《新潟DNA:三条市》酒井高徳(サッカー)名言集と酒井高徳(サッカー)のDNA(生い立ち、経歴、プロフィールなど)

新潟出身者名言

 

《新潟DNA》酒井高徳(サッカー)名言集と酒井高徳(サッカー)のDNA

酒井高徳(サッカー)名言集

 

 

 

 

 

僕は新潟のユース時代、片渕浩一郎さんに3年間指導してもらったんですけど、片渕さんに人間性の部分やプロ選手としてどうあるべきか、といったことを教えてもらったので、とても感謝しているというか。今の自分があるのは、ユース時代の3年間のおかげだと思っていて。その片渕さんがプロ時代に付けていたのが24番で、僕が新潟のトップに昇格する際、『高徳に24番を付けさせてくれ』とクラブの人に話してくれたそうなんです。

 

 

 

 

 

試合前に決めたことをどれだけ長く集中して保てるかってことが非常に大事になってくると思う。

 

 

 

 

 

 

 

自分にプレッシャーをかけながらどれだけ練習ができるか。

 

 

 

 

 

 

僕にとってドイツ代表は一つのオプション。

 

 

 

 

 

 

 

選手個々のスキルで言ったら、J1のほうがレベルは高いかもしれません。ただ、サッカーは足下だけじゃないんだよ、っていうことを僕はドイツで教えられた。プレッシャーを受けた状況でどうプレーするのか、肉弾戦もあるし、劣勢の中でセットプレー1本でゴールをもぎ取る、だったり、ファウルを貰うようなプレーもあれば、相手にサッカーをさせないほど激しくプレーしたりとか。そうしたボールを使う戦術以外のことをドイツで学んできたので。

 

 

 

 

 

 

ケガが多い選手と少ない選手を比べると、どこかのバランスが悪かったり、ちゃんと使えていない筋肉があるということが多いです。

 

 

 

 

 

 

楽しめたということは、良い戦いができたということ。

 

 

 

 

 

 

 

『自分も言っていいんだ』『聞いてもらえるんだ』っていう雰囲気になると思う。それって、目立たないことだけど、大きな意味があるんじゃないかなって。試合中の声掛けひとつで、チームの負担を軽くできる、無駄なエネルギーを使わないで済むことがある。だから、そういったことを、みんなが自然にできるようになるように、まずは自分がやっていければ、と思います。

 

 

 

 

 

 

準備を毎日していなかったら、いざチャンスが来た時にそのチャンスをつかむことはできない。

 

 

 

 

 

 

うまくいかない時期がある中で、僕が一番大事にしていることは、自分が試合に出られなくても、その時自分に必要なことが何なのかを考えながらプレーする。それを諦めずにずっと続けるということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

本田さんはすごく左足が上手だし、ボールタッチを観ていても小さい頃から巧かったのは分かります。あれだけ上手な人がよく考えているのを見ると、俺のような頭を使わなきゃいけない選手が考えることをやめたら、終わってしまうという覚悟はあります。だから、良くても悪くても、もう少しこうできたらって突き詰めるんです。反省しなくなったり、あのシーンは仕方がないって割り切るようになったら、伸びなくなります。そう感じるようになったら、選手としてはおしまい。引退する時なのかなと。

 

 

 

 

 

 

 

僕が神戸へ来たときに比べると、今は練習中から、みんなの球際への意識が変わった。僕自身はそれを周りに要求しているし、僕がそれを見せることで『チームに必要なことなんだ』というのが伝わっているんだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

監督はサッカーの知識と能力と、人と人との関わり方が大事。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は日本人として、日本の良いところをたくさん知っているし、日本が海外に近づくために、自分も海外に近づくために、いろいろ考えながらやってきたし、これからもやっていきたいと思っていて。その上で話しますけど、プレスの掛け方については、日本はむしろ、ヨーロッパから見ても高いレベルで組織的にプレスを掛けられるんです。規律を守りながらプレスを掛けたり、引いて守ったり、絞る、カバーするといったことを真面目にやれる。逆に、海外では、それをなあなあにして、あり得ない形で失点することも多いんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

チームには25~30人がいて、何が一番大事かって、そのグループに居心地良くいられるかだと思うんです。

 

 

 

 

 

 

 

俺は日本に帰ってきたからといって日本に合わせるつもりはなくて、海外でやってた、むこうの標準のプレーを、やっぱり日本でもやらなきゃと思ってます。練習でも試合でもヨーロッパを意識して、イメージしてます。それを意識すると、練習でも必然的に周りへの要求が出てきます。自分のためにプレーして、思ったことを発言して、それをみんなが受け止めてくれた。『相手が誰であれ、高徳があれだけがっつりボールを取りに行ってるんだから、俺もがっつり行っていいだろう』と口にした選手がいたって間接的に聞いたんですよね。あと『やっぱそうだよね、やらなきゃだよね、と思わせてくれた』と言ってくれた後輩もいました。ああ、こういうことなんだって思えたんです。自分がチームにこうやってくれと求めるんじゃなくて、自分が自分のために追求していることをチームのみんなが見て、いいと思えばやってくれるっていうのが、ちょっと今までにない感覚で。やりがいを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

ただ待っていればいいのではなく、自分のやるべきことをしっかりとやって、チャンスが来た時にモノにできるような環境をしっかりと整えておくことが、一番大事。

 

 

 

 

 

 

 

俺自身は努力して上がってきた人間だと思うんですけど、誰にでも変わるチャンスはあるし変われると思ってるんです。だからヒントはあげられるならあげたい。ただ俺もそこまで優しいわけじゃないので、取り組みが見えない場合は、なにも言わなくなる。でも、変わろうっていう選手がいたら、アドバイスさせてもらう。そのへんは自己責任だよって思ってます。

 

 

 

 

 

どんなにカッコ悪くても、どんなに頼りなくてもチームのために走り抜けて、終わった時に「俺は全部やった」と周りが認めてくれるようなプレーをしたい。

 

 

 

 

 

 

 

チームとしても自分としても成長していきたいとは思ってて、それに対してやっているのは、細部のところまでしっかりこだわるということですね。細かいことまでしっかりやるというのが強いチームだと思うから。そういったところは、「これでもか」というくらい、自分でも気を付けながら発言したり、自分で見つめ直したり考え直したり提案したりしてますね。

 

 

 

 

 

 

 

90分間諦めない姿勢を見せるのがキャプテン。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人は基本的に優しいし、組織やグループを大事に考えるのがいいところでもあると思いますが、勝負事は、勝つか、負けるかしかありません。であればこそ、ピッチ上で起きるいろんなことを曖昧にするべきではない。自分が思う『白』をはっきりと主張して、意見が違えば話し合って、自分が間違っていたなら変えればいい。

 

 

 

 

 

 

 

“誰だ? こいつ”って思う人も多いはず。でも俺はいつもそうだから、慣れっこですよ。

 

 

 

 

 

 

 

可能性が残る限り、僕たちは絶対に諦めない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒井高徳(サッカー)のDNAと歩み~酒井高徳(サッカー)の経歴・プロフィール・生い立ちなど~

 

 

 

酒井高徳。

1991年生まれ。

 

日本人の父親とドイツ人の母親との間にアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれ、2歳の時父親の仕事の都合で新潟県三条市に引っ越した。

 

10歳でサッカーを始め、三条サッカースポーツ少年団、レザーFSジュニアユースを経て、2006年にJAPANサッカーカレッジ高等部に進学し、開志学園高等学校に籍を置くとともに、アルビレックス新潟ユースに入団。

 

寮生活によって、勉強とサッカーを両立させた。

2006年、U-16日本代表に選出され、以後U-17、U-18と各カテゴリの代表チームに選出された。

 

2008年にはU-20日本代表へも選出され、SBSカップ 国際ユースサッカーへ出場した。

2008年には、アルビレックス新潟2種登録選手として在籍。同年11月5日に昇格が発表された。

 

2種登録期間中の11月15日、とりぎんバードスタジアムで行われた天皇杯5回戦に出場し、公式戦に初出場した。

2009年3月7日に味の素スタジアムで開催されたJ1第1節にてリーグ戦に初出場した。

 

同年度は途中出場を中心にリーグ戦18試合に出場した。

2010年度よりレギュラーとして試合出場するようになり、翌2011年10月1日の横浜F・マリノス戦にてプロ初得点を挙げた。

 

2010年1月6日にはAFCアジアカップ2011最終予選第5戦に出場する日本代表に選出されA代表への初選出。

同年10月にはAFC U-19選手権2010に出場するU-19日本代表チームに選出され、ミッドフィールダーとして3試合に出場した。

 

2011年6月より、U-22日本代表に選出されロンドンオリンピック予選 に出場。

2011年12月23日、ブンデスリーガ・VfBシュトゥットガルトへの期限付き移籍が発表された。

 

新潟の生え抜きの選手が欧州のクラブに移籍するケースはこれが初。

2012年2月11日、第21節ヘルタ・ベルリン戦でスタメンフル出場しブンデスリーガ初出場を果たした。

 

以降途中加入ながらレギュラーに定着し、地元紙からその活躍を絶賛されドイツ紙『WELT』からドイツ代表に招集すべきと報道された。

2012年のオリンピック本大会のメンバーにも選出、4試合に出場しベスト4入りに貢献した。

 

2012年9月6日に故郷、新潟にある新潟スタジアムで行われたキリンチャレンジカップ2012、対UAE戦でA代表デビューを果たした。

2013年1月10日、VfBシュトゥットガルトへ完全移籍。

 

2015年2月14日、ブンデスリーガ第21節ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初得点を決めた。

2014-15シーズンは、開幕当初こそスタメンで起用されたが、チームが残留争いの渦中に立たされたシーズン終盤は控えに甘んじることが多かった。

 

シュトゥットガルトでの出場機会減少やシュトゥットガルト移籍当時の監督であったブルーノ・ラッバディアの熱望を受け、2015年7月5日にハンブルガーSVへ完全移籍した。

11月7日のブンデスリーガ第12節ダルムシュタット戦で初先発。

 

2016年2月7日のブンデスリーガ第20節ケルン戦以降はレギュラーに定着し、3月6日のブンデスリーガ第25節ヘルタ・ベルリン戦ではブンデスリーガ通算100試合出場を記録。

2016年11月18日、マルクス・ギズドル監督からチームキャプテンに指名された。

 

ブンデスリーガで日本人選手がチームキャプテンを務めるのはこれが史上初。

また、この時より本職であるサイドバックだけでなく、ボランチでプレーする事も増えた。

 

2017年1月28日、ブンデスリーガ第18節FCインゴルシュタット04では自身約2年ぶりのゴールとなるミドルシュートを決めた。

最終節、同じく1部残留を争うVfLヴォルフスブルク戦ではフル出場し、2-1の勝利に貢献。

 

結果的にキャプテン就任時はリーグ最下位だったチームを1部残留させる事に成功した。

2017-18シーズンもキャプテンとしてプレーするも、チームは55年目のシーズンでクラブ史上初の2部降格が決定した。

 

スュペル・リグのベシクタシュJKが関心を示していたものの、シーズン終了後にハンブルガーとの契約を延長し、残留した。

2018-19シーズンは、終盤まで自動昇格圏内の2位以内を維持していたが終盤に大失速し、プレーオフに参戦できる3位にも入れず、4位に終わった。

 

1年での昇格を逃したチームの状況によりサポーターから槍玉にあげられ、最終節のMSVデュースブルク戦ではサポーターからブーイングを浴びせられた。

2019年8月14日、ヴィッセル神戸への完全移籍を発表した。

 

8月17日、第23節の浦和レッズ戦で2011年以来8年ぶりのJリーグ復帰を果たした。

以降は神戸の主力選手として活躍し、2020年1月1日に行われた鹿島アントラーズとの天皇杯決勝戦で勝利し、自身初のタイトルを獲得した。

 

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