《新潟DNA:新潟市》會津八一名言集と會津八一のDNA(生い立ち、経歴、プロフィールなど)

新潟出身者名言

 

《新潟DNA》會津八一名言集と會津八一のDNA

 

 

會津八一名言集

 

 

 

世上には人格の鮮やかなる人少なく候。人格の美しき尊き人は更に少なく候。

 

 

 

 

 

 

学問をしてゆくに、実物をよく観察して、実物を離れずに、物の理法を見てゆくと云ふことは、何よりも大切なことだ。どれほど理論が立派に出来て居ても、何処かに、実物を根底にする真実性が含まれて居なければ、即ちそれは、空論だ、空学だ。取るに足るものではない。

 

 

 

 

 

 

実学には世の中のためになる学問と、自分の身になる学問の二つがある。自分がいいたいのは後者で、この学問がそうすれば真に自分の身につくようになるか。早稲田では学の独立とは、外国語から独立して自国語で研究するとか、官学に対して実力をもって対抗するとか、と教えられた。しかし文献や伝説から独立していくことが必要な態度であり、それでこそ今の世に要求される真の学問の独立である。

 

 

 

 

 

私は一つの重大な覚悟をした。それから努めて倹約な簡易な生活をして、時としては一年中―夏も冬も―一着の古洋服を、しかも四五年着通したり、破れ靴をいつまでも穿き歩いたりもした。そうして自分ひとりの力で、出来るだけ多くの参考資料の採集を敢行した。

 

 

 

 

 

 

私は新潟の生れで小學校は西堀小學校(今はないが、廣小路の消防の詰署のある附近)へ通つたものだ。そこを出て大畑の高等小學校へ進んだが、成績はけつして優等どころでなく、やうやく眞中へとどくかとどかないかといふ程度だつた。卒業する時、學校へ自分の目的を紙に書いて出すこととなつた。その時私の同級生は總理大臣になりたいとか、陸軍大臣けん海軍大臣になるとか、さういふことをはなばなしく書いて出した人が多かつた。私は今でもわすれないが、小學校を出たなら百姓になる、ただの百姓で一生くらしたいといふことを書いて出した記憶がある。當時そんなことを書いたのは私だけだつたと思ふ。當時の私は年齡的にも希望に輝いてをらず成績もあまりよくなかつたために、そんなことを書いたのだらうと思ふ。けつして今いふところの平民思想とかを當時もつてゐたのではない。ただ私が、ふるはない、平凡な、そして學問もあまりはなばなしくないただの子供だつたことを示すものだ。しかしそれから中學へやつてもらひ、進んで大學も出ることができ、今日まで學問をつづけることができた。最初體がよわかつたので、希望も消極的だつたと思ふが、今日七十二歳の高齡に達しても、わりあひ丈夫でゐる。人間の一生といふものはけつして二年や三年で勝負のつく、いはば短距離競走ではなく、六十年、七十年、時として百年にもわたる長距離競走だから、なんといつても體が一番大切だ。

 

 

 

 

 

 

法隆寺の問題を本当に決定しますには、国民が学術というものにもうちっと興味を持って、軽率な結論を喜ばないで、学閥とか学派を眼中におかないで、ほんとうの真理探究ということをし、そして率直にものをいうこと、一時代一様式だとかそういったようなことをいわないこと。

 

 

 

 

 

 

人は八面多角にてもよし、一方一面一意一徹にてもよし、但しどちらにしても落ちつきて意思強く自重自敬自尊自恃なるべし、一方一面に貫徹すれば四方八面に目もひらけ来るものなれば、すべて下界からの刺戟誘引に目を閉ざして自分の志を重しとし、其志の赴く方へ全力を用ゐらるれば急がずとも自分として行くべきところ行き得るところまでは行けるなり。

 

 

 

 

 

 

これまでは、教育のことは御上まかせで、文部省の役人が案をひねつて、上から命令してやらせたが、これからは、國民が自分なり自分の子弟なりを教育する機關や方法を、自分でよく考へなければならなくなつた。自分等のために自分等が實行することを、自分等で考へるのはあたりまへのことである。新潟縣がいい大學を持つやうに大に考へてもらひたい。ことに、これまでの大學には、徴兵猶豫の特典を惡用して、學問などは少しも好きでないものや、または、就職の時に履歴書を飾るといふ、ただそれだけのために、卒業證書をほしがるものなどが、入學の手續をしに集まつたものも少くなかつた。そんなことでは、ほんとの學問も教育もが、どこの大學でも行はれてゐなかつたと、いつてもいいかもしれぬ。そんな大學ばかりでは、これから平和のうちに文化を以て世界に國を建てるなどといふわけにはいかない。なまやさしいことで學問の蘊奧を窮めるなどといふことは出來るものでない。だから今の時勢にぴつたりと適合した大學をこちらで建てるつもりなら、在來のものより、ずつと理想も高く、覺悟も深く、いかなる犧牲をも甘んずるといふのでないといけない。しつかりと腰を据ゑてかかつてもらひたい。

 

 

 

 

 

 

老人も青年も、すべてもっともっと謙遜なれ、誠実なれ、活眼をひらけ、もっと真剣になれ、もっと徹底的なれ、そして吾々の生活をして更に高尚ならしめよ。更に豊富ならしめよ、更に意味深からしめよ。

 

 

 

 

 

 

君らも追々成人の後には、専門の学術に於いても余技としての趣味に於いても、渾然として人格を体勢せらるべき御覚悟なかるべからず。

 

 

 

 

 

 

 

吾々が世の中を行くのに、必ずしも名利を一生の目的としなくとも、路は名利の中をうねる。その間に起るいろ/\の問題にぶつかつてそれを切り拔けて進むだけの覺悟が無くてはならぬ。人間がたゞ蒸氣汽罐のやうに強健で砲彈のやうに勇氣があつても、それは羨むべきではない。道徳も、藝術も、宗教も戀愛も此一面が備つてこそ生れ出るのだ。しかしまた、人間として此一面を備へただけでは、所謂文弱に傾いて仕舞ふ。自分の枝に咲いた美しい大きい花を支へるだけの力がなくて、泥に曳きづる蔓草のやうな生活も決して羨ましいものではない。全體として完全な人格者には、この兩面ともに大切である。青年の頃は修養の時代だ、趣味の修養を忘れてはならぬ。

 

 

 

 

 

 

一生涯にて為したることの数は多からずともよし、その一つづつによく力をこめて静に進むべし。

 

 

 

 

 

 

 

今日のやうな日に縁側から外を眺めて、暖かな太陽の光を浴びて、大地の底や枯れたやうな老木の幹から、輝いた鮮かな芽が萌え出て居るのを見る時に、私は其中に何とも云はれない一種の力を感ずる。そして草木にも吾々人間にも天然に与へられてある此力を限りなく頼もしく思はずに居られない。そも/\吾々が生れ出て勉強して世の中へ出て暮らして行くのは人に頼まれてのことではない。吾々自身が持つて生れた力、これを自分の境遇に応じて、時としては境遇以上にも伸びるだけ伸ばして行く為めである。吾々が貧困の家に生れて欠乏の中に生長し、如何程の苦学を重ねても、自分の心の底に此力を見出して進んで行かねばならぬ。それにつけては独立自恃の精神ほど大切なものは無いのである。

 

 

 

 

 

 

 

私はもとから理想とか、主義とか、抱負とかいふやうなものがあるのか、ないのか、自分にもはつきりしないが、とにかくそんなことを大ツぴらに口を出していひ立てるのを好かない。そのせいか、私の學規も昔からあるものとはだいぶ樣子がちがふやうだ。これくらゐのところを目安にしてかかるなら、長い一生の末までには、いくらか實行が出來るのではあるまいか。

 

 

 

 

 

 

會津八一人生訓「秋艸堂学規」

 

一.ふかくこの生を愛すべし

一.かへりみて己を知るべし

一.学芸を以て性を養ふべし

一.日々新面目あるべし

 

 

 

 

 

深く強く激しく暗く悲しくも而も大なる道をゆく人の一人にても出でよ。

 

 

 

 

 

 

 

30年は30年、50年は50年、80年は80年の歳月を。その総決算の姿が今の私である。しわや白髪がなくて美しいのではない。しわや白髪一本一本に「今ココ」をどう生きてきたかが光る。人が生きると言うことは、「今ココ」の一瞬でしかない。過去の総決算の今であると同時に出発点でもある今!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

會津八一のDNAと歩み~會津八一の経歴・プロフィール・生い立ちなど~

 

 

 

 

 

會津八一。

新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。

 

中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。

1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。

 

この頃すでに「東北日報」の俳句選者となる。

1906年早稲田大学英文科卒業。

 

卒業論文にはキーツをとりあげた。

卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の英語教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残した。

 

1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。

1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。

 

1913年、早稲田大学講師を兼任して英文学などを講じた。

翌年小石川区高田豊川町に転居し、「秋艸堂」と名付ける。

 

1918年、早稲田中学校の教頭に就任。

1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し、やはり「秋艸堂」と名付けた。

 

1924年、初の歌集『南京新唱』を刊行。

1925年には早稲田高等学院教授となり翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して美術史関連の講義をおこない、研究のためにしばしば奈良へ旅行した。

 

1931年には早稲田大学文学部教授となる。

1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で1934年に文学博士の学位を受ける。

 

1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に主任教授に就任する。

1940年、歌集『鹿鳴集』を刊行。

 

続いて1941年、書画図録『渾齋近墨』、1942年、随筆集『渾齋随筆』、1944年、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。

同僚であり歌人でもある窪田空穂とは二十数年にわたって親交を結ぶ友であった。

 

1945年、早稲田大学教授を辞任。

空襲により罹災し、秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。

 

同年7月、養女きい子が病没。

1946年5月、坂口献吉(坂口安吾の長兄・元新潟放送初代社長)から懇願され「夕刊ニイガタ」の社長を引き受けた。

 

會津八一は伊藤文吉別邸(現、北方文化博物館新潟分館)内の洋館を「南浜・秋艸堂」と呼んで、1946年7月25日から永眠するまで暮らした。

1948年、早稲田大学名誉教授。

 

1951年、新潟市名誉市民となる。

同年、『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞を受けた。

 

戦後は故郷新潟に在住。

弟子の一人に歌人の吉野秀雄がいる。

 

1953年、歌集『鹿鳴集』(1940年)にみずから注釈を加えた『自註 鹿鳴集』を新潮社より刊行。

これが生前刊行された最後の専著となった。

 

1956年11月16日、胃潰瘍のため新潟医科大学病院に入院し、同年11月21日に冠状動脈硬化症で死去。75歳没。

 

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