兄が体操教室に行っていて、送り迎えについていっているうちに自分もやりたくなったんです。兄と弟にはさまれているので、小中学校の頃はすごく男っぽい性格でした。女らしいことはキライで、鬼ごっこやドッジボールばかりやっていました。性格もサバサバしていて、「ま、いいか」って感じです。ピアノを習っていたのですが、発表会でスカートをはくのがいやでたまらなかった(笑)。でも、小学校の頃はアイドルになりたかったんです(笑)。
美しくて強い体操がやりたいから、強い大学に入ろう、ということで日体大に入りましたが、最初は全然ダメだったんですよ。それが、大学3年の時に北京オリンピックの国内予選の試合で初めて9位になりました。そこで「あ、自分はこんなにできるんだ」と気がついたんです。
日体大では寮に入ったので、先輩に敬語を使わないといけないんですが、私は敬語なんて使ったことがなかったし、高校時代に反抗していた時も、親にもコーチにも叱られたことはなかったんです。それが、先輩にはビシビシ叱られた。でも、自分のことを真剣に叱ってくれたことがわかったので、自分のどこが悪いのかが逆によくわかりました。
大学1年の時に、足首の手術をして、練習ができなくて一人でリハビリをしている時に、自分がどれだけ体操が好きだったか、わかったんです。それから笑えるようになりました。
いきなりオリンピックを目指そうとしても、目指す山が高すぎて途中であきらめてしまうかもしれない。でも、頑張ったら手の届きそうな目標を段階的に置いてひとつずつクリアしていけば、きっと頂上までたどりつけるはず。
小1から体操人生が始まり、常に、体操ファーストで敷かれたレールの上を走ってきた私が、初めて自分の意思で引退を決意したのが26歳。とはいえ、引退自体は自然な流れでした。私の決断を周囲に猛反対されたのは、母校である日体大の教員職を、28歳で辞めた時です。田中家では、昔から、“大事なことは家族で話し合う”がルール。教員である私の父からは、「好きな体操に関わりながら、安定した生活を送れるのに辞めるなんてもったいない」と猛反対されました。でも、私は制約のない状態で、テレビの仕事も含めて、もっと好きなことをやりたかった。後悔しても失敗しても、自分の中で満足いくことをやっていきたかった。失敗したら考えればいい。ただ決められた人生を歩むのは嫌だったんです。
私は、県大会も日本選手権もオリンピックでも、(演技に臨む)気持ちは一緒でした。ただ、オリンピックの時は、自然と『頑張らなきゃ、失敗したくない』と欲が出てしまった。平常心でなかった。もし、いつものような気持ちだったら、もっといい演技ができたのでは、という思いはあります。でも、あのキラキラとした舞台で、演技ができたことは人生の宝物です。お父さん、お母さん、おばあちゃんも現地に来てくれて、恩返しもできました。あと、3年若かったら、もう1回出たいです(笑)
体操が大好きなんです。何でかな。でも大好きなんです。
日体大の理事長、学長という経由で依頼が来て……断われないと思いつつも、3回断わりました。スピーチが英語と聞いて(笑)。体操選手として、日の丸を背負うのと、招致委員会で背負うのは、また大きさが全然違うと思いましたし。ただ、一方でロンドン五輪後、燃え尽き症候群になりまして、体操を見るのも嫌だし、体育館に行くのも嫌という状態だった。目標がなくなって、何して生きていこうかと思っていた時の依頼でした。それが5月で、6月にはスイスでの総会で、英語でスピーチをしなければならないというスケジュールで。ホント、猛練習でした。そこで、繰り返しやっていた時、ふと体操に似ているな、と思ったんです。英語でしゃべっているのに、日本語としても自然と理解ができている。ああ、私、久しぶりに頑張っている、努力しているな、と。そこで、スイッチが入りました。気が付けば、手ぶりつきで、英語でスピーチしていました。
田中家が、「家族内では何でも話す」ことをモットーにしていたこともあって、私は何事も一人では背負い込まないタイプです。助けてくれる人がいたら、思い切って甘えます。
本当のことを言うと、365日、毎日憂鬱なんですよ。体操が本当に好きで、練習も好きだから1日6時間くらい練習するのですが、それが本当につらいんです。でも、そのつらい練習があるから強くなれる。試合で結果が出せたら、つらかったことはすべて忘れられます。結果がすべて、というわけではなく、練習してきたことを試合ですべて出せたらうれしいですね。
日常生活でもイライラしないようにしています。体操は、精神状態が不安定だと演技に影響が出てしまうのです。だから、基本的にはイヤなことは忘れるようにしています。いい方法かどうかはわかりませんが、繰り返すうちに心に余裕が出てきて、ストレスがたまらないようになります。失敗はとりあえず忘れる。反省は、試合の後でするようにしています。
子ども達の良いところを見つけて伸ばしてあげることが最優先。私も、現役時代は人に比べられ、悔しい思いをしてきたので。「楽しい」と思える芽を潰したくない。人が何かに夢中になるためには、「好き」という気持ちが一番大事だと私は思うのです。
試練が降りかかってきた方が、ワクワクする。たくさん悩みたいし、褒められると怖いし、うまくいきすぎると不安になる(笑)。
『人間、そんなに簡単に変われない』と、心のどこかで思っていたけれど、それは間違いでした。目指すべきものが見つかれば、人は必ず変われるんです。
理恵は理恵。そう思えるようになりました。
田中理恵。
1987年生まれ、和歌山県出身。
体操を始めたのは6歳のときから。
父親は体操クラブも開いており、母親も体操選手という体操一家で育った。
中学生の時は全国大会で活躍したが、高校時代は伸び悩み、弟によると情熱を失いかけて練習不熱心だったという。
この時、左足首の遊離軟骨を経験した。
高校卒業後は日体大に進学し左足の手術を行った。
大学3年となった2008年は北京オリンピック代表を目指したが出場を逃した。
2009年、全日本選手権で鶴見虹子に次ぐ2位に入賞し、一躍注目を集める。
同年6月に行われたNHK杯では、初日終了時点で2位に付けたものの、二日目は一転して段違い平行棒と平均台での落下が響いて順位を6位に下げ、世界選手権代表をあと一歩のところで逃した。
兄の和仁と兄妹そろっての代表入りは実現しなかった。
周囲の勧めも有り、大学院進学を決めた。
当初は大学卒業後、故郷・和歌山で高校の体育教員の道も考えていたという。
2010年の全日本選手権では4位入賞を果たし、NHK杯の出場権を獲得。
世界選手権代表入りへ大きく前進した。
同年6月のNHK杯では初日3位。最終日は総合4位となり、男子総合4位・種目別順位1位となった兄と共に、日本の体操界史上初となる兄妹同時の世界選手権代表入りを果たした。
同年7月に行われたジャパンカップでは安定した演技で団体総合の銀メダル獲得に貢献。
同年10月、ロッテルダムにて行われた世界選手権では女子団体で予選を8位で通過、決勝での5位入賞に貢献、個人総合も決勝進出を果たし、17位と健闘。
最も美しい演技で観客を魅了した選手に贈られる『ロンジン・エレガンス賞』を受賞した。
日本人選手がエレガンス賞を受賞したのは、2007年の冨田洋之以来2人目であり、女性としては初。
同年11月の広州アジア大会にも出場。
エースの鶴見が不振に陥る中、団体で銀メダル獲得に貢献。
更に個人総合でも銅メダル、跳馬でも銀メダルを獲得した。
なお日本人選手が跳馬でメダルを獲ったのは、1990年北京大会での瀬尾京子以来、20年振り。
同年12月に行われた全日本種目別では跳馬と平均台で優勝し、初のタイトルを獲得した。
2011年4月の全日本選手権では2位、6月に行われたNHK杯では2位になり、この大会では兄の和仁、弟の佑典と共に10月に東京で行われる世界選手権代表を決めた。
世界選手権では団体でのロンドンオリンピック出場権獲得に貢献。個人総合では20位。
2012年3月、日本体育大学大学院を修了。
5月4日、NHK杯体操女子個人総合において初優勝し、ロンドンオリンピック出場を決めた。
弟の佑典、兄の和仁も五輪出場を決め、3兄弟揃っての五輪出場は日本体操史上初の快挙となった。
オリンピックでは団体の2大会連続決勝進出(8位入賞)に貢献したほか、個人総合で16位の成績を収めた。
11月21日、2013年4月より日本体育大学児童スポーツ教育学部助教に内定。
2013年、2020年東京オリンピック招致団の一員として、6月15日にスイスのローザンヌで開催されたオリンピック委員会連合総会と、9月8日にアルゼンチンのブエノスアイレスで行われたIOC総会でスピーチを行った。
12月16日、日本体育大学世田谷キャンパスで記者会見を開き現役生活からの引退を発表した。
2017年1月1日に一般男性と結婚。9月24日、第1子妊娠を発表。2018年の2月に第1子(女子)の出産をSNSで発表。