Contents
どん底を恐れてはいけない。いやむしろどん底をともにすべきだ。~室伏広治名言集と軌跡~
新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
■室伏広治名言集
周りを見ながら余裕を持って取り組む。それが『集中』だと思うんです。集中というと一つのモノにギューっと入り込んでいく姿を考えがちですが、そうじゃない。視野を広く持ってのびのびしている状態。
さまざまな人のアドバイスに積極的に耳を傾けるということも心がけています。自分の殻には閉じこもらないことですね。
あるとき大会で同級生のハンマー投の応援をするとき、私だけ一人背を向けていたことがある。「なんだ室伏、お前も応援しろ」と注意され、思わず「親父からいいものを見ろ、悪いものを見てはいけないと言われているので」と答えたら、驚かれた。
できないことをやるのが練習。慣れてしまったらトレーニングとは言わない。だって、もうできてるんだから。
私もそうですが、指導者はいろんな経験があった方がいい。問題点が病であればそれを治す薬を投与しなければならない。また個々に病気が違うので、心を込めて、絶えず選手を見ていかなければなりません。でもそれで終わっては駄目です。選手が指導者を乗り越え、より上の器量を持つように育てなければなりません。だから考えさせる。指導者が全部お膳立てするのは良くない。自分から動こうとせず、ロボットになっちゃう。
技を極めるのは、紙を毎日重ねるようなもの。しかも、紙が本物でなければならない。瞬間のひらめきや、1日や2日でできるものではない。
アスリートにも普通の仕事をしているひとにも、それぞれの人生があって、これが私の人生だという風景があると思うんです。僕にとってそれは、きらびやかなスポットライトを浴びる瞬間ではなく、穴を埋めたり、ハンマーを磨いたりする日常の作業なんです。
現状よりも良くするには、次にどうすればいいか、絶えず考えること。私の息子にできるアドバイスもそれしかないと思うんです。昔を振り返らない。むしろ先を考えていく。ロケットみたいにぐんぐん進むだけだと。
私はハンマー投げの選手としては、体格の面で決して恵まれていたわけではありません。固定観念に縛られない発想と創意工夫を続けなければ、世界のトップ選手と勝負できなかった。
新しい何かを得ようとする能動的な姿勢が、自分を客観的に見つめ直す気持ちを持ったり、欠点と向き合ったりする機会となり成長につながる。
結果を出せたのは、目的と目標を定めて最短の軌道を描くことができたからだと思います。目的とは「最終的に実現したいこと」、目標は「その目的のために実現させるべきこと」です。
現役中は競技に専念・集中しないと成績が落ちるといったことを、本気でおっしゃる方もいますが、私はそうは思いません。私自身セカンドキャリアを見越して、現役中に大学院で学び、研究していました。「トップアスリートとしての自分」と「研究者としての自分」の2つのライフワークがあったからこそ、長く競技を続けられたとも思います。
ハンマー投げは、誰が勝つかというスポーツではなく、「ここで誰が試合から退くか」というゲームだと思っています。メダルを狙うには決勝のパフォーマンスに響かないように、予選で確実かつギリギリの目標値を狙って投げればいいわけです。ルールをよく知り、戦術を考え、必要な準備を行い、ムダを省く。それが、年を経ても戦うために必要なポイントでした。
アテネ五輪を終えてから体の疲労が抜けきれず、今までのように自分を追い込む練習ができなくなっていました。アスリートは30歳前後が引退するか迷う時期かと思いますが、38歳で自己記録を更新した父の影響もあって、競技を継続したい気持ちはありました。でも、すでに29歳だったので年齢との戦いにもなる。目標設定をどうすればいいか、正直迷いました。そんな時、尊敬する先生が「君の対戦相手は、無限の蒼空と不動の大地だ」という言葉をくださった。これはライバルに勝って金メダルを獲るとか、世界記録を出すとか、そんな小さくてくだらないことを目標にするのはやめなさい。不動の大地と広い大空を相手にハンマーを投げる喜びを追求しなさいというメッセージでした。はっとして、肩にのしかかっていた重荷がすっと落ちたような気がしました。視点ががらりと変わって自分の考えの小ささに気づいたあの瞬間は、その後10年以上、世界のトップで戦い続けられることになった、まさしく私のターニングポイントでした。
金メダルよりも重要なものが他にも沢山あるんじゃないか。
オリジナルを作りあげなきゃ、世界では勝てない。日本も海外もない、自分の体に合った動き、人間が本来もっている普遍的な動きがあるんじゃないかと思うようになったんです。
本当に大切なのは、メダルへ向けて努力していくことだと、今も思っている。
目標が高くなれば意識も高まる。
正解は1つではなく、常識だけの中にあるものではない。
スランプは大切です。そこに陥らないと人はなかなか自分を直そうとしたがりませんから。
弱い負荷しか体験したことのない人間は、強い負荷に耐えられない。「負」に対する免疫を作るためにはどん底を恐れてはいけない。いやむしろどん底をともにすべきだ。
全てがうまくいくとハンマーの重さがゼロになる。
俺にしかできないことがある。精一杯やれることがあるのはかえって幸せなのではないか。
■室伏広治とは?
室伏広治。
元男子ハンマー投選手。
静岡県沼津市出身。
フルネームは広治アレクサンダー室伏(Koji Alexander Murofushi)。
父親は「アジアの鉄人」こと室伏重信(前日本記録保持者、中京大学名誉教授。広治自身も「鉄人」と呼ばれている)。
母親はオリンピックやり投ルーマニア代表のセラフィナ・モーリツ。
父親が日本人で母親がハンガリー系ルーマニア人のハーフ。
現地のミドルネーム(アレクサンダー)を持つ。
妹はアテネ五輪女子ハンマー投代表・女子円盤投日本記録保持者の室伏由佳。
静岡県沼津市生まれ。
愛知県豊田市立東保見小学校、豊田市立保見中学校卒業。
1990年に千葉県成田高等学校に進学。
入学当初はやり投、走幅跳、三段跳、ハードルなどさまざまな競技に取り組んでいた。
高校1年の夏前から専門種目としてハンマー投に取り組み、日本高校新記録・高校最高記録を樹立。
インターハイは1991年・1992年と2連覇を達成。
1993年に中京大学に進学。父・室伏重信や溝口和洋のコーチングを受け、日本学生新記録・日本ジュニア新記録を樹立。
インカレ4連覇を達成。
1994年の広島アジア大会では67m48を投げて2位。
1995年の第79回日本選手権では69m72を投げて大会初優勝を果たした。
1997年にミズノに入社。
同年の世界陸上アテネ大会では74m82を投げて10位。
1998年4月26日に行われた群馬カーニバルで父・室伏重信の持つ日本記録を更新する76m65を記録。
12月13日のバンコクアジア大会では78m57で大会初優勝。
1999年の世界陸上セビリア大会では75m18を投げて予選14位。
2000年5月13日の大阪国際グランプリでは初の80メートルスローとなる80m23を記録して優勝。
シドニーオリンピックでは雨天のコンディションから76m60で9位に終わり入賞を逃した。
IAAFグランプリファイナルでは80m32で2位。
2001年7月14日の中京大土曜記録会では世界歴代7位(当時)となる83m47を記録。
8月5日の世界陸上エドモントン大会では82m92を投げて2位になり、銀メダルを獲得。
投擲種目でのメダル獲得は世界陸上・五輪を通じて日本人初。
9月7日にブリスベンで行われたグッドウィルゲームズでは82m92で優勝。
2002年5月11日のドーハグランプリでこの年のシーズンベストとなる83m33を記録。
9月14日のIAAFグランプリファイナルでは81m14で優勝、20日のIAAFワールドカップでは80m03で2位。
10月8日の釜山アジア大会では78m72で優勝し大会2連覇を達成。
2003年5月10日の大阪国際グランプリでは82m95で優勝、6投すべての試技で81mを超えた。
6月8日の第87回日本選手権では83m29の大会新記録で9連覇を達成。
6月29日のプラハ国際で世界歴代3位(当時)となる84m86を記録、過去15年における世界最高記録。
2004年6月6日の第88回日本選手権では82m09を投げて父・重信と並ぶ10連覇を達成。
8月22日に行われたアテネオリンピック の大会中は82m91の記録を残し2位となったが、83m19の記録で1位となっていたハンガリーのアドリアン・アヌシュにドーピングがアテネオリンピック最終日の8月29日にドーピング違反で失格処分となり、室伏が優者。
陸上・投擲種目における金メダル獲得はオリンピック、世界選手権を通じてアジア史上初。
2005年は第89回日本選手権にのみ出場、76m47で11連覇を達成。
2006年の第90回日本選手権では80m17で12連覇を達成。
9月10日のワールドアスレチックファイナルでは81m42、16日のIAAFワールドカップではシーズンベストとなる82m01を投げて優勝。
2007年6月30日の第91回日本選手権では79m24で13連覇を達成。
8月27日の世界陸上大阪大会では、決勝8人のうち7人が80メートル以上を記録する中80m46で6位に終わった。
ワールドアスレチックファイナルでは77m95で3位。
2008年6月27日の第92回日本選手権では80m98で14連覇を達成。
2009年は第93回日本選手権にのみ出場、73m26で15連覇を達成。
2010年の第94回日本選手権では77m35で16連覇を達成、IAAFワールドチャレンジミーティングスでは8月29日のリエティ大会で世界ランキング1位となる80m99、9月1日のザグレブ大会で79m91を投げて優勝し、IAAFハンマースローチャレンジの初代年間チャンピオンとなった。
2011年5月8日のセイコーゴールデングランプリ川崎では78m10で2位になり、世界選手権標準記録Aを突破。6月11日の第95回日本選手権では77m01で17連覇を達成。
8月29日の世界陸上大邱大会では3投目と5投目に81m24を投げて優勝、世界選手権で初の金メダルを獲得。
日本人選手で初となる五輪・世界選手権二冠覇者になるとともに、世界選手権における男子最年長優勝者(36歳と325日)となった。
2012年6月8日の第96回日本選手権では72m85で18連覇を達成。
8月5日のロンドンオリンピックでは78m71で3位になり、銅メダルを獲得。
2011年と2012年の日本陸上連盟の年間表彰式「アスレティック・アワード」において、アスリート・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)に選出。
2013年6月9日の第97回日本選手権では76m42で19連覇を達成。
8月12日の世界陸上モスクワ大会では78m03を投げて6位入賞。
2014年6月7日の第98回日本選手権では73m93を投げて優勝、同大会の20連覇を達成。
2014年の「アスレティック・アワード」では特別賞に選出。
2014年6月、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会スポーツディレクターに就任。
同年7月に東京医科歯科大学教授 兼 スポーツサイエンスセンター長に内定。
同年8月に東京医科歯科大学特任教授を経て、同年10月より同教授に就任。
2015年3月12日、日本陸上競技連盟の新理事に6月改選の次期役員として内定、就任。
2015年6月、日本オリンピック委員会の理事に就任。
2016年6月選手引退を表明。
2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会スポーツディレクター・理事。スポーツ庁 オリンピック・パラリンピック教育に関する有識者会議委員などを兼任している。