新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■武豊(競馬・ジョッキー)名言集
勝利で得た一番は自信かな。それは自分のしてきたことが間違いではなかったという自信。
負けたらどうしようではなく、勝ったらどうしようとだけ考える。そして、他人の期待より、自分自身に対する期待を大切にする。
強い馬が、強い勝ち方をすることに、競馬の真の面白さがある。
乗りやすいか、乗りにくいかといえば、サンデーの子は明らかに乗りにくいです。でもボクとしてはその乗りにくさが好きだし得意な気がします。誰よりもサンデーサイレンスを知っているし、スランプに陥った馬を立て直す術を知っているつもりなんです。
騎手会長を引き受けるという選択は、人生初というぐらいじっくり考えたかもしれません。やってみて、やっぱり大変でした。騎乗料の配分とか、積立金の使い方とか、ほかにも懸案は山積。みんなで意見を言い合って、最後には『では、会長、決めてください』となるわけですから。ボクが決めなきゃなにも決まらない。なかなか決めない人が、決める役をやってるっていうのは、ね(笑)
自分の技術だけじゃどうにもならない。走るのは、だって、意志の通じぬ、馬のほう。だからこそ、楽しい。馬とともに走り、馬とともに勝つのは、人生をかけて追い求めるのにふさわしい巨大な謎だから。
ぼくの仕事は、勝って褒められるか、負けてブーブー言われるかのどっちかでしょう。始める前に、結果が出たあとのことをとやかく考えたって仕方がないじゃないですか。ぼくは、考えなくてもいいことは、ホントにぜんぜん考えない。単純なんですよ。
これまで騎乗したすべての馬、その馬に携わってくださったすべての方、家族、友人、どんなときでも僕を応援し続けてきてくれたファンの方。数えきれないほど多くの方に支えられて、今の僕がある。感謝の気持ちでいっぱいです。
乗れない方がストレスですね。
凱旋門賞を勝つために、あと何が必要なのかというのはよく聞かれる質問ですが、日本の馬はもういつ勝ってもおかしくないレベルにあると思います。騎手としては、世界中どこでも、チャンピオンジョッキーがいちばん強い馬に乗れる確率が高いわけです。騎乗技術を磨いて、そういう強い馬が回ってくる騎手であり続けるというのが、僕ができること。
武田先生(武田作十郎調教師)から口を酸っぱくして言われた、「いいか、豊。技術だけうまくなっても、いい馬乗りにはなれない。みんなから信頼される騎手、誰からも愛される騎手になりなさい」という言葉は、今でも僕の心のど真ん中にあります。
実戦を1万回経験したときに、いままでは見えなかったものがきっと見えてくる気がするんです。
「アイツはもうダメなんじゃないか」とか、どんな世界でもそういう空気、雰囲気になる時があるじゃないですか。その時に「自分だけはそこに流されちゃいけないな」とずっと思っていましたね。周りがそう思うのは仕方ないなとは思っていましたけど、自分がそう思ってしまったら本当にそうなってしまうと思いましたから、絶対に自分だけは流されちゃいけないと意識的に思っていましたね。強がることは全くなかったんですけど、自分が諦めムードに乗っちゃったらダメだと思っていました。
パドックで馬にまたがってからゴールして無事に厩務員さんに引き渡すまで、100回以上の選択が繰り返されていると思います。
負けは負け。その圧倒的に多い負けをムダにしないで教訓にできる人が、他の人よりもちょっと勝てるんじゃないかな。
どんなに経験を積み重ねて、似た場面を分類できたとしても、正解はその都度違うんですから。ただ、選択肢のなかに、正解が含まれている率は経験によって高まるんだと思います。
自信がない時は絶対にいい結果は出ませんね、僕は自己暗示ではないですが、たいていは勝てるつもりで乗っています。
勝利の方程式をつかんだ?道を究めた?そんなこと、思ったこともない。デビュー以来3500勝したけれど、出走回数は1万7000回以上。勝率にしたら2割に満たない。負けた数のほうがはるかに多い。
昨日のボクより上手に乗れるようになっていたい。
日本でトップになっても、それは『日本一』でしかない。
全て自分のことですからね、別に周りや人のせいでもありませんから。その中で自分が頑張るしかない、というだけのことですからね。
■武豊(競馬・ジョッキー)とは?
武豊。
祖先は薩摩国出身の武家 (家族)であり、薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入った曽祖父の彦七は函館大経の門下生となる。
祖父芳彦は馬主協会元会長。
父邦彦は元騎手・元調教師であり、弟幸四郎もJRA所属の元騎手(1997年3月~2017年2月)・現調教師(2017年3月~)である。
1969年、父邦彦、母洋子夫妻の三男として京都府に生まれた。
翌1970年、武一家は現在の栗東市栗東トレーニングセンターに転居した。
物心つく前から身近な環境で馬と暮らしていたこと、また騎手だった父の姿を見ていたことが影響し、武は物心ついたころには「騎手になりたい」という思いが芽生えていたという。
1975年、栗東市立金勝小学校に入学。
小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた。
1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業。
1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学。
武は実技はもちろん馬学などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した。
1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業。
栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす。
武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった。
3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗。
同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利。
9月12日、ケイアモールで42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した。
10月11日、京都大賞典でトウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす。
11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した。
最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。
1988年(昭和63年)菊花賞をスーパークリークで制しGI初勝利。
19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した。
この勝利により、競馬以外のメディアからの取材依頼が多岐にわたって殺到し始め、「天才」として脚光を浴びるようになった。
武はこの年113勝を挙げ、デビュー2年目にして関西リーディングを獲得。
武の活躍はスポーツ紙や競馬雑誌以外の紙媒体やテレビでも度々取り上げられるようになり、『武豊』という名前と顔が日本中に知られるようになった。
1989年(昭和64年、平成元年)シャダイカグラ、イナリワン、スーパークリークでGIを4勝、年間133勝を挙げ、デビュー3年目にして初のJRA全国リーディングジョッキーを獲得した。
1990年(平成2年)武と共に競馬ブームの主役となっていたオグリキャップとコンビを組み、安田記念、有馬記念を制した。
武は平成三強と呼ばれたスーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの全てに騎乗した唯一の騎手となった。
記録においても史上初・史上最年少・史上最速の名がついた数々の金字塔を打ち立てていき、1989年から2008年までの20年間で合計18回リーディングジョッキーを獲得。
2007年にはJRA通算2944勝に到達。
岡部幸雄が保持していたJRA最多勝記録を更新し、名実ともに日本競馬界の第一人者となった。
1998年、第65回日本ダービーでスペシャルウィークに騎乗し優勝。
10度目の挑戦でついに悲願を達成した。
翌年の1999年もアドマイヤベガで勝利し、史上初の日本ダービー連覇を達成。
そして2002年のタニノギムレットで三度勝利し、史上初めて日本ダービーを3勝した騎手となった。
その後も2005年にディープインパクトで4度目の勝利。
2013年にはそのディープインパクトの子であるキズナで勝利し、日本ダービー最多勝利記録を「5」に更新した。
武は海外でも早くから活躍し、日本人騎手による史上初の海外G1制覇、日本人として前人未到の海外通算100勝など様々な記録を達成している。
武の海外デビューは1989年の夏、イナリワンのオーナーがアメリカに馬を持っており、その馬の騎乗を依頼されたことがきっかけである。
同年9月2日、アーリントンパーク競馬場でグランマジーに騎乗し勝利。
海外デビュー2戦目で海外初勝利を挙げた。
以降は年末年始や夏はほぼ毎年海外へ渡航し、アメリカ、フランス、オーストラリア、ドイツ、イギリス、UAE、香港、韓国、サウジアラビアの9か国で勝利を挙げている。
1991年8月、サラトガ競馬場で行われる芝2600mのG3、セネカハンデキャップでエルセニョールの手綱を取ることになり、3年目のアメリカ参戦で初めて重賞に騎乗することが決定した。本番では、ライト師が「パーフェクト」と言うほどの理想的な騎乗でエルセニョールを勝利に導き、日本人騎手による海外重賞初制覇を達成した。
1992年9月、セクレタリアトステークスでワールドクラススプラッシュに騎乗し、海外G1初騎乗を果たす。
1994年、この年は例年にもまして各国を飛び回り、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞、ブリーダーズカップ・マイルなど世界のビッグレースに騎乗。
同年9月4日にはスキーパラダイスに騎乗してムーラン・ド・ロンシャン賞を制し、JRAの日本人騎手として史上初の海外G1制覇を達成した。
2000年6月、武はアメリカに長期滞在し、騎乗拠点をアメリカ西海岸に移すことを表明した。
2001年1月、フランスの調教師ジョン・ハモンドから「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と正式なオファーを受け、これを承諾。
フランスに長期滞在し、騎乗拠点をフランスに移すことを発表した。
同年3月のロンシャン開催から本格参戦し、4月15日にはG3のグロット賞を勝ち、同年初のフランス重賞初制覇を達成した。
10月7日の凱旋門賞ウィークエンドではアベイ・ド・ロンシャン賞にインペリアルビューティーで勝利し、同年初のフランスG1制覇を達成。
同じ日の凱旋門賞ではサガシティに騎乗し、3着に入る健闘を見せた。
翌2002年も長期滞在を継続し、フランスで重賞4勝を挙げている。
2004年12月、香港ハッピーバレー競馬場で勝利し、海外通算100勝を達成した。
2010年3月27日、阪神競馬場で行われた毎日杯でザタイキに騎乗。
最後の1ハロンに差しかかった時、ザタイキが故障発症し転倒。
武は頭からコースに叩きつけられるように落馬した。
この落馬事故により、武は左鎖骨遠位端骨折、腰椎横突起骨折、右前腕裂創の重傷を負い、全治半年と診断された。
自立歩行は可能であったが、左肩は全く動かすことができず、ジャケットを羽織るのにも他人の手を借りなければならない状態であり、しばらくは患部をプレートで固定して治癒するのを待つしかなかった。
復帰後は思うように勝てない日々が続き、2010年は年間69勝。
2011年はデビュー以来最低の年間64勝。
2012年はその前年をさらに下回り、年間56勝に終わった。
2013年3月、キズナで毎日杯を勝利。
第80回日本ダービーでは、見事キズナをダービー馬に導き、武自身の持つ日本ダービー最多勝記録を「5」に更新した。
武はこの年、GI2勝、重賞11勝、年間勝利数97勝と前年から大幅に成績を向上させ、低迷期を脱した。
2015年、年間106勝を挙げて6年ぶりに年間100勝を達成。
2016年~2017年にはキタサンブラックとコンビを組んで計GI6勝を挙げ、同馬を2年連続年度代表馬に導き、大舞台で存在感を示した。
2019年には50歳に突入。
4年ぶり22回目となる年間100勝を達成、50代では増沢末夫、岡部に次ぐ史上3人目の記録となった。
最終的に年間111勝を挙げ、直近10年で最高の成績となった。
さらに、騎手リーディング3位に入る活躍を見せている。
2020年、2年連続・通算23度目となるJRA年間100勝を達成。