Categories: 未分類

内田有紀の「大切な」言葉たち~内田有紀の名言・人生・生き方など~

内田有紀の「大切な」言葉たち

仕事は頑張らないといけないものですが、周りが見えなくなるほどの無理はよくない

少なくとも楽に生きる方法は、1人で抱え込まないことだと思っています。何でも言える家族や友達を作ることが大事。いろんな話ができるお茶のみ友達を探すことが素敵な生き方じゃないかな、と。

自分を見つめ直してみて、悩みに気持ちが奪われてる時間がもったいないと思うようになって。たぶん素直になったんですよね。歳を重ねてよかったのは、素直になれたことですね。これからもっともっと歳を重ねるけれど、さらに素直になっていって、灰汁がどんどん抜けていけばいい、真白になるくらい突き進めたらと(笑)。

まだまだわからないことだらけで。わからなくなって、1回手放してみたものもあるし。またそれをもう1回拾い集めてみて、なぜ自分がこれがわからなかったのかって振り返ってみることもありましたし、いつまでも手放せなくて残ってる部分もあります。でも、それを人生の中で何が残り、何を手放してきたかなどの軌跡を楽しめたら、と思うようになりました。

常に喜怒哀楽、いろんな物ごとを感じて生きていくこと。楽しいことばかりではなく、つらいこと苦しいこと、嫌なこと、怒りを感じないと、演じることってできないのかと改めて思いました。あと、引き出しを増やしておくことは、日々の生活の中で成り立っていくことだと改めて思いましたね。ちょっと引きこもり気味なので(笑)、あえて外に出たり人と会ったりして、刺激を受ける努力をするようになりました。

何に対しても前を向いて、チャレンジする気持ちを大事にしています。

自分の心をさらけ出せる友達と運よく出会えているのは、幸せなことだとこの年齢になるとより身にしみます。高校の同級生ですが、その子がいてくれるから頑張れるという存在ですし、お互いにいろいろ叱咤激励しています。演技のことなど気持ちいいくらいズバズバ言ってくれるので、身を引き締められます。だから、やっぱり正しいことを教えてくれる人がいないと。

経験を経て、また穏やかさとか、それぞれのリズムや歩調を掴んで、俯瞰して見られるようになってくると思うんです。世代が違う人とも調和が取れていく。だから、自分の歩いてきた道が全てだと勘違いしてはいけないと思うんです。何もわかっちゃいないんだ、自分は何者でもないんだって、思うようになりましたね。自分の固定概念は、相手にとってはいらないことなんだって。

30代の後半ぐらいからですかね。同じ失敗をしたくないから、転ばぬ先の何手先も考えて動いていたんですよ。その結果、自分にも周囲にも深く求めるようになっていたというか。そうなっていることに、ハッと我に返ったときがあって。そのこだわりは自分だけにしようって思ったんですよね。みんなそれぞれの歩くペースも、ルートも違うんだから、って。それからは「1回、深呼吸しよう」って自分に言い聞かせたり、「あれもこれもしなきゃ」ってなりやすい自分を少しほどいてあげられるようになりました。

歳を重ねてからはちょっと落ち込むことがあっても、立ち直りが早くなりました。落ち込みから抜け出す方法は、ためないですぐに話すこと。1人で抱えない。すごく変わりましたね。自分でも昔は悩むことの方が大事なんじゃないか、人は悩むものなんだ、って思ってたけど、今は、違うかな……、と。早く抜け出したほうが人生は豊かになるって思います。

若く見られたいとか、そういうことは本当にどうでもよくて、精神的に豊かになっていきたい。

芸能界だけじゃなく、友人のご両親だったり、プライベートで交流のある方からも勉強させていただきました。「失敗は成長のチャンス」とかよく言われますけど、振り返ってみるとやっぱり先人の言葉というか、経験された方の言葉ってやっぱり正しいんだなって、身にしみますよね。

毎日必死に生きてますよ。一生懸命生きているのが、一番気持ち良い生き方。

いっぱいいっぱい考えて、いっぱいいっぱいわからなくなって、やっと少し見えるっていう繰り返しで(笑)。正解も、辞書もないなかで、人はただひたすら生きるだけなので。だったら、もう受け入れるしかないですよ。ちょっと頑張ってる自分も、変な自分も、全部受け入れる!

歳を重ねてよかったのは、素直になれたこと。

全ては心が元気でいること。

内田有紀とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

内田有紀。

1975年生まれ、東京都出身。

東京都・広尾生まれの裕福な家庭に育つ。小学6年生の頃に母親がモデルにスカウトされ一緒に撮影所へ向かう。

その後、中学2年生からモデル活動を始め、CMにも出演していた。

1992年(平成4年)のテレビドラマ『その時、ハートは盗まれた』(フジテレビ)への出演で女優デビューし、同年冬には、ユニチカの1993年 水着キャンペーンモデルに選出された。

この頃、芸能活動に専念するために藤村女子中学校・高等学校を高2で中退。

高校在学時代はフェンシングをしており、オリンピック出場を目指していた(東京都の大会で3位入賞の実績がある)。

映画『CAT’S EYE』では ケイン・コスギ演じる殺し屋にフェンシングで格闘し勝利するシーンがある。

1994年(平成6年)、『時をかける少女』で連続ドラマ初主演。

同年10月には『TENCAを取ろう! -内田の野望- 』で歌手デビューし、オリコン史上初女性ソロ歌手のデビュー曲で初登場1位を記録。

また、同年の『フジテレビビジュアルクイーン』に選出されるなどアイドル・女優として絶大な人気を得る。

1996年、「幸せになりたい」(作詞、作曲:広瀬香美 編曲:本間昭光)TBS系ドラマ「キャンパスノート」主題歌を発表。

以降、女優業と歌を軸に活動した。

1998年、踊る大捜査線 – 篠原夏美 役。

2000年(平成12年)1月、演技の勉強を基礎からやり直すとして、「北区つかこうへい劇団」に8期生として入団。

それに伴って約3年間の予定で歌手業を休業、活動の場をテレビドラマ・映画から舞台へと移した。

2002年(平成14年)に同年11月28日を以って芸能界を引退することを示し、同年9月に放送されたテレビドラマ『北の国から 2002遺言』(フジテレビ)を最後に芸能界から一時引退した。

その後、同年12月に『北の国から 2002遺言』で共演した俳優の吉岡秀隆と結婚。

2005年12月に吉岡秀隆と離婚。

「自分の居場所を見つけたい」として芸能界に復帰。

翌2006年(平成17年)に放送されたテレビドラマ『誰よりもママを愛す』(TBS) に主演の田村正和演じる専業主夫の長女役で出演し、女優としての活動を再開した。

2012年、ドクターX〜外科医・大門未知子〜 – 城之内博美 役など、多方面で活躍。

arashidaisuki