前に進む以外に作る道ってない~中田英寿名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■中田英寿名言集

負けない試合をやる舞台ではないですから。勝てるかどうか、それを試されるのが世界大会です。

上を目指していこうと決めたんだったら、立場は自分で変えないといけないし、自分で責任も引き受けることはしていかなくてはならない。

「右へならえ」をすれば、自分の責任はなくなるからね。

ミスすることを恐れては勝利はない。それがどんなに大きなミスであっても、ミスしたことを後悔はしない。それも自分の実力の一部であるし、勝つためには避けて通れないチャレンジだから。

自分の足元を固めないで、どうするつもり?

美しいプレーを見せようと思ったら、地味な練習を死ぬほどしないと、基本があれば、1を100にすることだってできる。基本がない選手は、いつか消えていくでしょう。

何より大事なのは、何が必要かを自分で考えることだと思います。

足のどの部分で、どのくらいの力で蹴ると、どういうパスになるのか、頭の中にインプットしながら蹴らなきゃ駄目。イメージしたボールと同じボールが蹴れるまでパスを繰り返す。誰かに教わっても、自分の体が覚えなければ、すぐ忘れるだけだから。

やっぱり、寄り道しないとだめですよ。

サッカーを単なるスポーツと考えたり、ビジネスと考えている人には理解できないかもしれません。僕はサッカーが本当に好きなんです。僕にとってサッカーは人生であり、家族のようなものでもあります。楽しくてやっていたはずのサッカーを楽しめなくなってしまった。その時、それでお金を稼いでいるということを、自分の人生に対する裏切りだと感じたんです。サッカーに人生を懸けてきましたが、それはサッカーが好きだったからで、お金のためにやっていたわけじゃない。そのバランスが崩れてしまった。楽しくないことを、お金のために続けるのは、僕には考えられなかったんです。

遊びも一生懸命やるから楽しい。中途半端に遊んだらつまんない。遊びも仕事も一生懸命やるほうがいい。

僕はこれまで日本代表に対して、何度も『自分たちのサッカー』をすべきだという発言をしてきました。でもそれは、『負けてもいいから、理想のサッカーをするべきだ』という意味ではまったくありません。

頑張るのは当たり前で、あえて口に出して言うことではなく、その上で何が出来るのかを考え、実行するのがプロでしょう。

どうすれば自分がいちばん楽しいか、いちばん気持ちいいか。それを自分で考えて、自分で選ぶこと。しかもそれは、今まではこうだったとか、他の大勢の人から見てこう思われるとか、そうゆう枠すら取っ払った、もっと自由で自然体なもの。

いつも同じ状態ではなくて、新しいものを負わないと新しい結果も出ない。

自分の考え方を貫きたい。そのためには自分の目指すサッカーをし、文句のつけようのないプレーを見せて勝利したい。勝たなければ自分らしい生き方はできなくなる。

自分にできることを積み重ねていけば、必ず流れが変わる日が来る。それを信じていられるうちは、どんなことにも耐えられるよ。

世界の中で自分がどの位置にいるのか、確かめたい。

前に進む以外に作る道ってないわけです。後ろに進むためにある道なんてないでしょう。そんな道、考えたことがないね。

良いことも良くないこともあった。でもどんなことだって、すべては未来への糧になるんだと俺は思っています。

■中田英寿とは?

1977年生まれ、山梨県甲府市出身。

元サッカー日本代表、FIFAワールドカップ3大会連続出場。

小学3年生、8歳のときに兄の影響で北新サッカースポーツ少年団に入団してサッカーを始めた。

甲府市立北中学校3年生のとき、U-15に選抜。

U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出して以後は、全ての年代別日本代表に選出され、年代別の世界大会であるU-17世界選手権、U-19アジアユース、ワールドユース、オリンピックには全て「飛び級」で出場した。

オリンピックには19歳でアトランタオリンピック、23歳でシドニーオリンピックと、2回出場。

韮崎高校2年の時には第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。

Jリーグの11クラブからオファーを受け、その中から横浜マリノス、横浜フリューゲルス、ベルマーレ平塚の練習に参加した上で、1995年ベルマーレ平塚に加入。

翌年、ゲームメイクの能力を買われトップ下にコンバートされた。

1996年アトランタ五輪に出場し、後に「マイアミの奇跡」といわれるブラジル五輪代表戦勝利に貢献した。

1997年11月FIFAワールドカップ・フランス大会のアジア最終予選、アジア第3代表決定戦となったプレーオフ・イラン戦では、中山雅史、城彰二、岡野雅行の上げた全てのゴールの決定機を作る活躍で勝利に貢献。

特に決勝点は劇的なシーンとなった。

延長後半13分、呂比須が中盤で奪取したボールを中田がドリブルで持ち上がり、ペナルティエリア直前からミドルシュート。

アベドサデがはじいたルーズボールに岡野が走りこみ、スライディングしながら右足でゴールに押し込んだ。

このW杯を決めた勝利を『ジョホールバルの歓喜』と称して語られている。

その後、イタリア・セリエAの名門ユヴェントスへ短期留学。

これまでの中田のプレーは海外のクラブに認められ、W杯後獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼった。

アーセナル、ユヴェントスFCというビッグクラブは、レンタルに出される危険性があったために選択せず 、同年7月、21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍金470万ドルで完全移籍。

1998年、開幕戦で、ジネディーヌ・ジダンを擁する強豪ユヴェントスFCから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立て、イタリアの有力スポーツ誌グエリン・スポリティーボが選出するセリエA初年度の外国人選手を対象にしたセリエAサプライズ賞に選ばれた。

1999-2000シーズン途中に1600万ドルで名門ASローマへ移籍。

これは監督だったファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。

当初はボランチで起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場した。

しかし、トッティが復帰すると再びボランチで起用され、外国人枠の問題もあり、徐々に途中出場が多くなっていった。

2000-2001シーズンは大型補強でローマの選手層が厚くなったため、開幕から首位を独走するローマではベンチを温める日々が続いた。

スタメン出場も僅か5試合に留まったが、シーズン終盤の敗戦濃厚だったユベントス戦を途中出場から引き分けに持ち込み存在感を示し、日本人で初めてセリエA優勝メンバーとなった。

2000年シドニーオリンピックではU-23代表の一員として決勝トーナメント進出に貢献したが、アメリカ戦でPK戦の4本目を失敗し、チームはベスト8で大会を去ることになった。

2001年、パルマは獲得を目指していたルイ・コスタがACミランに移籍した事もあり中田を獲得。

移籍金は当時アジア人選手最高額の約33億円にのぼった。

25歳で記念すべき地元開催となった2002年日韓W杯に出場。

精神的にもチームを牽引する中心選手として、グループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。

2002-03シーズンから指揮をとったチェーザレ・プランデッリ監督には右サイドハーフでレギュラーとして起用される。

アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に構成された攻撃陣はイタリアメディアから『トリアイナ(三叉の槍)』と称される高い攻撃力を発揮し、中田は敵地でのユヴェントス戦で先制点を決めるなどユヴェントス・キラーとしても賞賛された。

しかしシーズン後半になると、手数をかけずFWに預ける守備的なチーム戦術へ変更された影響を受け、中田は攻撃よりも右サイドでの守備に奔走することを求められていった。

2003-04シーズン冬の移籍市場で、中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍を決断する。

センターハーフを任された中田は、移籍初戦と次節の2試合連続のアシストによってチームメイトの信頼を得た。

2004-05シーズン直前にACFフィオレンティーナへ完全移籍。

しかし、低調なプレーに終始、2005-06シーズンから、パルマ時代に確執があったプランデッリが監督に就任することを知り、急転直下、移籍することにした。

2005年、7年間過ごしたイタリアを離れ、28歳でイングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。

2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツW杯のグループリーグ全3試合にフル出場。

1分2敗で決勝トーナメントには進出できなかった。

2006年7月3日、自身の公式HP 上で引退を表明。

2007年12月、日本で開催されたクラブW杯の記者会見に出席、引退後初めての公式会見となった。その席でFIFAのブラッター会長は、中田が世界50カ国、150都市以上を旅し、国連のプログラムに協力しながら、サッカーを通じた社会貢献活動を続けていることを高く評価し、世界で16人目となるFIFA親善大使への就任を要請したことを発表。

中田は今後FIFAと共にさまざまな活動をしていく考えを述べ、要請を受諾した。

2008年6月、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』を立ち上げ、地球環境に「なにかできること、ひとつ。」をテーマにキャンペーンを行った。

また、一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」を立ち上げ、代表理事に就任。

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