ月後の5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキにて、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦するという大抜擢を受ける。

その後、サイクロン・ネグロやゴードン・ネルソンら実力者との対戦を経て、8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。

凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビューしフォール勝ち。

3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。

60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。

1974年3月から4月にかけて、再びアメリカ遠征に出発。

太平洋岸北西部から南部、北東部、中西部まで各テリトリーを回り、3月23日にはオレゴン州ポートランドにてダッチ・サベージ、3月29日にはジョージア州アトランタにてボビー・ダンカンなど、各地のトップ選手と対戦。

4月1日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに登場し、ジョニー・ロッズから勝利を収めている。

翌日の4月2日にはフロリダ州タンパにてダニー・ホッジ、4月4日にはノースカロライナ州グリーンズボロにてネルソン・ロイヤル、4月7日にはニューメキシコ州アルバカーキにてキラー・カール・コックスと対戦するなど、世界王者級のタイトなスケジュールをこなした。

1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破り初めてのシングルタイトルを獲得し、キム・ドクとの抗争や、国際プロレスのラッシャー木村との対抗戦、ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝などの実績を上げた。

1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦が評価され、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞。

この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。

必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキック(ミサイルキック)を大一番で用いている。

1983年8月31日、蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。

この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、プロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天」の中で初受賞。

そして鶴龍コンビも最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1984年、入場曲を「J」に変更。

2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、AWA王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。

「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。

AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに奪取されるまで、前王者ニック・ボックウィンクルをはじめ、ブラックジャック・ランザ、ビル・ロビンソン、ジム・ブランゼル、グレッグ・ガニア、ブラックジャック・マリガン、バロン・フォン・ラシクらを挑戦者に16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。

この年、プロレス大賞のMVPを2連覇。

新日本のエースで、1984年末から新日本を退団しジャパンプロレスの一員として全日本に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪城ホールでシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わった。

長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間最高試合(ベストバウト)に選出されている。

鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(プロレス四天王)との戦いであった。

天龍が繰り出す激しい攻撃に触発され、鶴田も恵まれた身体能力を背景に覚醒、一般的なプロレス技で仲野信市や天龍を失神させる、寺西勇やアニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。

特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。

1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。

天龍が新天地を求めて全日本を離脱しSWSに移籍した後、鶴田のライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。

1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者(第8代目)に返り咲く。

1991年は7年ぶりにプロレス大賞のMVPを三度目の受賞。

1992年11月にB型肝炎を発症し、長期入院を余儀なくされた。

公式発表は内臓疾患であり、鶴田保子夫人の著書が発行されるまでは公には伏せられていた。

入院中に読んだ雑誌に女子プロゴルファーの桝井映里が大学院に入学した記事があったことがきっかけとなり、教授レスラーへの道を目指す。

1994年10月に筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂には非常勤講師ながら大学教員となった。

並行して大会場でのスポット出場という形で現役プロレスラーを継続する。

ほとんどの試合は馬場と組んでのファミリー軍団としての出場による、6人タッグマッチであった。

1999年1月31日の馬場の死去直後に引退及び全日本取締役辞任の記者会見をキャピトル東急ホテルで行う。

1999年2月20日の引退記者会見に続いて、1999年3月6日に日本武道館にて引退セレモニーが行われ、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。

この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。

鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。

日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。

オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、フィリピンに渡航。

国立腎臓研究所にて手術が行われたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく同年5月13日17時に49歳で死去。

奇しくもこの日は1984年にリック・マーテルに敗れてAWA世界ヘビー級王座から陥落した日でもあった。

2014年4月13日、鶴田の故郷・山梨の山梨市民総合体育館に於いてノアの協力により「ジャンボ鶴田追悼記念大会」が開催された。

同年11月28日、米国プロレス殿堂入りを果たした。

日本人では力道山、馬場、猪木に次ぐ4人目の快挙。

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