「人生熱男」~松田宣浩(福岡ソフトバンクホークス)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

松田宣浩(福岡ソフトバンクホークス)名言集

父が高校野球選手として甲子園に出場していたことが、ひとつのきっかけとしてあります。当時はテレビをつければ野球中継が放送されていて目にする機会も多かったこともあり、自然と野球をする環境にありました。気が付いたら野球をしていた。小学2年の頃、双子の兄と一緒にグローブを買ってもらいキャッチボールから始め、兄とともに地元の野球チームに入団しました。

幼稚園に入った3歳の頃からスイミングをやっていたので、それが大きかったと思いますね。小学校の頃は足の速さを買われて陸上部に借り出されたこともありました。中学になると野球に専門的に取り組み始め、身体の成長や練習量、メニューにより、さらに足は速くなりました。

下級生がグランドの整備をしたり、雑用をするのが、学生スポーツの常だと思いますが、亜細亜大学は逆でした。下級生が先に練習を終えて、上級生が残ってグランドを整備するというのが伝統としてありました。上級生は、後輩が使いやすいグランドに、という後輩を思う気持ちが強くなりましたし、後輩だったころには、先輩に対する感謝が芽生えましたね。

大学の時は毎日野球日誌を書いていましたね。書いて気付くこともあるし、見返すこともできる。練習のことはもちろん、本を読んで心に響いた言葉とか、ニュースで気になったことを書いていましたね。書くということは今にも繋がっていて、『今月は何本ホームランを打つ』とか目標を書いています。書くこと、書いたものを目にすることで目標への意識が明確になります。

学生時代はどちらかというと無口でした。大学時代は誰よりも早くグランドに入り、最後まで残って練習をしたりと、背中で引っ張るタイプでした。学生時代の友人からは『お前なんでそんなに元気なん?』と言われるくらい、キャラは違うと思います(笑)

まずは振る力、飛ばす力をつけない限り、技術をつけても1軍のピッチャーは打ち返せないと思う。今の(ソフトバンクの)若い選手もそうですけど、やっぱり(2軍で)振らされますし、遠くに飛ばします。ファームの成績もいいですし、いい伝統だと思います。僕もしっかりバットを振ろうと思っています。

基礎を地道に積み重ねるほうが早く成長する。

若いうちから頭でっかちになって考えるよりも、まずは何も考えずに振り続ける。打ち続ける、振り続ける、守備ならボールを追い続ける。数をこなすことは、プロ野球選手は難しいんです。でも、その大事さは(ソフトバンクに入団したことで)分かりますね。キャンプの時、僕たちはまずは結果よりも数をこなしたいという思いがあります。柳田も当然、それの代表格です。今宮も守備に関しては人一倍(ノックを)受けてます。そういう意味では、練習量は自然と結果に比例すると思います。

熱い気持ちで野球ができんくなったら、ユニフォームを脱がないといけないな。

主力の選手が何をアドバイスしてくれるかというと、それはないんです。背中で引っ張るというか、実際に同じ施設で練習する機会がキャンプであったりするんですけど、そこで自分とのレベルの差を感じたりする。僕も、小久保さん、松中さんがバリバリの時に若かったので『すごい飛ばしてるな』『すごい練習しているな』というが目に入ってきた。今の若い選手も、柳田が飛ばしたり、僕が飛ばしたり、内川さんが飛ばすのを見ると、負けたくないと思うはずです。いい伝統だと思います。

状態が悪いときはボールを長く見られない。それで差し込まれてしまう。差し込まれないためには前で打たなきゃならない。だから長く見て、前で打つんです。

僕は、1年を棒に振ってもまだ何年かある、という考えは嫌です。何歳までやろうとかは考えていませんが、この1、2年バリバリできたら、当然ユニホームを脱ぐ必要はなく、3年目、4年目につながる。ピッチャーだったら、肩の消耗とかあるので、(長期契約を結んでも)いいと思うけれど、僕は野手として、毎年全試合出場を心がけてきた。この年齢だからこそ、4年スパンより2年スパンの方がいいと思いました。ずっと試合に出ながらやってきて、代打とかはやったことないので、そういうのも難しい。契約に甘んじてダラダラするのもね……。成績を残せなくなってもなお長く居座ろうとは、思わないです。

いつしか『鍛える』ということを忘れがちになる世界だから、僕はもっと鍛えないといけない。

やっぱり野球は打つだけじゃない。どうしても、ピッチャーだったら速い球を投げる、バッターだったら遠くに飛ばす、こういう部分だけがクローズアップされがちです。ホークスは大雑把(な野球)で勝っていると見えがちなんですけど、細かいところはやっぱり厳しく、口酸っぱく言われている。(気を)抜けるところがないので、集中している。『キャッチャーが弾いたらすぐ(次の塁に)行け』と常に言われます。それは、ファームの時からずっと言われ続けています。

僕はベテランって言葉があまり好きじゃなくて、大人の野球選手って言うんです。

打順やポジションに正直こだわりはないです。 3番でも、例えば1番でも、7番でも、「松田のバッティング」に期待してもらって、起用されていると思うので、自分のバッティングをするだけですからね。 初球から積極的に立ち向かう、この姿勢で打席に立っているのは同じですよ。 もちろん、3番サードとして起用してもらえるようにバッチリ鍛えますよ。

チームのスローガンなんでね。自分が率先してやることで、ファンの皆さんにも浸透していけばいいなって思いました。

2011年に川崎宗則選手がメジャーへ移ったのですが、オフに入ってから川崎選手から『俺の代わりをお前がやってくれ』という言葉をいただいたんです。それなら、自分が責任をもってやろう、というのが2012年のスタートでした。川崎選手のキャラクターを引き継いだわけだから、頑張ろうと。ただ、選手として試合で結果を出すことは大前提にあります。プレッシャーと付き合いながらではありますが、数字と元気なキャラクターという二つのミッションをしっかりクリアしようと決めて、臨んできました。

熱男っていうスローガンは、結果的に自分のプレースタイルに一番合っているなって、あれをやっていくうちに感じたんでね。もう個人のスローガンになりました。僕は40になってもやりますよ。ユニフォームを着ている間はやり続けます。そういうおっさんがいたっていいじゃないですか。

ひとこと言いたいのは、最近、ポスト内川さんとか、ポスト松田という言葉を聞きますが、プロはアマチュアと違って、僕と内川さんが年を取ったからといって卒業していくわけではない。実力社会、数字社会だぞと。

2015年のチームのスローガンが「熱男」だったんです。たまたま選手会長をしていたので、熱男というのを広めたいというのをやり初めて、早5年になりました。松田宣浩というより、“熱男”で売り込んでいるので…(笑)。よろしくお願いします。

プライベートは寒男です(笑)

日の丸を背負って戦う、特別なものを感じたんです。最初に日本代表に選ばれたのは亜細亜大学1年生の時の大学日本代表でしたけど、その時も特別な感情になりました。誰もが味わえるものではないからリスペクトをするのは当然。だって国を背負って戦うんですよ。なかなかできない経験です。今のプロ野球の若い選手たちも、心の中では侍ジャパンへのあこがれを持っているかもしれないけど、もっともっと口に出してほしいです。

個人の能力勝負だけで勝てるものではないんです、野球は。侍ジャパンだってその時々の旬な選手が集まって戦っているんです。それでも10年間勝てなかった。そこに僕は気付いたんです。野球選手は僕だけじゃなくてみんな声は出しています。だけど、寄せ集めの代表チームでは、なかなか自チームと同じようにできていなかった。これは良くないと感じて、雰囲気づくりを重要視するようになりました。

若い頃にできなかったことができるんですよ。かつては頭では考えることができていても、体が動かなかったり、結果が出なかったりした。それが、歳を経て実績が伴っていくに連れて頭で考えていることをプレーとして表現しやすくなった。イメージが実際のプレーと数字に比例してきた感覚といえばいいんですかね。

僕はイメージで野球をやるタイプなので、そのイメージ通りに自分の体が動いているかがバロメーターになっています。 数字は最終的には同じところに落ち着くんですよ。5、6月には「今年は3割いける」って周りから言われていても、最終的には2割6分5厘くらいだよな、と思っていて実際にそうなるし(笑)、今年ちょっとホームラン少ないと思われていても、最終的には30本くらいになる。 1年間ちゃんとやれば大体の数字が見えているので、目の前の数字に一喜一憂することはないんです。

35年間生きてきた中で野球しかしてこなかったことに、少し後悔があるからです。他のことにも挑戦して、何でもかじり取ったほうがよかったと、今なら思いますね。一つの専門分野でプロとなれたこと、頑張った自分がいるのは確かですが、違う物事に触れることで経験した学びは、感覚として必ず残る。今のプロ野球選手としての立場でも、そうした視点は必ず役立つと思いますし、これからの時代を生きていくためには、一つを極めるだけでは足りない、と感じています。

「人生熱男」ですよね。やっぱり、この言葉と出会ってから僕も変わりましたし、チームも変わりました。プロ野球選手である以上、「松田宣浩」という言葉もあるけど、「人生熱男」という言葉が常につきまとっているので、今年も熱く若く元気に戦っていきたいと思います。

誰よりも元気を出すと目立ちますよね。そこで結果を出せなかったら『なんやあいつ、それだけかい』って言われるじゃないですか。僕、それが嫌だったんです。だから『元気を出す以上は、絶対に結果を出さないといけない』ってね。

年齢を問わず、試合に出ている選手ほど声を出さなければならないと思う。(ベテランになったら)声を出さなくてもいいという考えは、甘えや緩みになり、技術向上を妨げる気もします。

僕が自信を持っているのは、2年連続30本塁打を打てているところ。若い選手もよく『30本塁打を狙う』とか言いますけど、『打ってみろ』と言いたい。これは経験者だから言えると思うんですけど、並大抵のことでは無理ですよ。僕はどれだけ難しいかをわかりながら達成しているんで。そういう意味で、若い選手の壁になりたい。だから『3年連続30本』と口にし、それだけの準備と用意をしています。

元気と熱さと若さ、です(笑)。この3つを常に持って続けてきたことにあると思いますね。あとは、自分に限界を定めないことですね。13年の間に経験も実績も上げてきて、自分には年々パワーがついていると思うんです。今年も30本打ったように。経験値はどんどん上がっていき、さまざまな経験を積み重ねた上で今がある。これは試合に継続して使ってもらえているからこそ味わえる気持ちだと思います。こう感じられることは、幸せですね。

でも、ただ年齢を重ねていけばいいのかと言うと、僕はそれでは意味がないし、人として広がらないと思っていて、勝ったり、実績を上げていった経験値があって初めて、自分に対して自信をつけていくことができるのではないでしょうか。

太く短くの典型でありたい。細く長くでは、熱男じゃなくなりますから。

松田宣浩(福岡ソフトバンクホークス)とは?

松田宣浩。

1983年5月17日に滋賀県草津市矢橋町で生まれた。

双子の兄とともに草津市立老上小学校2年生の時に矢橋レモンズで軟式野球を始めた。

中学校では栗東ボーイズに入り、硬式野球に転向した。

兄とともに中京高等学校に進学、主に3番・遊撃手で出場し、高校通算61本塁打を記録した。

2年時に第82回全国高等学校野球選手権大会に出場も、対沖縄県立那覇高等学校戦で延長の末、自らの悪送球で決勝点を与え、1対2で初戦敗退した。

高校卒業後、宣浩は亜細亜大学へ進学、兄はトヨタ自動車野球部に所属し、初めて兄とは別のチームに所属することとなる。

亜細亜大学入学後は、1年春(2002年)から4番を任され東都大学リーグ戦に出場し、同シーズンで3本塁打と力を見せた。

同年は第1回世界大学野球選手権日本代表メンバーに選出されて5番を務め、3位に貢献した。

2003年も2年連続で第35回日米大学野球選手権大会日本代表メンバーに選出された。

リーグ戦でも秋季だけでシーズン6本塁打を記録、井口忠仁(青学大)が持つリーグ通算24本塁打の記録更新も期待されていた。

しかし、3年時に部員の不祥事が発覚し、亜細亜大学は半年間の対外試合禁止の処分を受けた。

その結果リーグ戦、入替戦は不戦敗扱いとなりリーグ2部へ降格となったため、松田が在籍中の1部復帰は不可能となり記録更新はならなかった。

その後、亜細亜大学は主将に就任した松田を中心に2005年秋のリーグ2部で優勝し、1部へ復帰した。

1部リーグでは通算76試合出場、275打数62安打、打率.225、15本塁打、41打点でベストナインを1回獲得した。

2部リーグでは通算10試合出場、37打数9安打、打率.243、4本塁打、10打点を残した。

2005年11月18日に行われた大学生・社会人ドラフト会議にて希望入団枠制度により選択され、12月2日に仮契約を行い福岡ソフトバンクホークスに入団した。

12月5日に入団会見を行い、背番号は「5」に決まった。

ソフトバンクはチームの若返りを図る方針へ転換し、同年27本塁打を記録した正三塁手のトニー・バティスタとの契約を1年残して打ち切り、松田を江川智晃らと競わせるとし、二塁手へのコンバート案も挙げていた。

2006年は開幕一軍入りを果たすと、3月25日のパシフィック・リーグ開幕戦でスタメン出場。

新人野手が一軍の開幕戦にスタメンで出場したのは、小久保裕紀以来チーム12年ぶりだった。

同月28日の対西武ライオンズ戦で帆足和幸から初安打を記録する。

4月22日には初の本塁打を放つが、6月15日に二軍落ちすると、そのままシーズンを終えた。

2007年は前年まで読売ジャイアンツに在籍していた小久保裕紀がチームに復帰したため、シーズン前半は出場機会がなかった。

しかし二軍で打率.331、チームトップの9本塁打の好成績を残し、多くの故障者を抱えるチーム事情から6月に一軍に昇格し、そのまま一軍に定着。

8月には月間打率3割を記録し、200に満たない打数で7本塁打と長打力の片鱗を見せた。

2008年は三塁手のレギュラーに定着。

長期の離脱もなくシーズン通して活躍し、打率や本塁打など前年に比べ確実な成長を見せた。

6月1日にマーク・クルーンがプロ野球記録となる球速162km/hを記録した時の打者でもある。

9月29日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、初回に岩隈久志から本塁打。

これは同シーズンに岩隈がパ・リーグの選手から打たれた唯一の本塁打となった。

同年10月、九州朝日放送の柴田恵理アナウンサーと結婚。

2009年は秋山幸二新監督体制の目玉の一つとして3番打者に指名されていたが、開幕戦で一塁へ帰塁した際に右手甲を骨折し離脱。

6月5日のセ・パ交流戦、広島東洋カープ戦で一軍に復帰し、勢いに乗るチームと共に活躍を見せたが、7月18日の千葉ロッテマリーンズ戦で唐川侑己から死球を受けて右手首を骨折。

46試合の出場に終わった。

2010年4月18日の楽天戦で9回裏に田中将大からプロ入り初のサヨナラ打を打った。

5月4日の対オリックス・バファローズ戦で山本省吾から自身初の満塁本塁打を打った。

5月9日に左手首を骨折のため離脱したが、6月22日の日本ハム戦で一軍に復帰。

7月10日のロッテ戦では普段守らない左翼手として先発出場した。

年間で打率こそ.255だったが、19本塁打、71打点、17盗塁と本塁打、打点、盗塁で自己最高の結果を残し、優勝に貢献した。

2011年4月17日の埼玉西武ライオンズ戦で自身初のサヨナラ本塁打を含む2本塁打を、20日と21日には2試合連続の本塁打を放った。

4月はリーグ2位の4本塁打、同2位のOPS1.014を残した。

7月22日からおこなわれたマツダオールスターゲーム2011において、ファン投票で初選出された。

その後も打撃は好調で、松中信彦、小久保、アレックス・カブレラが相次いで離脱した9月25日以降は最終戦まで4番を任された。

結果的に自身初めて全試合にフルイニング出場し、いずれも自己最高の打率.282、25本塁打、83打点、27盗塁、OPS.854を記録し、リーグ連覇に大きく貢献した。

西武と戦ったクライマックスシリーズファイナルステージでは、4番にはカブレラが座り松田は5番で出場、第2戦で決勝点となるソロホームランを放ったものの、全3戦で打った安打はこのホームラン1本だけで、13打席10打数1得点1安打1本塁打1打点2四球で打率.100と、レギュラーシーズンと比べると結果は良くなかった。

プロ入り後初の出場となる日本シリーズでは、カブレラの不振により第1戦・第2戦では4番・三塁手としてフル出場したものの、この2試合で2安打無打点1盗塁と4番としての役目は果たせなかった。

小久保と入れ替わる形で第3戦で5番に打順が下がるとすぐに1安打1打点と、以降第5戦までは5番、松中がDHスタメン出場した第6戦・第7戦では6番で出場して得点にからむ安打・犠打・盗塁及び第5戦での押し出し死球での1打点などは出たものの、7戦通しての成績は28打席25打数2得点4安打2打点3盗塁1犠打1四球1死球5三振で打率.160に終わった。

シーズンオフの12月1日におこなわれたプロ野球コンベンション2011においてゴールデングラブ賞を初受賞を果たした。

2012年は、一時、盗塁数がトップを記録するなど開幕から好調であったが、5月から本塁打数と盗塁数が減少し、徐々に失速。

それでも中盤まで首位打者争いで上位につけるなど、高打率を維持し、7月20日からおこなわれたマツダオールスターゲーム2012において、2年連続2回目のファン投票での選出となった。

しかし8月1日の楽天戦で美馬学から死球を受け、右第4中手骨骨折で全治3ヶ月と診断される。

骨折するまで9本塁打、56打点と好調だった。

しかし、シーズン終盤の10月5日のオリックス戦から復帰した。

シーズン通算では怪我もあって、95試合の出場、9本塁打に終わるも、打率は規定打席未到達ながら3割、盗塁数は16個を記録した。

オフの11月6日に「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表に選出された。

12月4日には第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表候補選手34人に選出されている。

また2017年からは背番号を5から自身が侍ジャパン強化試合で付けており、かつ尊敬する元巨人長嶋茂雄の付けていた3に変更する。

2013年2月20日に第3回WBC日本代表選手28人に選出された。

同大会では主に「9番・三塁手」として活躍。打率.333、5打点を記録し、準決勝進出に貢献した。

シーズンでは、4月11日のオリックス戦ではサヨナラ本塁打を放った。

シーズン序盤は打率が2割3分台まで下降するなど低調だったが、交流戦に入ると徐々に調子を上げ、チームの4番に定着。

内川聖一、長谷川勇也らと強力なクリーンナップを形成し、6月13日のセ・パ交流戦、対ヤクルト戦ではプロ初の1試合5安打をマークするなどチームの交流戦優勝の原動力となった。

7月19日からおこなわれたマツダオールスターゲーム2013において、3年連続3回目のファン投票での選出となった。

夏場以降は好不調の波が激しく、柳田悠岐が頭角を現したこともあり、6番を打つこともあったが、最終的にはフルイニング出場を果たし、2年ぶりの20本塁打、打率.279、キャリアハイとなる90打点でシーズンを終えた。

同年2年ぶり2度目のゴールデングラブ賞を受賞した。

2014年から選手会長に就任。

レギュラーシーズンでは、5月13日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)で、涌井秀章からNPB公式戦通算9万5000本目の本塁打を放った。

また、オールスターゲームのファン投票および選手間投票では、パシフィック・リーグの三塁手部門でいずれも1位を獲得している。

しかし、7月2日の対ロッテ戦(福岡ヤフオク!ドーム)試合前練習中に、ノックの打球が右手人差し指を直撃。

同日の試合には出場したが、翌3日に病院で診察を受け、右人さし指末節骨骨折で全治に6週間を要することが判明した。

結局、3日付で出場選手登録抹消。

2012年10月5日対オリックス戦からの公式戦連続フルイニング出場記録が218試合で止まった。

また、7月4日には、球団を通じてオールスターゲーム出場の辞退を届け出。

結局、一軍復帰は8月26日の対日本ハム戦まで持ち越された。

復帰後は、9月10日の同カードで、大学の先輩に当たる木佐貫洋から球団通算8,000号本塁打を記録。

レギュラーシーズン最終戦であり、勝てばリーグ優勝という状況であった10月2日の対オリックス戦では、1対1で迎えた延長10回裏1死満塁の場面で比嘉幹貴から左中間へサヨナラ安打を放って、チームのパシフィック・リーグ優勝を決めた。

この安打は、スカパー!が選ぶドラマティックサヨナラ賞で、同リーグの年間大賞に選ばれている。

クライマックスシリーズ突破を経て臨んだ阪神タイガースとの日本シリーズでは、第3戦まで不振に陥っていた。

しかし、10月29日の第4戦では先制2点打、翌30日の第5戦ではチームをシリーズ制覇に導く適時打を放っている。

また、日本シリーズ後に開催された日米野球の日本代表に選出された。

11月14日の第2戦(東京ドーム)では、MLB選抜に選ばれていた元チームメイトの和田毅(シカゴ・カブス)から、チームの大会第1号本塁打(ソロ本塁打)を放った。

2015年はシーズン開幕前の2月16日に「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出された。

3月10日の第1戦に「6番 三塁手」で先発出場した。

3月11日の第2戦には代打で途中起用され、ルーク・ゾマーから三振している。

レギュラーシーズンでは主に6番打者として、シーズン序盤から好調を維持。

6月9日のセ・パ交流戦、対阪神戦(福岡ヤフオク!ドーム)で公式戦通算1000安打を岩田稔からの2点本塁打で記録。

7月5日の対オリックス戦では公式戦では自身初の1イニング2安打、同月12日の対ロッテ戦では公式戦通算1000試合出場、8月11日の対オリックス戦では金子千尋から公式戦通算150本塁打を達成。

最終的にはいずれも自己最多となる35本塁打・94打点をマークし、加えて2年ぶりにオールスターゲームにも出場した。

レギュラーシーズンの延長戦ではNPB史上3人目となるシーズン3本のサヨナラ本塁打を記録している。

チームの同リーグ連覇・クライマックスシリーズ突破を経て臨んだ東京ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、10月24日の第1戦で先制本塁打を記録。

シリーズでは自身の初本塁打であった。

オフの11月に開催された第1回WBSCプレミア12の日本代表に選出された。

同大会では1次ラウンド第4戦アメリカ合衆国戦で7回表2死満塁の打席で満塁本塁打を記録し、チームの決勝トーナメント進出に貢献した。

その一方で、6月17日に海外FA権を取得したことを受けて、プレミア12開催中の11月9日にこの権利の行使を宣言。

松田は王貞治ソフトバンク会長からの要請で残留を決断し、12月24日の記者会見で残留を表明。その際、「4年契約、総額16億円+出来高」の契約を結んだ。

2016年はシーズン開幕前の2月15日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表に選出された。

シーズンでは主に5番(64試合)及び6番(72試合)で出場したが、7月には1番打者を7試合務めた機会があった。

7月15日からおこなわれたマツダオールスターゲーム2016において、ファン投票での選出で2年連続5回目の出場を果たす。

全試合にスタメン出場したが、打率.259、27本塁打、85打点と前年より数字を落とした。

特に、8月10日の対オリックス戦では「あと1人」の場面で代走を出されて、これにより「全試合フルイニング出場」を惜しくも逃すこととなってしまった。

クライマックスシリーズ・ファイナルシリーズでチームは日本ハムに敗退したが、球団最多タイの3本塁打を記録した。

オフの10月18日に「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表に選出された。

12月22日、契約更改に臨み、複数年契約のため現状維持の4億円でサイン。

同時に、背番号を佐々木誠や松中信彦らが使用していた「3」に変更することが発表された。

2017年は、「侍ジャパンの開幕戦から、日本シリーズの最後まで、全部出続けたいと思います。それができたら本当に最高の1年になりますね」と位置付けてキャンプインした。

侍ジャパンの小久保裕紀監督は2017年のWBCでキャプテンは置かないとしているが、チームのまとめ役に松田を指名している。

試合の方では、本大会、日本代表最終打者となった。

WBC終了後の、レギュラーシーズンの開幕戦は7番で迎えた。

しかし開幕から不振に苦しみ、シーズンの1号本塁打は、4月30日の対オリックス戦まで待つことになった。

6月27日の対日本ハム戦では史上101人目となる200号本塁打を達成。

同打席では左翼ポール際への打球でビデオ判定が行われたもののファールとなり、その直後の投球で同記録を達成。

6月26日、マイナビオールスターゲーム2017にファン投票で選出され、2015年から連続で3度目の出場を果たす。

9月8日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)おいて、2ランホームランを放ち、城島健司に並ぶ球団歴代5位の通算211本塁打を記録する。

このシーズンでは、6月に1番(2試合)、4番(3試合)での起用があったり、7月下旬からは、内川聖一の負傷離脱の影響もあって、16試合連続で3番に起用され続けたりで、1番から7番のうち、2番を除く全打順で起用されたが、8月中旬からは6番での起用に落ち着いた。

最終的には、全試合スタメン出場を達成し、打率.264、24本塁打、71打点の成績でチームの2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

楽天とのクライマックスシリーズでは、10月22日の第5戦に2ランホームランを放つなど活躍し、日本シリーズに進出する。

横浜DeNAベイスターズとの日本シリーズでは、11月4日の第6戦で、先制ソロホームランを放ち、2年ぶりのチームの日本一奪還に貢献した。

シーズンオフの11月9日、5年連続5度目のゴールデングラブ賞を受賞する。

12月4日、福岡ヤフオク!ドーム内の球団事務所で契約更改交渉に臨み、4年契約の3年目となる来シーズンを現状維持の4億円プラス出来高(金額は推定)でサインした。

2018年は、シーズン途中に阪神タイガースから松田遼馬がトレードで加入したため、スコアボード上の表記が「松田宣」に変更されたが、本人の希望で8月3日の対オリックス戦から従来のものに戻った。

6月1日、打撃不振を理由に4年ぶりにスタメン落ちする。

工藤監督就任以降では初で、怪我以外での理由によるスタメン落ちは2009年以来だった。

7月13日からおこなわれたマイナビオールスターゲーム2018において、ファン投票と選手間投票でも得票し、4年連続7回目の出場を果たす。

シーズン後半になると徐々に調子を上げ、3年ぶりに30本塁打をクリアしたものの、打率は前半の不振も響き規定打席に到達したシーズンで初めて2割5分を下回った。

11月26日、6年連続7度目のゴールデングラブ賞とプロ13年目で自身初となるベストナインを受賞した。

12月18日、福岡ヤフオク!ドーム内の球団事務所で契約更改交渉に臨み、4年契約の4年目となる来シーズンを現状維持の4億円プラス出来高でサインした。

また翌年から背番号を3から2016年まで着けていた5に変更することも発表された。

2019年は開幕戦で通算1500本安打をホームランで達成する。

また4月5日におこなわれた対千葉ロッテ戦において1500試合出場を達成する。

5月3日の対東北楽天戦において、史上63人目となる250号本塁打を記録。

セ・パ交流戦では全18試合中15試合で安打を放ち、打率.348、23安打、7本塁打の成績で交流戦MVPを獲得する。

7月12日からおこなわれたマイナビオールスターゲーム2019において、ファン投票と選手間投票でも得票し、5年連続8回目の出場を果たす。

日本シリーズでは、4試合で打率.333(15打数5安打)、1本塁打、3打点の活躍で、チームは読売ジャイアンツに4戦全勝し日本一となる。

自身もその活躍により日本シリーズ優秀選手賞を受賞した。

これによりセ・リーグ全球団制覇を達成した。

シーズンオフの11月に開催された第2回WBSCプレミア12の日本代表に選出された。

11月26日におこなわれたNPB AWARDS 2019において、7年連続8度目のゴールデングラブ賞を受賞した。

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