「塩野義製薬株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『塩野義三郎』/沿革・歴史など~

「塩野義製薬株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『塩野義三郎』/沿革・歴史など~

 

「塩野義製薬株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

「塩野義製薬株式会社」の経営理念、基本方針

 

 

シオノギは、常に人々の健康を守るために必要な最もよい薬を提供する

 

そのために

益々よい薬を創り出さねばならない。

益々よい薬を造らねばならない。

益々よい薬を益々多くの人々に知らせ、使って貰わねばならない。

創り、造り、売ることを益々経済的にやりとげねばならない。

 

そのために

シオノギの人々のあらゆる技術が日々休むことなく 向上せねばならない。

シオノギの人々が、人間として日々休むことなく 向上しなければならない。

 

その結果

シオノギの人々は日々の仕事と生活に益々生甲斐を覚える。

シオノギの人々の生活の仕方が益々改善せられる。

シオノギの人々の生活が益々豊かになる。

 

 

 

 

「塩野義製薬株式会社」のミッション(行動指針)

 

 

患者・家族の方々のQOL向上を実現するために、患者・家族・医療従事者の方々により一層満足度の高い医薬品をお届けする

 

私たちは基本方針に掲げる「常に人々の健康を守るために必要な最もよい薬を提供する」という理念に基づき、「患者さまやご家族の方々のQOL向上を実現するために、患者さまやご家族、医療関係者の方々に、より一層満足度の高い医薬品をお届けする」ことをミッションとし、以下の活動を通じてその具現化に専念します。

 

* 独創的な医薬品を創製し、必要としている人々に一刻も早くお届けします。
* 必要としている人々の声を速やかに製品に反映し、高い品質の医薬品を、安定的、経済的に製造・供給します。
* 適正使用に必要な情報を適時的確に提供し、医薬品の有用性を益々高めます。

 

 

 

 

「塩野義製薬株式会社」のビジョン(行動目標)

 

存在感のある強いシオノギ

私たち自身がやりがい、誇り、夢の持てるシオノギ

 

私たちは、私たちのミッション実現のため、世界中の患者さまやご家族、医療関係者の方々、社会に認められる事業展開を行なう「存在感のある強いシオノギ」であるとともに、「私たち自身がやりがい、誇り、夢の持てるシオノギ」であることを目指し、中期経営計画を達成します。

 

 

 

 

「塩野義製薬株式会社」のバリュー(行動規範)

 

 

・顧客志向

・信頼

・プロフェッショナル

・現場重視

・個の尊重

 

私たちは、私たちのミッション、ビジョンを実現するために、上記の5つの点を最も重要な行動規範とすることを決意しました。

この5つの誓い(シオノギバリュー)を、高い倫理観をもって実行することにより、人々の共感を得る会社でありつづけたいと思います。

 

 

 

 

 

「塩野義製薬株式会社」の創業者・創立者『塩野義三郎』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

塩野義三郎(初代)

 

 

初代塩野義三郎。

1854年4月14日(嘉永7年3月17日)、義三郎は大阪道修町で薬種商を営む二代目塩野吉兵衛の三男として生まれた。

 

二代目吉兵衛は長男の豊太郎と次男、三男の義三郎の3人の子をもうけたが次男は早世している。

1870年(明治3年)、二代目吉兵衛は豊太郎に吉兵衛を襲名させた。

 

三代目吉兵衛のもとで商いの見習いを続けていた義三郎は、1874年2月2日に分家し、一戸を構えた。

1878年3月17日、24歳の誕生日を以って道修町三丁目12番地に薬種問屋を独立創業した。

 

当初の取扱品目は沈香や麝香、薬用人参など和漢薬が主で、肝油やシンコニーネなどの洋薬も扱った。

1880年12月22日に結婚、翌1881年11月15日に長男正太郎が生まれた。

 

1883年4月8日には次男長次郎が生まれている。

創業当時は主に和漢薬を扱いましたが、開業8年後の1886年、西洋医学が広く普及し始めたのを機に、洋薬の輸入販売を開始しました。

 

当時、西洋の医薬品は横浜や神戸にある外国商館経由で流通していましたが、貿易実務に通じていない薬種問屋が外国貿易商の言い値で商品を買い取っていたために高値がついていました。

そこで義三郎は、いち早く英語に堪能な実務経験者を招き入れて海外から直接医薬品を輸入し、庶民でも手の届く価格での販売を実現しました。

 

しばらくして他社も直輸入を始めると、義三郎は、自ら医薬品の製造を行う製薬事業を志すようになりました。

1892年に北区相生町に小規模な製薬工場を設け、カフェインや塩化スズなどを製造したが、1899年2月に一旦廃業している。

 

1902年、長男の正太郎が大阪高商(現・大阪市立大学)を卒業。

兵役を終えたのち1906年に家業に就き営業の仕事を担う。

 

次男の長次郎は1907年に東京帝国大学薬学科を卒業し、翌1908年には相生町の工場に分家して薬品の製造を再開した。

シオノギは本格的な製薬研究に取り組み始めます。

 

そのような折、塩野義三郎商店の管理薬剤師が府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)の小児科医長から、ドイツの医薬書に制酸剤の処方が書かれていることを聞きつけます。

そして長次郎がその制酸剤の試験製造を開始し、製品化に成功します。

 

1909年健胃制酸剤「アンタチヂン」が、塩野義三郎商店で初めて自社開発した、記念すべき新薬第1号となりました。

「アンタチヂン」の製品化に成功すると、義三郎は新薬製造を事業として本格的に発展させるべく、大阪府西成郡(現在の大阪市福島区)に製薬工場「塩野製薬所」を新たに建設します。

 

シオノギが名実ともに製薬部門を持ち、製薬企業として新たなスタートを切った瞬間でもありました。

塩野製薬所は長次郎が所長となり、1910年に本格稼働を始めましたが、当時の製薬事業は原料薬品でさえ外国産に頼っている状態で輸入薬品に圧倒され、経営的にも苦戦を強いられていました。

 

そこで長次郎は、塩野製薬所を将来の発展の基礎づくりと考え、厳しい経営状況を打破するために、当時ドイツ留学から帰国したばかりの近藤平三郎薬学博士を顧問として招きます。

近藤博士の紹介で製品化したヂギタリス製剤は、1912年に心臓新薬「ヂギタミン」として発売されました。

 

2年後に勃発した第一次世界大戦により外国医薬品の輸入が途絶える中、シオノギは自社製品「ヂギタミン」を自社で製造・販売し、また国産医薬品も積極的に取り扱うことで、多くの人々を救いました。

1919年(大正8年)、正太郎が管掌していた薬種問屋「塩野義三郎」と、長次郎の主宰による製薬事業「塩野製薬所」を合併し、「株式会社塩野義商店」を設立、義三郎は社長に就任した。

 

1920年2月2日、義三郎は経営の一線から退き、平取締役となった。

これと同時に名を義一と改め、正太郎が義三郎の名を継いだ。

 

1936年5月10日、長次郎が肺炎で逝去。

同年12月28日には義一が池田市の隠居先で散歩中に倒れ、翌日に77歳で亡くなった。

 

 

 

塩野義社章「分銅マーク」の由来

 

塩野義三郎商店は創業以来、信用と信頼が最大の“資本”でした。

シオノギの社章は、薬を天秤で量る際に使用する「分銅」に由来しています。

分銅は、「正確」「正直」「信頼」の象徴であり、常に正確を追求するシオノギの願いを表しています。

 

 

 

 

塩野義三郎(二代目)

 

 

初代塩野義三郎の長男、明治14年11月15日生まれ。

初名は正太郎、後に「塩野義三郎」二代目を襲名。

 

大阪高商(現大阪市立大)卒。

父の経営する塩野義三郎商店にはいる。

 

大正4年東京帝大の近藤平三郎を所長にむかえ、東京に乙卯(いつう)研究所を設立。

塩野義商店社長に就任し,新薬の開発と経営の近代化につとめる。

 

終戦翌年の1919年、シオノギのさらなる発展を目指して、義三郎の長男 正太郎が管掌してきた薬種問屋・塩野義三郎商店と、次男 長次郎が主宰してきた製薬事業・塩野製薬所を合併し、「株式会社塩野義商店」が設立されました。

 

1943年には、事業内容を製薬中心にすることを明確に示すため、現在の「塩野義製薬株式会社」へ社名変更しました。

第二次世界大戦の敗戦により一挙に海外事業所を喪失し、主力工場や設備も空襲でほとんどが壊滅したことで、シオノギは出荷できる薬のない状態に陥っていましたが、二代目義三郎社長は従業員を集めシオノギの進路を示しました。

 

また、終戦後の悪性インフレの急速な進行、物価高騰の激化により世の中は混乱し、企業預金の凍結、戦時補償の打ち切りなどにより、シオノギも破産同然となり創業以来最悪の経営状態に陥りました。

その時も義三郎社長は「危機を乗り切るための三大目標」を示し、経営改善に向けた取り組みをスタートさせました。

 

一時的な生産増強運動ではなく、将来に向かって計画的に生産力を上げることを見据え、合理化をすすめた。

1953年(昭和28年)10月3日死去。71歳。

 

 

 

 

塩野義三郎(二代目)の名言・考え方

 

 

 

今はいたずらに泣き悲しむ時ではない。これからは世界が相手になる。われわれは何事も国際水準を目あてに精進努力しなければ、生き残ることはできない。
(敗戦後、社員への言葉)

 

 

赤字を消す方法、それは各々がその持ち場、持ち場において、あらゆる技術の引き上げと、あらゆる原価の切り下げに、各自の能力と努力を傾けつくすことよりほかに、道はない。危機は迫っている。明確な目標を立て、全員一丸となって突進しようではないか。

 

 

1948年「危機を乗り切るための三大目標」

1.あらゆる技術の引き上げ
2.目標とその確認の徹底
3.美化

 

 

 

 

手代木功(8代目社長)

 

 

昭和34年12月、宮城県生まれ。

57年、東京大学薬学部卒業後、塩野義製薬入社。

 

開発企画、米国での勤務などの後、秘書室長兼経営企画部長、常務執行役員、専務執行役員などを経て平成20年、社長に就任した。

経営手腕は業界の枠を超えて注目を集め、経済誌「フォーブス ジャパン」が選ぶ「CEO ランキング2016」では7位に選ばれた。

 

 

「手代木マジック」

 

手代木氏が経営企画部長として、戦略立案を主導し、2000年から04年にかけて、動物薬などの非中核事業を全て売却。

その結果、4000億円以上あった連結売上高は半減した。

 

さらに04年に医薬研究開発本部長に就くと、抗がん剤の研究が過熱しつつあった製薬業界のトレンドに逆行するかのように、塩野義の抗がん剤の研究チームを解体。

研究開発領域を感染症、代謝性疾患、疼痛の3つに絞り込んだ。

 

手代木氏が社長に就任した当時、資金力不足の塩野義は、特許を保有する高コレステロール血症治療薬「クレストール」の開発・製造・販売権を、英アストラゼネカに譲渡していた。

その特許が16年以降に順次切れる。

 

14年3月期に年間657億円あったロイヤルティー収入が、19年3月期までにゼロになる計算だった。

手代木は13年、アストラゼネカに対して14~16年に得る予定だったロイヤルティーの減額を提案する一方、受取期間を23年まで延長することに成功。

 

その前年には、抗HIV薬「テビケイ」を共同開発した英ヴィーブヘルスケアとの契約を変更。

関連する権利をヴィーブに渡す一方、同社の株式の10%を取得して、ロイヤルティー収入に加えて将来的な配当収入も得られる枠組みを手に入れた。

 

その結果、18年3月期には配当収入だけで200億円以上の利益を稼ぎ出した。

中長期的な収益基盤の安定化を図り、次世代リーダー育成にも積極的に進めた。

 

手代木が社長に就任して以来、10年で塩野義製薬の価値は5倍となった。

 

 

 

 

 

「塩野義製薬株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

1878
初代塩野義三郎、大阪道修町にて薬種問屋塩野義三郎商店を創業、和漢薬を販売

 

1886
取扱品を洋薬に転換

 

1897
欧米の商社と直接取引を開始

 

1909
自家新薬第1号制酸剤「アンタチヂン」製造、販売

分銅マークの商標登録

 

1910
塩野製薬所(大阪市福島区)を建設

 

1919
塩野義三郎商店と塩野製薬所を合併、株式会社塩野義商店に組織変更

 

1922
杭瀬工場(兵庫県尼崎市)を発足(現:杭瀬事業所)、工場内に研究室を設置

 

1924
大阪市道修町に本社新社屋を建設

 

194
塩野義製薬株式会社へ社名変更

 

1946
油日農場(滋賀県)を開設(現:油日事業所)

 

1949
株式上場(東京、大阪両証券取引所)

 

1950
鎮痛薬「セデス」発売

 

1953
総合ビタミン剤「ポポンS」発売

 

1957
基本方針の制定

 

1958
シノミンの発見

ディテールマン制度を確立

 

1959
サルファ剤「シノミン」発売

 

1961
中央研究所(大阪市福島区)を建設(現:医薬研究センターに集約)

 

1963
動物薬品部を設置(2002年譲渡)、植物薬品部を設置(2001年譲渡)、臨床検査室の業務開始(2002年譲渡)

台湾塩野義製薬(股)を設立

 

1964
1社提供番組「シオノギ・ミュージックフェア」放送開始

 

1968
摂津工場(大阪府摂津市)を建設

 

1976
日亜薬品工業(株)を設立(現:シオノギファーマケミカル(株))

 

1978
創業100周年

 

1980
シオノギ渋谷ビル(東京都渋谷区)を建設

新薬研究所(大阪府豊中市)を建設(現:医薬研究センター)

 

1982
オキサセフェム系抗生物質「シオマリン」発売

 

1983
金ケ崎工場(岩手県)を建設

 

1988
医科学研究所(摂津工場敷地内)を建設(現:医薬研究センターに集約)

オキサセフェム系抗生物質「フルマリン」発売

 

199
イーライリリー社からカプセル事業を買収(2005年売却)

シオノギ総合サービス(株)を設立

 

1993
新本社ビル(大阪市道修町)を建設

 

1997
セフェム系抗生物質「フロモックス」発売

 

1998
シオノギ行動憲章の制定(2012年改訂)

オオモリ薬品(株)を発足(2002年売却)

武州製薬(株)を設立(2010年売却)

 

2000
第1次中期経営計画スタート

 

2001
Shionogi USA, Inc.を設立(現:Shionogi Inc.)

海外JV:Shionogi-GlaxoSmithKline Pharmaceuticals LLCを設立し(後のShionogi-ViiV Healthcare LLC)、HIV感染症治療薬の共同研究開発を開始

 

2003
がん疼痛治療薬「オキシコンチン」発売

 

2005
第2次中期経営計画スタート

高コレステロール血症治療薬「クレストール」発売

カルバペネム系抗生物質「フィニバックス」発売

 

2007
がん疼痛治療用散剤「オキノーム」発売

シオノギ分析センター(株)を設立

 

2008
北海道大学との共同研究施設 シオノギ創薬イノベーションセンターを開設

高血圧症治療薬「イルベタン」発売

米国Sciele Pharma, Inc.を買収(現:Shionogi Inc.)

尋常性ざ瘡治療薬「ディフェリン」発売

特発性肺線維症治療薬「ピレスパ」発売

 

2010
抗インフルエンザウイルス薬「ラピアクタ」発売

第3次中期経営計画スタート

抗うつ薬「サインバルタ」発売

大阪大学大学院医学系研究科附属PET分子イメージングセンターを開設

シオノギテクノアドバンスリサーチ(株)を設立

 

2011
医薬研究センター(SPRC)内に研究所新棟 SPRC4を建設、創薬研究機能を集約

中国製薬企業 C&O Pharmaceutical Technology (Holdings) Limitdを買収

 

2012
欧州子会社 Shionogi Limited(英国)を設立

がん疼痛治療用注射剤「オキファスト」発売

ヴィーブヘルスケア社とのHIV感染症治療薬に関する新たな枠組みの契約を締結

高血圧症治療薬「アイミクス」発売

 

2013
北京塩野義医薬科技有限公司(中国)を設立

閉経後膣萎縮症治療薬「オスフィーナ」米国で発売

高血圧症治療薬「イルトラ」発売

アストラゼネカ社とのクレストールのロイヤリティーに関する契約を変更

Shionogi Singapore Pte. Ltd.を設立

 

2014
新中期経営計画スタート

HIV感染症治療薬「テビケイ」発売

 

2015
HIV感染症治療薬「トリーメク」発売

アレルゲン免疫療法薬「アシテア」発売

血小板減少症治療薬「ムルプレタ」発売

 

2016
シオノギヘルスケア(株)設立

高コレステロール血症治療薬「クレストールOD錠」発売

中期経営計画「Shionogi Growth Strategy 2020(SGS2020)」をupdate

 

2017
国内グループ会社を設立
シオノギキャリア開発センター(株)、シオノギデジタルサイエンス(株)、シオノギビジネスパートナー(株)、シオノギファーマコビジランスセンター(株)、シオノギマーケティングソリューションズ(株)

癌疼痛治療剤「メサペイン」発売

注意欠陥/多動性障害治療剤「インチュニブ」発売

オピオイド誘発性便秘症治療薬「スインプロイク」発売

持続性癌疼痛治療薬「オキシコンチンTR錠」発売

 

2018
抗インフルエンザウイルス薬「ゾフルーザ」発売

シオノギスマイルハート(株)を設立

 

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