《新潟DNA》田中角栄名言集と田中角栄のDNA
田中角栄名言集
どんな境遇におかれて辛い思いをしても、天も地も人も恨まない。
君達ね、自分の置かれている立場を有難てぇことだと思わんとダメですよ。寝言を言ったり不満ばかり言っている奴は、人生終わるまで不満を抱き続ける人間になるぞ。社会が悪い、政治が悪いなんて言って、一体なにがあるんだ。人に貢献できるようになってから言うべきものじゃないかね。
政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。
どうしても悪口を言いたければ、一人でトイレの中でやれ 無理して作った味方は、いったん世の中の風向きが変われば、アッという間に逃げ出していく。だから、無理をして味方を作るな。敵を減らすこと。自分に好意を寄せてくれる人たちを気長に増やしていくしかない。
「踏まれても、踏まれても、ついて行きます下駄の雪」ということだ。我慢、我慢ということだ。
自分の物差しは引っ込めて黙って汗を流せ。いいところは人に譲ってやれ。損して得取れだ。人にも好かれる。
大学の教授より、むしろ小学生の先生を大事にしなければいけない。小学校の先生が白紙の子供を教えるのだから。
人間は休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むか。私は一貫して後者だった。
世の中は男と女、半分ずつだ。女の本質がわからずに、支持があるわけがない。選挙だって勝てるわけがない。
わたしは表面はきついようですけどもね、きついようでいて、気が弱いんです。これは性格というよりも、環境からきてる。七人きょうだいのまんなかで、たったひとりの男の子なんです。しかも、からだが弱かったんですよ。いずれにしても、見かけと実際は非常にちがう。孤独も愛するしね。
教育ということを間違えてはいかん。子供時代の教育こそが、人間をつくる。
バカ野郎ッ。どこを見て政治をやっているんだ。お前たちは、日本のために政治をやっている。私情で動いてどうする。
一律削減にしたらダメです。そもそも国が何でもやるのは社会主義国で、民主主義国、自由主義国のなかでは政府のやるべきことは最小限でなければいけない。日本くらいになったら、国防と警察と教育だけ税金でやって、あとは全部民間でやる。国民の英知と国民の結集にまかせるのが先進国というものだ。官僚機構がすべての日本人を抑えるのは、低開発国時代の考え方だ。一般会計の分を財政投融資に持っていく。財政投融資の分を民間金融にゆずる。銀行行政のものを証券行政に持っていく。そして最後には税制を運用していく。民間企業活動の誘導は税制の運用であり、直接規制はできるだけやらないわけだ。こうしないと権限の委譲はできない。そして、これが先進国における理想の姿だ。
いずれにしてもね、憲法はどこの国のものでもなく、日本の憲法であるということだ。その成立に関しては、少しの疑義もあってはならんわけだ。国家に自由がないとき、主権を存在せざるときに憲法がつくれるものか。どうかね?そんなことは自明じゃないか。主権を拘束する力の存在するときにつくられた憲法は無効である、と。これがわたしが代議士になったころから先輩に教えられてきたことだ。
日中国交正常化は、大きな歴史の中で捉え、いつか誰かが果たさなければならない仕事であったと信ずる。
彼らは日本の大事な息子たちです。いま、ハシカにかかっているが、間もなく直る。学窓を出て、社会人になり、世帯を持って、子どもができ、父親になれば、世の中が理想や理屈どおりにいかない、それがわかってくる。大学でろくに勉強もせず、マージャンだこを作り、女の子の尻を追いかけ、外車の名前ばかり覚えてくる者に比べて、連中のほうが、はるかにみこみがあります。バカとハサミは使いようである。使うほうさえ、しっかりしていれば、将来、あの学生たちは世の中の役に立つ。
まず身内を知ることに神経を使え。身内のことも知らないで、一人前の口なんて利いてはいけない。自分のものさしばかりで物を言うなということだ。こういうのは、使いものにならない。黙って汗を流せ。いいところは、人に譲ってやれ。損して得取れだ。そうすれば人に好かれる。
大事なことは経験則だ。田んぼに入ったこともない者が、コメのことがわかるわけがない。
外に対しては、戦後一貫してきた平和国家の生き方を堅持し、国際社会との協調、融和を。内には、生産第一主義、輸出一本やりを改め、福祉を中心に据え、社会資本のストックの充実、先進国並みに社会保障水準の向上などバランスの取れた国民経済の成長を。
雪の降るところはダメだというものもいるねぇ。冗談じゃあない。世界の主要工業国は青森県より北だ。なぜ、こういうことに目を開かないか、寒冷地は工業地帯であります。
大都市に過度集中している大学を地方に移せ、ということは、わたしの持論だけれども、もう一つ、地方大学の拡充ということも必要な課題なんだ。戦後の学制改革で地方大学がたくさんできたとき、軽薄なマスコミは駅弁大学とバカにした。しかし、それはとんでもない話だ。特に国土の総合的、効率的利用ということがいよいよ大切になっている現在では、人材の地方分散ということを重視しなくちゃならんわけだ。その見地から言っても、地方大学の拡充を急ぐ必要がある。例えば、京都の織物の伝統を生かしたり、漆器の伝統を発展させることを目的とした、地方色豊かな工芸の大学が各地にあってもいいじゃないか。そうすれば、地方の伝統産業に新しい血を注入して、さらに発展させることもできる。大学は東京でなければならないなんてバカな話だ。あるべき姿は、その逆なんだよ。
政治家にはオール・オア・ナッシングというのはない。まず最善手を指し、次善、三善の策を考えることだ。
政治とは国民の暮らしをよくするためにある。我が国は発達した議会制民主国家であり、国民の知的レベルは高い。政治が国民の手の挙げ方、足の運び方まで指図する必要はない。政治の仕事は国民の邪魔になる小石を丹念に拾って捨てる。国の力でなければ壊せない岩を砕いて道をあける。それだけでよい。いい政治というのは、国民生活の片隅にあるものだ。目立たず、つましく、国民のうしろに控えている。“吹きすぎていく風”、政治はそれでよい。
結局、努力、勉強だ。こういったものが、運をとらえるキッカケになる。そのうえで、運を変えて見せるという気概も不可欠だ。
毛沢東とか周恩来という、いまの中国をつくった創業者は、共産主義であれ何であれ、えらい苦労をしてきた連中だ。多くの死線を超えてきた。それだけに、すべて無い物尽くしの中で、あのでかい国をやりくりしていくためには、今何が必要かということがよくわかっている。だから、あの連中が元気なうちに、この勝負を決めなければならないんだ。
第一は、できるだけ敵を減らしていくこと。世の中は嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自らの損得で動くということだ。第二は自分に少しでも好意を持った広い中間層を握ること第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ。
戦後、ゼロから出発した日本は高度成長を経て安定成長時代に入った。若木も天まで伸びることはできない。今後は財政主導ですべてをやれなくなったので、民間の力を噛み合わせて仕事をしていかなければならない。日本の行政機構は戦前に比べ、二十倍以上も膨らんでしまった。いまここで“すべてを基に戻す”とは言わないが、肥大化した行政機構を多少細身にして能率化、簡素化を図るのは当然だし、良いことだ。
デモ・シカ教師というのは困る。小学校・中学校の義務教育には情熱を持った先生が必要だ。それには先生が定年になって、役場の用務員だとか、倉庫の守衛をやらなければ食えないということではいけない。東大の教授は勲一等で、義務教育の先生たちが勲七等、勲八等というのは本来、逆ではないか。子供は小さな猛獣だ。これをアメとムチで鍛えて、あやして、一人前に育てあげるという仕事は容易なことじゃない。わが仕事を聖職と思い、情熱を燃やして、小さな魂を持った子供たちの良き師であるためには、暮らしに何の憂いなく教育に専念できるようにしなくてはならない。できれば先生方の月給を倍にしたいんだ。
ノーと言うのは、たしかに勇気がいる。しかし、長い目で見れば、信用されることが多い。ノーで信頼度が高まる場合もある。
大臣になって、故郷の駅前で壇上に立ったときに下をみると、旗をもった少年少女がいて、泣きたくなるんで、ひょっと上をみた。そのときに感じたのは、故郷の山河はイイナということです。しみじみとして、こうべを深くたれた。そういうふうに、十五、六の女の子みたいなロマンティックなものが、たえずつきまとっておるんです。
明治百年に至る近代日本の道のりは、地方に生まれ、育った人たちが大都市に集中し、今日のわが国をつくる牽引車となったことを示している。しかし、明治二百年に向かう日本の将来は、都市に生まれ、育った人たちが新しいフロンティアを求めて地方に分散し、定着して、住みよい国土をつくるエネルギーになるかどうかにかかっている。そのためには地方に産業を興し、高い所得の機会をつくるとともに、文化水準が高く、経済的、社会的に十分な都市機能を持った地方都市を育成しなければならない。大都市との情報格差をなくし、地方都市に住む人々が豊かで便利な暮らしができるように日常の生活環境をきめ細かく整備することである。
私はかつて、人の悪口を言ったことがあるか!誰か一度でも人の悪口を言ったのを聞いたことがあるか!私は一度もない。
選挙になって、料理屋に上がってふんぞり返って、昼から刺身だ、天ぷらだ、と言っている奴は必ず落ちる。選挙のときは握り飯に限る。昔から戦(いくさ)に握り飯は付きものだ。
私たち夫婦には正法(まさのり)という長男がおりましたが、仏法の名前負けをしたのか、幼くして肺炎で亡くなりました。眞紀子という名前は訓読みをすると『まさのり子』となります。年子の兄妹はとても仲良しで、まるで双子のようにして育ちました。正法の死は今も私たち夫婦にとって痛恨の極みであります。長男の死後は、眞紀子をあえて女の子というよりも、田中家の跡取りとして男の子のように育ててきました。
物事の判断を間違えず、どんな時にも責任を取れる人間として教育をしてきたつもりです。その点に関してはいささか自信があります。そこで今後、直紀君が眞紀子に対して料理や掃除など家事一切を普通の女性並みに求めてもらっては困るのであります。そういう教育はまるでしてありません。
言わんでいいことをズバリと相手構わず言ってのけます。しかも困ったことにそれが結構的を射ているのであります。しかもさらに続く理屈がこれまた結構理路整然としているので始末が悪い!かくいう私もかなりひどい目にあっている。そこで、今後そういうことがあった場合には遠慮なく殴ってくれて結構です。お転婆娘が今日から私の手を離れると思うと、こんなうれしいことはありません…
怒鳴るな。連中も俺のところに来たくて来るんじゃない。仕事で来るんだ。カメラマンは俺の写真、面白い顔をしたのをぱんと撮らなきゃ、社へ帰ってデスクに怒られるぞ。新聞記者だって、お前から無愛想に扱われ、つっけんどんけんやられて、俺が目白の奥で何をしゃべっているか、それも聞くことができないで記事に書けなけりゃあ、社に戻ってぶっ飛ばされるぞ。彼らも商売なんだ。少しは愛想よくしてやれ。
総理大臣がなんぼ偉かろうが、そなんなこと関係しません。人の恩も忘れちゃならねえ。はい、苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。枯れ木に咲いた花はいつまでもねえぞ。みんな定めでございますよ。政治家なんて喜んでくれる人が7分なら、嫌ってくる人も3分はある。それを我慢しなきゃ、人間棺桶に入るまで、いい気になっちゃいけねえだ。でけえことも程々にだ。
田中フメ(角栄母)
仕事をすれば、批判、反対があって当然.何もやらなければ、叱る声も出ない。私の人気が悪くなったら、ああ田中は仕事をしているんだと、まぁこう思っていただきたい。
人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。
私が田中角栄だ。尋常小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。われと思わんものは誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。なんでも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。出来ることはやる。出来ないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!
田中角栄のDNAと歩み~田中角栄の経歴・プロフィール・生い立ちなど~
田中角栄
田中角栄。
1918年新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現:柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。
ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。
田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。
母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。
幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。
幼い頃、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い、浪花節を練習して矯正した。
1933年(昭和8年)、二田高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。
卒業後の田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた。
旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という。
1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する。
だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。
その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。
一時は、海軍兵学校入校を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた。
1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。
これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。
この頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了)にも籍を置き、商事実務を学ぶ。
1938年(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営が通知される。
1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。
軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む。
入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった。
1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。
しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。
治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。
家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。
同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。
1943年(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。
理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。
田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。
1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。
8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。
敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。
田中土建工業は戦災を免れる。
1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区から立候補する。
田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した。
翌1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する。
民主党は日本社会党・国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。
同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。
民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。
この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た。
民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く。
しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する。
新内閣で田中は法務政務次官に就任した。
まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。
12月12日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。
直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。
この選挙に田中は獄中立候補する。
政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたものの、わずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。
地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。
都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。
炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。
再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。
田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ。
その主なものとして建築士法や公営住宅法などがある。
公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し、後に日本住宅公団が設立された。
また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した。
二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた。
1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした。
民主自由党は1950年3月に自由党となる。
田中は1954年に自由党副幹事長に就任。
「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった。
1955年3月、衆議院商工委員長となる。
同年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党する。
田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
1957年(昭和32年)第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。
戦後初めて30歳代での国務大臣に就任した。
テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 – キー局 – ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。
1961年(昭和36年) 自由民主党政務調査会長。
1962年(昭和37年)第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。
豪雪のサンパチ豪雪に、田中角栄大蔵大臣が初めて災害救助法を適用させた。
1965年(昭和40年)大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
1968年(昭和43年)自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。
1969年(昭和44年)大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)成立を働きかけ、大学紛争を収束に導く。
1971年(昭和46年)第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。10月日米繊維交渉が決着。
1972年(昭和47年)『日本列島改造論』を発表。
佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
7月第1次田中内閣が成立。
初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相。
各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。
1972年(昭和47年)日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。
北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。
9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。
1973年(昭和48年)西ヨーロッパ訪問。ソビエト連邦訪問。
10月第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。中東政策をイスラエル支持からアラブ諸国支持に転換するとともに中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた。
11月福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法等電源三法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ充てる。
1974年(昭和49年)東南アジア訪問。メキシコ訪問。共同声明を発表。
10月月刊誌『文藝春秋』(1974年11月号)が、立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し田中金脈問題を追及、首相退陣の引き金となる。
11月日本外国特派員協会における外国人記者との会見や国会で金脈問題の追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。12月内閣総辞職。
1976年(昭和51年)ロッキード事件発生。
アメリカ合衆国の上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。
12月第34回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、三木内閣は総辞職、福田赳夫内閣発足。
1978年(昭和53年)第1次大平内閣発足。田中が強く支持。
1980年(昭和55年)第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。
1982年(昭和57年)上越新幹線暫定開業(大宮 – 新潟)。第1次中曽根内閣発足。
1985年(昭和60年)創政会が発足。2月27日脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。7月4日竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。竹下内閣が発足。
1993年(平成5年)7月第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。
12月16日慶應義塾大学病院にて痰が喉につかえたことからくる肺炎のため75歳で死去。
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