新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
五郎丸歩(ラグビー)名言集
強制です(笑)。3歳から始めたので自分の意志ではありませんでした。近くにラグビーチームがあって、親がラグビー好きだったので、ある意味、強制ですね(笑)。兄が二人いて、その二人と一緒にラグビーをしていました。
ラグビーの格好はしていましたが、横の草むらでバッタを追いかけていましたね。小さいころからとにかく負けず嫌いだったのと、体全部を使ってプレーするところが自分には合っていたのかなと思います。兄たちに鍛えられて運動神経は磨かれていました。1歳年上の兄とはしょっちゅうケンカばかりでした。同い年の友達と遊ぶより兄たちと遊ぶのがほとんどでしたね。
Jリーグに流されました(笑)。通っていた小学校にはラグビーチームがなくて、土日だけクラブチームに通っていたんですね。当時はJリーグ開幕で盛り上がっていたので、平日は仲の良かったメンバーとグラウンドでサッカーをしたり、Jリーグチップスを買いにいったり。そういう流れでサッカーに引かれましたね。サッカーを始めるときは、家族みんな反対だったんですが、じいちゃんだけが賛成してくれたんですよね。じいちゃんはいろいろなスポーツが好きで、いろいろなスポーツをよく見ていて、五郎丸家はみんなラグビーしかしていなかったから『違うスポーツをやってみてもいいんじゃないか』という考えがあったんだと思います。
自分自身、過去を振り返って、いちばん伸びたのは(早稲田)大学1年のときでした。ガムシャラで。いつでも(自分のプレーの)ビデオを見て、少しでもうまくなりたい、このチームの力になりたい、と考えていた。人間、そういう環境のほうが伸びるんじゃないかと凄く感じていて。日本での自分のプレーはある程度は確立されています。このまま国内にいても、ラグビーを盛り上げる役目はあるにせよ、プレーについてはもう伸びないのではないかと。
兄と一緒に出場していた花園で、雨が降る中ベスト4をかけた東福岡高校との一戦で、僕も花園に出場するのが初めてだったこともあり、舞い上がってしまい、ミスをして、結果大きく点差が離れてしまうきっかけを作ってしまったんです。試合もラスト5分になって敗戦が決まってしまったとき、兄が泣きながらプレーをしていて、ずっと兄の背中を追ってラグビーをやってきたのに、兄にもチームにも申し訳ない気持ちになって、でも負けてしまった過去は変えられないし、気持ちの持って行き場がなくて逃げ出したくなったことがあります。
試合は正直、出たくないと思っていました。体のサイズがまったく違うし、経験も全然違うので、チャレンジャーとかそんなかっこいいものじゃなかったです。『やってやる!』みたいな気持ちは本当に全然なくて(苦笑)、ベンチスタートだったんですけど、最後に交代で出るとなったときは『マジかよ!』って普通に思いました。『ボール来るなよ!』って感じで、かなりネガティブでしたね。当時は19歳ですし、自信がなかったんだと思います。
せっかく、ラグビーを日本の国民のみなさまにこれだけ知っていただけた。実際にはコンディションは落ちていないのですが、もし少し落ちたとしても、いまは与えられた使命、自分にしかできない仕事をするべきだろうと思っています。
立ち位置は間違いなく変わりました。いい意味で自分自身にプレッシャーをかけられます。これだけメディアに登場して、パフォーマンスがよくない、試合を欠場する、というケースもありうる。そこを乗り越えて結果を出すという高いモティベーションを持ちたいですね。
ラグビー文化、スポーツ文化の定着した国であれば、いろいろな選手がスタジオに呼ばれると思います。日本の現状ではどうしてもキックのポーズが注目される。エンターテインメントとして扱われてしまう。でも、いまは仕方がない。
会社の縮小で、チームが存続の危機をむかえたことです。僕はプロ契約で今所属しているヤマハ発動機ジュビロに入部してきたのですが、会社の縮小にともないプロ契約も廃止されることとなり、プロ選手は移籍するかどうかで迷ったんです。でも、結果全員が社員として残ったことで、優勝争いができる今のチームがあると思っています。でも当時は精神的にかなり苦しかったです。一般的なトップチームは45人くらいの選手が所属しているのですが、チーム縮小に合わせて、35人くらいになって、シーズンで試合を重ねていくとケガ人が増えて、15対15の練習すら出来なくなったり、ケガ人を出さないために練習の強度を下げる等、苦しい状況でした。でも、チーム選手スタッフ全員が、ヤマハ発動機ジュビロで優勝しよう! という目標を持ち続け、その思いがつながっています。
脚光の当たり方は変わりました。ただ自分たちラグビー選手の行動はずっと変わらない。これまで広く知られていなかっただけで。本当に内面の素晴らしい人間が多いんです。地道な努力を以前から続けてきました。せっかくなら、たくさんスタジアムにきていただいたお客さんに満足して帰ってもらえるような試合をしたい。僕だけでなく、すべての選手がそう考えています。
地位が固まれば固まるほど失敗というリスクを避けて通るようになる。これだけスポットライトを浴びて、評価もしてもらって、国内にとどまっていたら、本当にリスクを避ける人間になってしまう。その意味でも海外に挑戦して、まだまだ日本人のラグビー選手は弱いだろう、と思っているオーストラリアに行くのが楽しみなんですよ。
ラグビーの魅力はやられたらやり返せること。サッカーをしている時はボールを取られて悔しくても、そのままやり返せずに試合が終わる。ラグビーはタックルなどでやり返すことができる。負けず嫌いだからそういうところにハマっているんでしょうね。
まずはエディー・ジョーンズ ヘッドコーチが、しっかりとした理論を持っていたこと。もうひとつは4年間かけて厳しいトレーニングを積み重ねてきたことを、イングランドの地でしっかりと発揮できた。それがあの結果につながったのだと思います。
80分間通じて走りきる力は、間違いなく世界一だったと思います。ラグビーワールドカップ™で勝つために我々にいま何が必要かということを、スタッフ陣が的確に提示してくれました。ですから我々はそれを信じてトレーニングしていくだけでした。
スケジュール的にもハードでしたし、肉体的にも限界まで追い込まれました。ただし、単にきついというだけではなく、そこにしっかりとしたビジョンがあった。だから我々選手もついていくことができました。『ただただきつい練習をすれば勝てる』などということは、ラグビーワールドカップでは絶対にありえません。明確なビジョンを持った中で、世界一過酷なトレーニングをやり抜いたからこそ、結果が残せたのだと思います。
やはり海外挑戦ですね。もともと海外に行きたいという思いは全然なかったんです。日本はご飯は美味しいし、芝生はキレイだし、生活するのに何も不自由しないじゃないですか。でも、2015年のワールドカップが終わったときに自分の中でなんか目標がなくなっちゃって、いろいろ考えていたんですが、そのときにレッズとRCトゥーロンからオファーが来て、『うーん、行くか!』ぐらいの感じだったんです。目標ないし、とりあえず行って感じてまた自分のなかで目標ができたらいいなと思って。
トレーニングの量も変わらないですし、身体への不安もない。自分自身への期待もまだまだあります。ただ、年齢を重ねてくると、精神論になってきますよね。自分をいかに律することができるか、とか、人にどういう影響を与えることができるか、とか。視野が広がったというか、求められるもの変わってくるし、僕は海外を経験して、とくにフランスのチームでは超一流の選手ばかりを間近で見てきたんですけど、彼らはみな人間力がすごく高い。自分が最終的にたどり着かなきゃいけないところはこういうところなんだろうな、という課題をもらいました。
昔から好きなのは柔道ですね。個人スポーツって、プレッシャーがすべて自分に跳ね返ってくるじゃないですか。僕は集団スポーツしか経験がないし、ラグビーとは全然違うので興味を持ちました。日本の国技ですし、世界で勝つことが使命になっている。井上康生さん、野村忠宏さんに刺激を受けました。日本人はこうあるべきというものが凝縮されているような人たちです。僕らがニュージーランドを見ているような感覚で、海外からは見られているわけですよね。みんなが彼らを目指してやっているという。本当にかっこいいなと思います。
海外にはいろいろな経験を積んでプロになる選手が多い。そういう子たちのほうが人生の捉え方も、大きく視野が広がるんじゃないかと思うんです。今の日本のスポーツ界って、例えば最初に野球チームに入ったら、ずっと野球だけやるという環境じゃないですか。そうじゃないとなかなか活躍もできないし、その先もないという。そういう環境は変えたいですね。海外では他のスポーツも一緒にできるし、選べるから一つのスポーツに対して飽きなくなるんですよね。シーズンが2つにわかれているので。いろいろな人との出会いがあるんですよ。僕もサッカーをやってなかったら、ラグビー選手としてここまで来ていなかったと思う。キックも蹴ってないし、あの変な構えもしていないだろうし(笑)。パフォーマンスだけじゃなくて、ラグビー選手からの視点とサッカー選手からの視点との2つを持つことができたので、それがすごく良かった。海外では2つやる人が本当に多いんです。日本もそういうふうになっていけばいいと思います。
日本の場合はトップの人がやりたいことを選手が愚直にやり続ける。自分に求められたことをやり続けて、その個人のピースがはまっていって、ひとつのパズルが完成するというイメージ。それが日本のスタイルだと思うんです。でも海外の場合、自分がこうしたいとか、こういう選手になりたいんだという自分の意志が選手個々にすごくあって、トレーニングメニューひとつにしても『俺はこうしたいんだ』とディスカッションできる。そういう力は日本人には今はないかなと。海外では簡単にいうと自主性というか、どんどんアピールして、伝えていかないといけない。待っているだけじゃなにも来ない。自分からコーチたちにコンタクトしていかないと『この選手はやる気がない』と思われる。でも日本の場合監督に歩み寄っていくと媚を売っているというか、そういう感覚にもなるじゃないですか。そこの大きな違いはありますね。日本人的にはコーチに『逆に何してほしいの?』とか、『なんで理解しようとしないの?』ということになるじゃないですか。でも海外のヘッドコーチは選手がこうなりたいからサポートするという感じです。日本の選手は受け身ですよね。
日本人は言われたことをやれる選手が多い。それだけじゃダメだよねって話もあったのですが、でも僕はエディ(ジョーンズ)のときも経験しているので、日本人って“受け止められる力”がすごくあると思うんですよ。違う言い方だと“耐える力”というか。それは海外の選手には絶対にない。自分の意見のほうが強いから。“受け止められる力”というのは、日本人にしかないと思うし、だからそれは日本人の強みじゃないんですかっていう話を岡田さんとしました。結局そのときも答えは出ていないんですけどね。だから国内でやるときと海外でやるときの違いを理解して、どっちの力も持てるような選手が出てくればいいですよね。そこは比率だと思います。受け止める力と自分を発信する力の比率が違うというだけで、両方できれば素晴らしいですよね。
SAKURA基金は、選手が東北の子供たちを呼び、実際に(試合を)見てもらって自分たちが戦う姿で何か感じ取ってもらえればいいね、ということでスタートした。ラグビーに生かされた人間として、そこに寄付することに関しては迷いはなかった。W杯出発前に入れさせていただいた。けじめというか、今回のW杯が自分の中では最後と決めていた部分があったので。
自分の状況を伝えるのはすごく大事なこと。リーダーが弱みをさらけ出すのはチームに必要ないといわれるが、感じていることを伝えておけば、しっかりサポートしてくれる。それぐらい信じられる仲間たちがいた。
世の中にはいろんな体型の人がいますが、どんな人でもプレーできるという点が、ラグビーの一番の魅力だと思います。体が小さい選手にも、走るのが苦手という選手にも、ふさわしいポジションがある。これはラグビーならではだと思います。特別な才能がなければできないというスポーツと思われがちですが、まったくそうではありません。幼少期にはその年代に合ったルールがありますし、成長に合わせてプレーすることができます。もちろんトップレベルになれば非常に過酷な戦いになりますが、それにチャレンジする価値は十分あります。
防具をつけずに生身で、全力でぶつかり合うというところですね。軽い事故のようなものですから(笑)。ただ、南アフリカやサモアなど体が大きく重い相手に対して、日本は低く速いラグビーで勝つことができました。正面からぶつかり合う中にもいろいろな技があり、日本人ならではの強みを生かせる部分がたくさんある。そういうところもラグビーの楽しさだと思います。
それぞれのポジションにそれぞれの役割があって、一人ひとりが役割をまっとうしてチームとしてひとつになった時に、初めて勝利が見える。そういう意味では、偶然の勝利がない、というのもラグビーの魅力だと思います。ごまかしがきかないですし、体をぶつける競技なので、逃げることもできない。必然の勝利しかないのがラグビーです。
日本人はずっと農耕民族で体が小さいと言われてきて、スポーツではコンプレックスがたくさんありますよね。今回、ラグビーという過酷な競技で体が大きい相手に対して結果を残したことで、いろんな方が勇気を持つことができたのではないかと思います。これから世界を目指す子どもたちにも、『自分たちはできるんだ』という可能性を感じてもらえたのではないでしょうか。
スポーツはなんでも、欠点を指摘するよりも、良いプレーをした時にお互いにほめてあげる事が大切だと思います。ほめられると、ポジティブになったり、楽しいと思えますから。
迷わずいくことですよね。とりあえずやっちゃう。子どもの頃ってあんまり迷わないじゃないですか。つまり、迷わないのが普通で、それが人間の本能なんですよ。でも歳を取れば取るほど言い訳をして、目標が下がったり、チャレンジする機会を逃したりしちゃう。だから、とりあえずやっちゃうこと。やれば失敗しても成功しても得るものはあります。考えすぎないで子どものときの心に戻ればいいんだと思います。凄くシンプルなことですよね。
日本人は外国人に対してすごくコンプレックスがあると思うんです。どうしても日本人は体が小さいという認識があります。でも、体が小さいということから逃げていたら勝てない。逃げないで戦うということを形にできたのは良かったことだと思います。これからラグビーが日本人にどういうメッセージを出せるかは楽しみでもありますね。
身近な友達、家族には、照れくさくて感謝の気持ちが伝えにくい。お世話になっている相手でもちょっと苦手と感じると、感謝よりも愚痴がまず出てしまう。そんなこともありますよね。どんな些細なことでもいい、大げさでもいい、その時は本心から出ていなくてもいい。声にだして「ありがとう」と伝えてみる。そのひとことが自分や周りを大きく変えるきっかけになるかもしれません。
仲間のために犠牲になれること。大きい相手が突進してきたら、逃げたくなるのが人間です。そこでチームのために体を張って犠牲になれるか。そのことに対して見返りも求めず、プレーし続ける。それがラグビーです。
ラグビーにはヒーローがいない。チームのみんながヒーロー。
スポーツを通して学び得たことの一つに「感謝することの大切さ」があります。これはラグビーだけに限ったことではないと思いますが、スポーツを続けていくには多くの人の協力が必要です。自分に必要なことを客観的な視点で教えてくれる、コーチ、監督。メンタルや食事の面でサポートしてくれているスタッフのみなさん。いつも応援に駆けつけてくれるサポーターのみなさん。練習場所を提供してくれる、ヤマハ発動機。様々な面で協力していただいているスポンサーの方々。叱咤激励してくれるチームの仲間、友人。そして食事や健康に気を使い、応援してくれている家族。ふと振り返ったとき、これだけ多くの人に支えられているということに気づき、感謝の気持ちでいっぱいになります。そしてこの気持ちは自分をさらなる高みへもっていくための大きな原動力になります。「自分のため」よりも「誰かのため」に一生懸命になることで得られるエネルギーはとても大きなものです。「見返りを求めず、誰かのために無心で頑張る」このような行動も感謝の気持ちから生まれます。そしてそれを原動力にプレーする熱い思いは周りのみんなにも繋がっていきます。
五郎丸歩(ラグビー)とは?
五郎丸歩。
1986年生まれ、福岡県福岡市出身。
3歳でラグビーを始める。
福岡市南区鶴田小学校出身。
小学校4年から6年まではサッカーに専念し、福岡市選抜に選ばれたこともある。
同市南区老司中学校時代はサッカー部とラグビークラブに所属。
佐賀工業高校時代には3年連続で花園に出場(いずれもベスト8)。
U17日本代表にも選ばれる。
早稲田大学スポーツ科学部スポーツ文化学科に進学し、1年時よりフルバックのレギュラーとして活躍。
全国大学選手権優勝を経験。
2002年に行われた高知国体では、兄の亮と共に出場し、優勝。
2005年3月、大学生で日本代表に選出。
2005年4月16日、対ウルグアイ戦で日本代表デビュー。
2008年4月、トップリーグのヤマハ発動機ジュビロにプロ契約で入団したが、2010年度からヤマハ発動機の社員選手となる。
2010年9月4日の対NECグリーンロケッツ戦で、1試合でのトップリーグ新記録となる8ペナルティゴールを記録。
2011年2月5日、2011-2012シーズンの得点王(182得点)およびベストキッカー(38G/32PG)を初受賞した。
2012年1月6日、2012-2013シーズンの得点王(160得点)およびベストキッカー(40G/25PG)を2年連続2回目の受賞。
2015年、ラグビーワールドカップ2015の日本代表に選ばれ、本大会ではグループリーグ4試合に出場し1T/7G/13PGの合計58得点を記録、第3戦のサモア戦と最終戦のアメリカ戦ではマン・オブ・ザ・マッチに選出。
敗れはしたもののスコットランド戦前半終了間際に見せた、執念のタックルによって相手のトライを阻止したシーンも世界を驚嘆させた。
大会終了後には大会ベストフィフティーンにも選ばれた。
同年11月4日、2016年シーズンよりオーストラリアのスーパーラグビー所属のレッズに加入することが発表された。
2016年1月25日、2015-2016シーズンの得点王(83得点)を3季ぶり3回目の受賞、リーグ戦通算1000得点今季達成選手として特別賞を受賞した。
2016年3月末にヤマハ発動機を退社。
その後2016年シーズンはフランスのRCトゥーロンに所属、11月に初出場し先発も経験したが、2017年4月、契約更新をしない方針を明らかにした。
2017年7月にヤマハ発動機にプロ契約で復帰。
2020年12月9日、2021年シーズン終了をもって、現役引退する事を表明した。