新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
松井稼頭央(野球)名言集
幼い頃の写真を見ると、ボールとバットを持っていて、物心付く前から野球で遊んでいたようです。小学3年になるのを待ちかねてボーイズリーグに入団したのですが、全国大会の一歩手前でいつも負けていました。僕が通っていた中学校は、学区内にあるボーイズリーグに入っていればクラブ活動として認めてもらえたので、野球の練習のない月曜から金曜までは、バスケや、バレー、サッカー、卓球など様々なクラブに参加し練習させてもらいました。色々なスポーツを経験して色々な神経を鍛えられた事がその後のプレーに役立ったのではないかと思います。
やっぱり高校野球の3年間があったからですよ。ケガばっかりして、普通だったらふて腐れても仕方ないのに、中村監督はそうならないように「センターを守ってみるか」と気遣ってくれて、なんとか試合に向けて前向きな気持ちを保てるようにしてくれました。
僕自身は左足が前とか右足が前という感覚はないですね。体の真ん中で捕ることを心がけています。ただ、日本は人工芝の球場が多いからイレギュラーが少ない。だから左足の前で捕ってから投げても問題ない。ところがメジャーリーグの球場は天然芝でアンツーカーの部分もある。イレギュラーがあるので左足を前にして確実に捕れるとは限らない。
自分で決めようなんて思っていません。次のバッターにつなげることだけを考えて、思い切り振りぬくことだけを心がけています。
メジャーリーグの選手は捕ったら体ごとファーストを向いてスローイングします。ここは日本との違いでしょう。それで打球に応じて右足を引くか、左足を出すかして投げる。日本での左足の前で捕って、右足に体重移動するスローイングが基本ですが、向こうの選手は投げる際の軸足を左にしても右にしても対応できるんです。
マイナーリーグも経験しましたし、怪我をしてルーキーリーグから1Aからあらゆるリーグを経験したので、そういう意味では苦しかったことが多い7年間でしたけど、でも今後の自分に生きる経験だと思って、何とかメジャーでやりたいと思いながらやってきましたね。
オープン戦で打てず(打率.192)、守れず……開幕が近くなったある日、アート・ハウ監督から呼び出しがあったんです。『ああ、マイナー行きかな』と思ったら、『開幕戦で使うから、気にせんと自分の思うようにやりなさい』と。それですごく楽になった。それまで、動くボールとか深い芝だとか、メジャーの情報を詰め込み過ぎていた。まずは本能のままプレーして、壁にブチあたってから考えればいい。自分の良さは積極性。それだけは失わずにいこうと開き直れた。そこで『開幕戦の初球を打つ』と決めたんです。
当時のハウ監督に監督室に呼ばれまして「今は色々と学ぶ時期だから、思いきってやってくれ 開幕はスタメンで使うから安心しろ 自分のプレーをしろ」って言われて、残りのオープン戦を戦ったんですけど初めは結果も出ていなかったので、開幕スタメンはないのかなと思うぐらい守備も打撃も良くなかったので。そこで監督に励ましてもらったので『じゃあ、思いきっていこう』って思った結果が初打席でホームランという結果でした。
練習していた記憶しかないですね。投げる、捕る、振る、走るという基礎――土台を大きくできればと思っています。土台が大きければ、どんどん上に技術を積み重ねていける。逆に小さいとフラついてしまう。土台を大きくするには練習しかないんです。僕が入ったときの二軍監督は黒江透修(ゆきのぶ)さんでしたが、とんでもないエラーをしても試合で使ってくれました。短所を直すというより、長所を伸ばす方針で大きく、大きく育てていただいた。
野球がしたい。野球以外に趣味があって、第二の人生を描いていたら別でしょうけど。お給料は頂いているが、僕は野球に対して仕事をしている感覚ではない。趣味はやっぱり“野球”ってなってしまう。
ショートへのプライドがあるからこそ、外野に行った。守備範囲が狭くなったから、他の内野というのはね。僕は内野ならショートをやりたいですから。
内野が集まっている時は寂しさも感じる。でも、外野はファンと距離が近い。内野だと前しか見ないが、今は外野全体を見渡したりする。
自分に責任、プレッシャーを感じるわけでもないし…。何かにゼロではない可能性が見えたら自分でプランを持って過ごしたい。数字もモチベーションになる。引退したらどうしようかな。草野球チームでもつくるかな。
日米野球もそうですが、『筋肉番付』の反響はすごかったですね。ただ、あの後、たくさんのファンレターをいただいたんですけど、『私は野球の実績とか、松井さんが去年どれだけ打ったとか、西武が何位とか知りません。スポーツ番組を見てファンになりました』というのが多いんですよね。今年は自分の職業で名を売りたいですわ。
右200振ったら、左も200振らないと。
メジャーでプレーをしてためになったことの一つは「BURN(バーン。エア・ハイタッチのようなポーズ)」です。アストロズ時代に(ミゲル・)テハダがやっていて、いいなと思ってました。いつも応援してくれるファンと試合中に一体になりたくて、楽天に入ってから始めたんです。最初は「何してんねん」という雰囲気でしたけど、いまは浸透してファンと盛り上がれるので、楽しいですね。
ただ勝つことを目指せばいい訳ではないですし、だからと言って勝ちを目指さないと緊張感のある試合はできない。僕自身、勝ちに行きたいですし、選手にとっても、勝ちを目指して緊張感のある試合の中でプレーすることはすごく大事。そこで成功する、失敗するというのが成長につながる。
僕を一軍に抜てきしてくれた東尾(修)監督ですね。東尾監督と出会っていなければ今の僕はない。当時、試合中に僕がゴロを捕るまでは見ているんですけど、投げる瞬間は目を逸らすんですよ。「その瞬間を見たら使えないから」って……(苦笑)。それでもコイツを使おうと思ってもらったこと。その信念であったり、覚悟であったり、そういうことも含めて、監督というのは決断をしないといけないということを、あらためて今になって思いますし、その難しさも感じますね。口ではいろいろ言えても実際に行動に移すことは難しいですからね。でもその分、やりがいがあります。
目の前のことに集中していますけど、監督としては先を読むことが必要だと思います。先のこと、さらに先の先のことを読めるようにしないといけない。試合は常に動いていますし、その中で選手をどう使って、どういう作戦をするか。先を読んで動く必要がありますし、逆に動かない方がいい場面もある。
やっぱり一度、優勝の味を知ると何度でもビールかけしたくなる。そのために年齢も年齢なんで、大きなケガなく戦えるようにオフから準備して、まずキャンプにいい状態で入ることが目標です。
ようやく日本一になれました。チーム(東北楽天ゴールデンイーグルス)は創設以来初ですし、僕自身も西武時代からいままで出た日本シリーズで3回全て負けていたので嬉しいです。もちろん毎シーズン、日本一を目標にプレーしています。その中で、なぜ昨年優勝できたのかという質問をよくされるんですが、僕はすべての歯車がかみ合ったからだと思いますね。
僕は、余力を残したまま惜しまれながら引退するなんてできないと思うんです。だって、ほんまに、野球が大好きやから。
けがに泣かされた高校時代は、いつ挫折してもおかしくない状況でした。そんななかでも野球を続けられたのは、監督が僕を野手として使うなど、試合に出られる可能性を探ってくださったからだと思います。また投手としてマウンドに戻るんだというモチベーションになっていたような気がしますね。そのけががあったから、プロ野球選手としての今の自分があるのかなと思うんです。野手になるきっかけになったのかもしれないですから。だから、球児はけがをしてもあきらめないでほしい。次のチャンスがあるから、また強くなってグラウンドに戻ってきてほしいです。高校時代の練習や寮生活を乗り越えたから、どんなことにも耐えられると思いましたね。でも、自分一人ではがんばれなかったと思う。続けられたのは、やっぱり仲間がいたからです。
自主トレは、妥協しようと思えば、いくらでもできるじゃないですか。1からすべて自分で考えて取り組まなければいけないので、自主トレでいかに自分と戦えるかが大事だと考えています。それが毎年、憂鬱なんです、ハハ。遊ぼうと思えばいくらでも遊べるし、休もうと思えば、いくらでも休める。同じように“練習をやろう”と思えば、いくらでも練習できる。そこが自分との闘いなんでしょうね。でも、これだけ長い間、プロとしてプレーできているのは、こうやって毎年、準備をしているからだと思います。
実際にメジャーでプレーをして勉強になったことはたくさんあります。メジャーでも「基本」が大事だということを思い知らされました。超一流選手も、ノックを受けて、しっかり取って、投げる。これを怠っていませんでしたからね。
もうミスのオンパレードでしたね。試合の度にミスしていました(苦笑)。高校の時まではピッチャーだったので、そこから野手に転向して、最初は守る位置も分からなかったですし、塁に出ても帰塁の仕方が分からなかった。そこからのスタートでしたから、とにかくやるしかなかった。練習でも試合でも、成功でも失敗でも、経験することのすべてがプラスになることだらけだったので、迷う必要もなかった。当然、ミスしたらその分、練習をしましたし、やらされもしました。それでも試合で使ってもらったことがありがたかったですし、練習できる体力、土台が自分にはあったのが大きかったのかなと思います。
僕は、今日の試合の反省をしたら、後は元気に楽しくやっていこうと思うタイプ。
苦労と言っていいのかなとは思いますね。やらなきゃいけないことがいっぱいあって、それをやっていただけで、当時から苦労とは思っていなかったです。今、自分自身を振り返って言えることは、練習をできる土台があったということ。高校の時はケガばっかりしてたんですけど、プロになってから練習できる身体があったということが大きかったと思います。
なっ、重苦しい試合が続いたろ。こうやって強いチームになっていくんだよ。
やればやるだけ身につきますし、成長できる。当然、ミスすることもあるし、成功することもある。その繰り返しです。その中で大事になるのは、気持ち的な部分。絶対にレギュラーになる、絶対に一流選手になるんだと思って毎日を過ごせるか。自分に何が足りないか、どうしたら一流選手になれるかということを感じ取ることも大事ですし、それが分かったら全力で取り組むこと。悔いなくやり切るっていうことは非常に難しい。
技術の追求には終わりはない。とにかく野球を好きという気持ちを持ったまま、追求してもらいたい。
僕の良さは、まず野球を楽しむこと、そして積極的に打っていくこと、それこそが真骨頂。
しんどい時ほど元気を出しました。チームの勝敗には波がある。連敗すれば、どうしても暗くなりがち。でも、そこで落ち込んでいても仕方ないじゃないですか。
たとえどんなに苦しくてもいいんです。僕の人生には、楽であるとか、保証であるとか、そんなものは必要ない。大好きな野球で、積極的に挑戦し続けることさえできるならそれでいい。
完璧なんて言葉はないと思っています。失敗しては課題が見つかる。その課題に出合った時、よし、やってみるぞという楽しい気持ちになれます。
僕はホームランバッターじゃないですから、そちらは気にしていないけど、盗塁にはこだわりがありますよ。ただ、数じゃないですけどね。チームに勢いを与える盗塁をしたい。それに僕は打って、守って、走って、という中で、自分のリズムを作っていくタイプですからね。
可能性に懸けたかった。外野は守ったことがないから、新しい自分を出せるかもしれない。選手寿命が延びるかもしれない。それなら先が見えるより可能性が見える方が楽しいと思った。
分かんないですね。まだこれからです。まだ真っ白なので、これから自分の色、自分のスタイルを作って行きたい。毎日、勉強中ですから、いいものはどんどん取り入れて行きたいですし、どんどん新しいものにもチャレンジして、視野を広げられるようにしていきたい。変わっていく楽しみというのは、選手だけじゃなくて、僕自身についても同じです。
松井稼頭央(野球)とは?
松井稼頭央。
1975年生まれ、大阪府東大阪市出身。
幼稚園時代から野球漬けの毎日を送っていたが、それまでは規定がありチームに入れなかったものの、小学校3年生時に近所の上級生に誘われて若江ジャイアンツに入団。
チームが所属していた地区は強豪揃いであり小学生時代は全国大会には出場できず、八戸ノ里中学生時代も決勝戦で敗れ、全国大会には出られなかった。
小学生時代からずっと悔しい思いをしてきたため、高校に入ったら絶対に甲子園に行くと心に誓ったという。
PL学園時代は1年生の投手としては唯一春の大会でベンチ入り(背番号11)。
1年の秋季大会では肘を痛めていたため松井自身は投げることができなかったが、チームは勝利し、春のセンバツに出場(背番号1)。
準々決勝で先発に指名された。医者からは30球から50球が限度と言われていたが、痛み止めの注射を打ってマウンドに上がった。
試合が始まると球が走らず、3回途中2失点でマウンドを降りた。
その後チームは2年生時の夏、3年生時の春ともに甲子園出場を逃す。
自身も背番号10でベンチ入りはしていたものの怪我のためほとんど投げられなかった。
肩や肘がようやく治ったものの、3年生時の夏の大会直前の強化合宿でぎっくり腰になった。
死ぬ思いで治療に専念し、大会に入っても腰に違和感はあったものの、試合当日何とか投げられる状態に回復した。
松井は大阪府大会1回戦、2回戦とも9回まで投げ抜き、16奪三振を記録した試合もあった。
決勝戦では近大付高の金城龍彦との投げ合いとなった。
PLは3点を先取し、松井も4回まで1安打ピッチングだったが、5回に連打で2点を取られ、7回にも金城の二塁打がらみで逆転を許す(3-5)。
8回にもスクイズで1点を追加され、3-6で敗れた。
試合後にはベンチ横で涙を流す一幕もあった。
1993年のドラフト会議で西武ライオンズが3位指名で交渉権を獲得し、契約金5000万円、年俸450万円(金額は推定)で入団した。
イースタン・リーグの試合では悪送球をいくつもしたといい、24失策を記録。
走塁も素人同然で、スライディングやヘッドスライディングの技術は皆無であり、どんなタイミングだと頭から帰ればいいのかもわからず、足がベースまで届かずにタッチアウトになったこともあったという。
同年のイースタン・リーグでは打率.260、4本塁打、11盗塁を記録した。
松井の努力により、左打者の打ち方をみるみるうちに吸収していった。
この年の一軍出場はなかった。
1995年、マウイキャンプの際、同じ遊撃手の奈良原浩の守備が溜息が出るほど上手であり、奈良原の動きを後ろからじっくり見て、少しでも近づけるように真似をさせてもらったという。
4月5日の近鉄バファローズ戦で一軍初出場し、2日後の日本ハムファイターズ戦で代打で初打席に立ち、初打席、初安打、初打点を記録した。
その後試合に出る機会が少なく二軍に落ちる。
10日間ほど試合に出たらすぐに一軍に上げてもらえるということだった。
その後一軍に上がると、以降は西武を退団するまで一度も二軍に落ちなかった。
この年は69試合に出場し、21盗塁を記録。
盗塁死はわずか1で、盗塁成功率は.955を記録した。
オフにはウインター・リーグに参加した。
1996年、開幕から遊撃手のレギュラーを掴んだ。
序盤は打てず、早出特打ちに励んだ。
夏には調子を上げ、9月には初の月間MVPを受賞。
シーズンを通して全130試合にフル出場し、リーグ2位の50盗塁を記録。
盗塁死は9で、盗塁成功率は.847を記録した。
本塁打は1本に留まったものの、打率はリーグ9位の.283を記録。
この年から不動のレギュラー遊撃手として活躍し、西武を退団する2003年まで全試合に出場し続けた。
オフには『筋肉番付』で活躍し、若い女性ファンを中心に人気が爆発したという。
1997年、前半戦だけで39盗塁を記録し、その内三盗は9度走り全て成功。
打率も前半戦終了時点で.318を記録し、オールスターゲーム初出場を果たす。
オールスターゲーム第1戦では1試合4盗塁の新記録を樹立しMVPを獲得。
4盗塁は12球団No.1の盗塁阻止率を誇る古田敦也から決めた。
4盗塁目は澤崎俊和と古田のバッテリーが松井に細心の注意を払ったにも関わらず三盗を決め、オールスター戦史上初の1試合に三盗を2度成功という記録も同時に達成した。
またオールスターのスピードガンコンテストでは球速149km/hを記録した。
第2戦でも古田から1つ盗塁を決め、シリーズ新記録となる計5盗塁を記録した。
優勝決定試合では同点本塁打を放った。
同年は初めて打率を3割に乗せ.309でリーグ4位となり、62盗塁でパ・リーグ盗塁王になるなどリーグ優勝に貢献。
62盗塁中三盗は二桁に上った。
1998年、6月26日からの福岡ダイエーホークス3連戦で連続猛打賞を達成するなど、1試合3安打以上は21回記録。
また、6月28日のダイエー戦ではプロ野球史上4人目、パ・リーグ史上初の初回先頭打者ランニング本塁打を記録した。
2年連続となる盗塁王に輝き、打率もチームで唯一3割台に乗せた(.311、リーグ5位)。
その他、連続試合出塁39試合、そして前述の猛打賞21回はリーグ1位だった。
1999年、それまで1、2番で起用されることが目立ったが、シーズン途中には3番に定着。
猛打賞17回はリーグ1位であり、得点圏打率.324は諸積兼司に次ぐリーグ2位、出塁率.389も2位の大島公一には5厘差、3位の吉永幸一郎には3厘差に迫るリーグ4位と好成績を残した。
シーズン序盤では1、2番での起用も目立ったが、それ以降は3番での起用が多く、一時は4番として起用されることもあった。
2001年、前年に続き主に3番で起用される。
オールスター第1戦以来2度目のMVPを獲得。
守備面では失策が前年に比べ減少し、守備率を.980台に乗せた。
また、この年でベストナイン受賞は5年連続となり、パ・リーグ遊撃手としては大橋穣の連続受賞記録(1972年-1976年)に並んだ。
2002年、開幕から1番で起用された。
33盗塁を記録し、史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリーを成し遂げた。
2000年から3年連続で3割20本20盗塁も記録。
守備面では前年に比べより守備率を向上させ.985とし、4年ぶりとなるゴールデングラブ賞を受賞した。
ベストナイン投票ではパ・リーグ遊撃手部門にて満票で選出され、6年連続での受賞。
同年でNPB通算4000打数に到達し、通算打率は.311で同年終了時点で歴代8位、遊撃手では歴代1位に立った。
2003年、守備でも2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞したものの3年ぶりに守備率が.980を下回るなど走攻守全てで精彩を欠いた。
通算記録では前述の300盗塁の他、150本塁打を達成。
シーズン終了後にはアテネオリンピックのアジア予選に出場。
オフには8月24日に取得したFA権を行使し、アーン・テレムを代理人とし、11月17日にメジャー挑戦を表明。
2003年12月10日にニューヨーク・メッツと3年2010万ドル+出来高で契約した。
開幕戦である4月6日のアトランタ・ブレーブス戦で、前年度に21勝を挙げたラス・オルティスからメジャー史上初となる開幕戦新人の初球初打席本塁打を記録した。
しかしその後は4月までで打率.256、2本塁打、OPS.758、1盗塁[86]とやや停滞。
5月のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではランディ・ジョンソンから本塁打を放つなど、5月までで打率.265、5本塁打、OPS.783、6盗塁を記録。
しかし6月には月間打率.223を記録するなど不振に陥り、6月25日のシンシナティ・レッズ戦に欠場し、西武時代から続いていた連続試合出場が1213試合でストップした。
しかしながら7月には2日のニューヨーク・ヤンキース戦(サブウェイ・シリーズ)で2本塁打を放つ活躍を見せ、同月29日までで月間打率.339、OPS.904を記録していたが、7月30日のブレーブス戦で二塁カバーに入った際に激しいスライディングを受け、左足脛を負傷する。
その後も強行出場を続けていたが痛みが引かず、8月4日のミルウォーキー・ブルワーズ戦に欠場。
7日のセントルイス・カージナルス戦で2番・遊撃でスタメン復帰し2安打を放ち、8日から3番に座ったが、11日に腰痛で欠場。
15日まで5試合連続で欠場し、16日には故障者リスト入りとなる。
8月以降は合計12試合にしか出場できず、最終的にシーズン全162試合中114試合にしか出場できなかった。
シーズン通算では1年目から規定打席をクリアしチーム最多となる125安打、32二塁打、2三塁打を放った一方、打率.272、7本塁打、OPS.727、14盗塁とやや物足りない成績に終わった。
オールスター前までに7本塁打、12盗塁を記録していたのに対しオールスター明けは故障もあり本塁打は記録できず、盗塁も2盗塁に終わった。
遊撃守備については失策数の多さが目立った。
最終3試合は二塁手として出場している。
2005年、前年シーズン後半に腰痛で約1カ月半戦列を離れたことからケガをしないことを目標に掲げた。
開幕戦のシンシナティ・レッズ戦で、前年に続き初打席で本塁打を放ち、2年連続開幕戦初打席本塁打を記録。
6月16日のオークランド・アスレチックス戦では二塁上でジェイソン・ケンドールと交錯して故障者リスト入り。
復帰後は9月16日のブレーブス戦までで12試合連続安打を記録するなど打率.309、OPS.777を記録していたが、そのブレーブス戦で右太ももの裏側に違和感を訴え、9回の守備から退き、その後は欠場が続いた。
27日のフィリーズ戦で代打で10試合ぶりに出場するもセカンドゴロに倒れ、連続試合安打が12で途切れた。
結局今季は8月以降は好調だったものの87試合の出場に留まるなど、前年の成績を下回った。
2006年、自主トレは「けがをしない体づくり」をテーマに行った。
しかし3月16日のオープン戦で滑り込んだ際に右ひざを痛め、マイナーで開幕を迎える。
メジャー昇格初戦となった4月20日のサンディエゴ・パドレス戦の初打席では日本人初のランニング本塁打を打ち、メジャー4人目となる3年連続シーズン初打席本塁打を達成。
しかし、打率は.200と低迷した。
2006年6月9日にイーライ・マレーロ(クリス・マレーロの叔父)との交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍した。
2006年、6月12日にAAA級コロラドスプリングスに合流。
ロッキーズでの守備位置がまだ確定しておらず、この日は2年ぶりに遊撃を守った。
21日にまたも腰痛で欠場。
7月24日に復帰し、8月22日にメジャーに復帰した。
移籍後の同年のメジャー成績は32試合出場、打率.345、2本塁打、19打点、8盗塁、OPS.896。遊撃手、二塁手、代打で出場した。
2007年、腰痛で離脱し、5月15日に復帰した時点でチームは16勝23敗と大きく負け越していたが、復帰した松井が2番に固定され、ウィリー・タベラスとの俊足コンビが復活して以降チームは好調。
終盤にはタベラスの離脱により、「1番・二塁」に定着。
チームの終盤14勝1敗という驚異的な快進撃にトップバッターとして貢献。
チームはワイルドカードによるプレーオフ進出を果たした。
ポストシーズンでは、10月4日のフィラデルフィア・フィリーズとのディビジョンシリーズ第2戦で逆転満塁本塁打を放つ。
リーグ初優勝を決め、球団創設以来初となるワールドシリーズ出場を果たした。
ワールドシリーズでは元チームメートの松坂大輔や岡島秀樹が所属するボストン・レッドソックスとの対決となり、第3戦には松坂から初回先頭打者安打を放った。
チームは第4戦で敗れたが、自身のポストシーズン通算成績は打率.304、OPS.847と好成績を残す。
同年は前述の離脱やジェイミー・キャロルとの併用もあって104試合の出場に留まり、規定打席には到達できなかったものの、中盤以降は二塁の定位置をほぼ手中にした。
8月終了時には打率3割を誇り、最終的に.288を記録]。
また、リーグ9位となる32盗塁を記録し、盗塁死4で成功率.889を記録。
rWARでは3.4を記録し、MLBのスタメン二塁手30人中12位と、少ない出場数にもかかわらず高位置につけ、メジャートップクラスの二塁手に成長したと評された。
オフにはFAとなった。
2007年12月2日にヒューストン・アストロズと3年総額1650万ドル(約18億3000万円)で契約。
2008年、スプリングトレーニングでは6試合で打率.333、OPS.794を記録していたが、開幕直前に臀部の手術により戦線離脱。
復帰後は2番打者として起用され、チーム打撃成績は著しく上昇した。
病気や故障に悩まされ、100パーセントの状態でプレーできたゲームは皆無と言っていいにも関わらず走攻守すべてで活躍を果たした。
同年は打率.293を記録し、MLB通算打率は.277に上昇。
岩村明憲に次ぐ日本人内野手歴代2位に浮上した。
2009年、5月20日のブルワーズ戦で、セシル・クーパーは松井を2番に据えたと思ったが、実際に登録されたスタメンでは松井を1番に据えた。
この年も故障で離脱があったもののメジャー移籍後最多となる132試合に出場しメジャー移籍後2度目となる規定打席到達を果たしたこともあり、本塁打等で自己最高の成績を残した。
得点圏打率は.323であり、得点圏OPS.952は日本人最高値で、歴代でもシーズン記録としては日本人2位、特に満塁の場面では8打数5安打10打点であった。一方で二年連続で20盗塁以上を記録していた盗塁数は19に終わり、打率は.250に沈んだ。
2010年、スプリングトレーニングでは打率.293、2本塁打、OPS.844と好調で、開幕戦でも2安打を放ったが、翌日の試合では先発を外れる。
その後、コロラド・ロッキーズとマイナー契約を結び、傘下のAAA級のコロラドスプリングスでプレー。
メジャー昇格を目指すものの、昇格することなくシーズンを終えてFAとなり、代理人のアーン・テレムとの契約も解除した。
MLBでは合計7年間プレーし、通算615安打を記録。
7年間ですべてのMiLBの組織を経験した。
2010年11月25日に東北楽天ゴールデンイーグルスと総額3億円の2年契約を結び、29日に仙台市内で入団会見を行った。
2011年、7月までは打率.235、4本塁打、OPS.618と打撃不振に陥っていたが、8月には26試合で打率.333、3本塁打、14打点、OPS.852と活躍し、自身5度目の月間MVPを受賞した。
当初はクリーンナップでの起用がよく見られたが、後半からは1番に定着。チーム3位の打率.260、9本塁打(同2位)、48打点(同1位タイ)、OPS.675(同2位)、15盗塁(同3位)とチーム内では上位の成績を残し、リーグトップの二塁打数を記録した(34本)。
2012年2月3日に東北楽天ゴールデンイーグルス2代目主将に指名された。
106試合に出場し、いずれもリーグ平均を上回る打率.266、OPS.720を記録した。
更に牧田明久と並ぶチーム最多、リーグ11位の9本塁打、チーム2位、リーグ10位の14盗塁を記録。前年に続き盗塁成功率は8割を上回った他、シーズンサヨナラ安打を3本、内1本はサヨナラ本塁打を記録した。
DELTA算出の選手総合評価指標WARではチーム野手トップ、投手を含めても田中将大に次ぐチーム2位の数値を記録した。
通算成績では10月5日の日本ハム戦にて、日米通算200本塁打を達成した。
オフの12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され候補入りした。
2013年、開幕前の2月20日に、第3回WBC日本代表選手28人が発表され代表入りしたが、同大会では無安打に終わる。
2年ぶりに規定打席に到達。
チームは球団創設後初となるリーグ優勝を果たし、セレモニーではキャプテンとして、選手を代表して優勝旗を授与され、優勝会見では喜びを露わにした。
自身初の経験となるクライマックスシリーズでは、第4戦でも2安打を放ち、チームのCS優勝と日本シリーズ進出に貢献した。
日本シリーズでは全7試合にフルイニング出場。
第4戦、第5戦、第6戦でもマルチ安打を記録。
シリーズ通算では2013年の日本シリーズ出場選手中最多安打(9安打)を放ち、打率も出場選手最高の.33を記録した他、再三好守備を見せ、チームの日本一に貢献した。
西武時代を含め四度目で初の日本一であり、MLB時代を含めても初のポストシーズン制覇となった。
優勝祝勝会ではチームキャプテンとして、乾杯音頭を務めた。
2015年、同年より外野手登録となり、外野手へ本格転向。
最終的にUZR0.5と平均を上回る数値を残した。
データスタジアム版のUZRでも右翼手としてリーグ1位のUZR9.7を記録した。
2016年、最終的には54試合出場、打率.213、本塁打2、打点13と楽天入団以降最低の成績で終わった。
オフには56%減となる年俸7000万円で契約更改した。
2017年、4月22日のソフトバンク戦で加治屋蓮から本塁打を放ち、NPB通算200本塁打を達成した。
NPB史上100人目の達成で、スイッチヒッターとして2000本安打と200本塁打の達成はNPB史上初。
2017年11月16日、古巣・西武へ15年ぶりに復帰することが発表された。
また、新たに設けられるテクニカルコーチを兼任することもあわせて発表された。
2019年シーズンから埼玉西武ライオンズ二軍監督に就任することになった。