気持ちは熱く、プレーは冷静に。~遠藤保仁(サッカー)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■遠藤保仁(サッカー)名言集

サッカーで緊張ってのは……ないよね。むしろ車の免許を取るときの筆記試験のほうが緊張した。ちょうど移籍で横浜から京都に引っ越す間際で、ここしかない一発勝負。絶対に受からなアカンと思ってたから、あれがこれまでで一番緊張したんじゃないかな。

キャプテンが怪我とか出られないときはキャプテンマークつけてますけど、あんなんつけてるだけっすよ。僕は。

朝の7時から7時半まで庭で毎日、遠藤家の3兄弟に近所に住む2人の友達を加えた5人でミニ・ゲームをして学校に行く、というのが日課でした。雨と火山灰が降っている日以外はほぼ毎日やっていたと思います。本当に楽しい30分でした。「ゴールを決めたい」、「兄からボールを奪いたい」という一心でプレーし、それができたときは本当にうれしかったのを今でも覚えています。年上の選手たちとプレーしたことで工夫する習慣を自然と身につけたのかもしれません。あの30分間で学んだこと、身につけたことというものも多少はあると思います。少なくとも、「今日は負けた。でも、明日は頑張ろう」という日々を繰り返した結果、負けず嫌いにはなれました(笑)。

ザッケローニ監督は「できるだけ前を向いて、サイドをしっかり使おう」というんですが、僕はバックパスも嫌いじゃないので、ダメって言われてもやります(笑)。

当時、桜州サッカースポーツ少年団の藤崎信也・監督が「止める、蹴る」といった基本を大切にする方だったため、基本練習を繰り返していた記憶があります。例えば、「コントロールして右足で蹴る、左足で蹴る」や「浮き球を正確に、かつスムーズにコントロールする」練習を繰り返しました。チームプレーも練習していましたが、それこそ「嫌というほど」基礎練習をやりました。正直に言えば、「面倒だな」と思ったこともありましたが、あの練習が今の自分を支えている感じもします。ボランチという僕のポジションではスムーズな「止める、蹴る」が求められます。コントロールする前に周囲を見る、といったことも当たり前のようにしなければいけません。幼い頃から基礎を積み重ねてきたからこそ、その後のいろいろな経験を自分の力に変えられ、今の自分のスタイルというものがあると考えています。

現役でいる間は常に代表に入りたい。年齢?今のところ気にしていない。科学的にはいろいろ出てくるだろうけど気にしてもしようがない。

「気持ちが乗らない時はやるな」、「絶対にやるな!」です。そんな時にやっても意味ないです。

メンタル面ですね。「心技体」とはよく言ったものだと思います。心は大切だと思いますね。高校では厳しいことも経験して、精神面が鍛えられました。連帯責任で、自分とは全然関係ないのに怒られるということもありましたから。当時は仕方がないと思っていましたし、そのおかげでちょっとしたアクシデントは気にならなくなりました。

頭を使うことで疲れるような選手になりなさい、というのを常日頃から言われていました。

ゲームを支配し、勝つ確率を高めるためには、他の選手が何を考え、何を感じているのかを、よく理解している必要があります。同時に、こちらが考えたり感じたりしていることを、他の選手によく理解してもらう必要がある。そのためには、遠慮なく言い合うことが不可欠なのです。

ライバルに勝つためにどうするのか、まず整理します。何がいけないのかを考えて、次に自分は何が得意なのか、何をすれば他の選手に負けないのかを考えた上でトレーニングするのです。僕はその繰り返しをやってきました。あまり大きなことは言えないのですが、その部分だけはしっかりやってきました。

会社の場合は上司や先輩に物を言いにくい雰囲気があるのかもしれません。でも、何でも言い合える関係を作ることが、良い結果を生むことにつながるのだと思います。

僕は会社勤めをしたことはありませんが、自分が考えていることを言い合うことが大切なのは、どんな仕事でも同じなんじゃないかと思います。

意見を言い合う中から、「なるほど、この人はこんなことを考えているのか」ということを理解できるからです。言い合うことが大事なのは、選手同士だけではなく、選手と監督の間でも同じです。

人生、ダメでもともと。成功したら儲け物。

幸せなことをしてるなぁ、ってつくづく思うよ。だって、サッカーでメシが食えてるんだから。ほかの仕事じゃない、サッカーでだよ。自分はどんだけ幸せな位置にいるのかを、ずっと感じながらプレーしてきた。代表でもがいてるとか、言ってみればトップでしか無理な話でしょ。幸せなところでもがいてる。昔、カルロス(鹿実時代のブラジル人コーチ)に何度も言われた。俺らは全部、手も足も耳も目も不自由なく使えて、サッカーがやれてる。それだけで幸せやぞって。たしかになぁってずっと思ってやってきた。サッカーしたくてもできない人がいて、運動ができない人だっている。俺の悩みなんて大したことない、幸せなところでの愚痴にすぎないって。試合に出れる出れないの悔しさなんて大したことない、自分の努力次第でなんとでもなるんやと。仕事の壁をどんどんぶち破っていかないとダメ。物事を大きく捉えながら、小さいものを開拓していく。サッカーしている時点で幸せ。だから小さいことでグチグチ言うなって感覚は、いまでもある。

一番になる必要はない。生き残ることが大事。

人のこと言ってもしょうがない。だって、同じものが見えてるわけじゃないから。自分の立場で、自分の絵に沿って人のことを言っても、それはただの文句にしかならない。だから俺は若手に対しても、必要最低限のことしか言わない。訊かれたらなんでも話すけど、答を押しつけたりは絶対にしないよね。

どこにいても、何歳でも、成長できる。

サッカーは楽しむもの。サッカーを始めた頃から、この一点の軸がブレたことはない。

俺もそうだったけど、人は苦難を乗り越えるたびに何かを発見したり、本当に大事なことが身に付くからね。

基本は、上のレベルに行くほど忘れられがちだ。でも、上のレベルに行けば行くほど大事になる。

基本ができないと、何も先に繋がらないし、成長しない。これは、サッカーだけではなく他のスポーツはもちろん、仕事もそうだし、何事にも通じる真理でしょ。

俺が思うに1回のミスで、クヨクヨしている選手は上のレベルには行けない。たしかにミスした後の反省は大事だけど、それを引きずって、オドオドしたプレーをするのは最悪だからね。

日本人は、上の人から「これをやりなさい」と指示を出されると、与えられた指示を忠実にこなそうとします。これは日本人の長所でもあるのですが、個性を殺してしまう事にもつながります。

仕事で意見が対立するのは、相手のことが嫌いだからではありません。お互いに「試合に勝つ」とか「チームを強くする」といった目標を共有していて、その目標を実現するために必要だから言い合うんです。

海外の選手は、試合中や練習中は激しく言い合ったとしても、ピッチを離れれば、すぐに仲の良い友達になるんです。仕事とプライベートをはっきり分けているんです。仕事で意見が対立するのは、相手のことが嫌いだからではありません。お互いに「試合に勝つ」とか「チームを強くする」といった目標を共有していて、その目標を実現するために必要だから言い合うんです。そして、仕事上での意見は違っていても、人間的には良いヤツであることがわかっているから、仕事が終われば仲良くつき合うことができる。そういう「怒り合える」人間関係が理想だと思っています。

監督には監督のやりたいサッカーがありますから、こちらの意見を受け入れてくれるとはかぎりません。でも、だからこそ、自分の考えを言うことが大事なのです。意見を言い合う中から、「なるほど、この人はこんなことを考えているのか」ということを理解できるからです。言い合うことが大事なのは、選手同士だけではなく、選手と監督の間でも同じです。

よく、「可愛い子には旅をさせよ」と言うけど、異国の文化に触れ、刺激を受けることは、確実に人間的な成長を促してくれる。

新しい風にどんどん触れることは、逆に自分のサッカー観をより磨くことができるし、自分を進化させるための必須条件だと思っている。

時間をかけて培ったものを変えるのは、勇気がいるけど、時代とともにサッカーは常に進化しているし、絶対はない。

チャンスを掴んだのは、やっぱり辛い経験を乗り越えて、あきらめずにチャンスを待つことができるようになっていたからだと思う。

長い間、いろんな経験が積み重なって、その人のオリジナルのプレーが体内で熟成され、勘が働くようになる。すると無意識のうちに「これだ」と閃き、体が反応してくれるようになる。相手は、そのプレーを絶対に読み切れない。だから、直感が閃かないとサッカーはできない。

サッカーでは、それぞれが「個」を活かしたプレーができないと、局面を打開することができません。だから、あまり細かい指示を出すのは、日本人選手に対してはマイナスではないかと考えます。

井の中の蛙では、絶対に成功しないし、成長もできない。

人生、ダメでもともと。成功したら儲け物。

しゃべることもひとつの仕事。代表に入ってから、そこはすごく考えるようになった。影響力があると思うから、メディアの人も俺に話を聞きにくるわけでしょ。爆弾発言はしないし、内容には気をつけて話してるけど、大事な役割のひとつだと思って接している。 若いときは気持ちに波があるから対応もまちまちだったけど、プロとして果たすべき仕事。悪いときでもひと言ふた言は発して、今日はすいませんって言えるかどうかやと思う。ドイツから南アにかけてですごく重要だと感じたし、メディアとはすごく良い距離感でやれてきたかなって。

1本のパスを大切にして、「パスの一本一本すべてにメッセージを込めて出したい」と思っている。

サッカーも、ほかの職業も同じですけど「自分のストロングポイントを見つける」ということは非常に重要だと思います。全部をパーフェクトにこなすのはほぼ無理だとは思うので、何か1つ自分の中で飛び抜けたものを探して、それを磨いていくっていうことが大切だと思います。自分は、何が出来て何が出来ないかっていうのは自己分析で出来ることですし、また周りの人から見た目も参考になります。己の性格も含めて弱点も目をつむらずに自己評価をするのも大事です。

仕事でも最初からなんでも成功することなんてありえないし、失敗から人は学んでいくものだ。

松下幸之助さんの本や、ユニクロの柳井社長の本は何度も読み直しました。大企業のトップに立った人の考え方や発想はすごいなと思います。人を動かすという意味では同じような立場にいるので、いろいろな人がそれぞれのモチベーションの上げ方を持っているのを知ると面白いですね。サッカー選手も人それぞれ性格が違うので、接し方もすべてが同じようにはいかない。そのへんを頭に入れながら、一言、二言かけてあげるだけで違うとは思いますし、そういう部分で経験の多い選手が必要なのかなと思います。

ミスは、気にする必要はない。誰だってミスはする。重要なのは、そのミスをどう次に活かすか。同じミスを何度も繰り返すのは、どんな世界でも許されないからね。

ミスして周囲に批判されても、誰も自分の代わりに責任は取ってくれない。だったら、ミスを恐れず、思い切りプレーした方が自分も納得がいくはずだ。

「気持ちの強さ」は、世界に通じる選手になるためには、すごく重要な資質のひとつだと俺は思う。そして、「気持ちの強さ」が生む最後の踏ん張りが勝利には非常に重要になってくる。

「夢はグラウンドに落ちている」と、俺は思っている。チャンスをもらった時、いかに普段通りに、自然体でプレーできるか。そのためには若い時からいろんなことにトライして、試合や大会を通して経験を積み、自分のモノにしていく努力をすべきだ。そうすれば徐々に自信もついてくる。何もやらないで、自信だけが突然、身に付くことはないからね。

目前のことをしっかりできない選手が、先のことなどできるわけがない。

いくつになっても人との出会いやキッカケで「人間って成長できるものだな」と実感した。

脳はね、まだ進化できる。考えるスピードじゃない。サッカーの捉え方に幅が広がっていくと言えばいいのかな。いろいろ引き出しができてて、こうなったらこうなるやろって思い描けるようになる。教科書通りにテーブル上で動かすんじゃなく、流れのなかで感じる部分っていうのは、まだまだ伸ばしていけるってことよ。

俺もそうだったけど、人は苦難を乗り越えるたびに何かを発見したり、本当に大事なことが身に付くからね。

これまでのサッカー人生はいいことばかりではなく、自分にとっては辛いことの方が多かったけど、それはすべて自分の人生の糧になっている。

気持ちは熱く、プレーは冷静に。

■遠藤保仁(サッカー)とは?

遠藤保仁。

1980年生まれ、鹿児島県鹿児島市出身。

鹿児島県鹿児島市に三兄弟の末弟として生まれ、6つ年上の長男・拓哉と4つ年上の次男・彰弘に影響され、物心ついた頃から自宅の庭でボールを蹴っていた。

鹿児島実業高等学校では1年生時の1995年に高校選手権優勝。

2年生時の1996年には高円宮杯優勝、高校選手権では準々決勝でPK戦で敗れたものの大会優秀選手に選ばれ、U-18日本代表にも選出された。

また、2年時には当時鹿児島実業サッカー部を指導していたブラジル人コーチのジョゼ・カルロスの勧めで1カ月ブラジルに短期留学し、サンパウロ州のECサンベントの練習に参加した。

高校卒業後の1998年に横浜フリューゲルスへ加入。

当時の監督カルロス・レシャックから才能を見いだされ、リーグ開幕戦の横浜マリノス戦でいきなりプロデビューを果たし、8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点を挙げ、1年目でリーグ戦16試合に出場するなど順調な滑り出しを果たした。

しかし、同年限りでクラブが消滅したため、手島和希、大島秀夫、辻本茂輝ら他の新人選手とともに1999年に京都パープルサンガへ移籍。

1999年、U-20日本代表としてナイジェリアで開催された第10回ワールドユース選手権に出場し、日本代表の準優勝に貢献。

京都ではレギュラーに定着するも2000年に京都がJ2へ降格したため、2001年にガンバ大阪へ完全移籍した。

G大阪では2002年に就任した西野朗監督の下、攻撃的なスタイルを標榜するチームの中心選手になり、移籍3年目の2003年に初めてJリーグベストイレブンを受賞する。

2002年、当時の日本代表監督ジーコによってフル代表に初招集され、11月20日のキリンチャレンジカップ・アルゼンチン戦で初出場を果たし、以降、代表レギュラーの座を勝ち取る。

翌2003年には、FIFAコンフェデレーションズカップ2003に全試合スタメン出場。

同年8月20日のナイジェリア戦で待望の代表初ゴールを挙げる。

当時のボランチは同期の小野伸二や稲本潤一、中田浩二といった海外組を始め、同じ国内組の福西崇史などがいたため激戦区であったが、2004年のアジアカップレギュラーとして日本代表の優勝に貢献した。

2005年、この年自身初のシーズン2桁得点を記録し、リーグ最終節の川崎フロンターレ戦では、PKでG大阪にとって初タイトルとなるJリーグ優勝を決める決勝ゴールを挙げ、自身にとっても初となるJリーグ優勝を経験。

2006年からは、二川孝広・橋本英郎に加えこの年新加入した明神智和とで構成された抜群のパスワークで相手を圧倒する中盤は「黄金の中盤」と称された。

12月2日に行われたリーグ最終節の浦和レッドダイヤモンズ戦で復帰するも、チームは敗れリーグ連覇を逃した。

2007年12月、オシム監督が病に倒れ退任、急遽監督に就任した岡田武史は、遠藤もオシム時代同様にオフェンシブハーフでの起用。

2008年の南アフリカW杯アジア3次予選から、長谷部誠とダブルボランチを形成。

守備陣と攻撃陣のパイプ役を担って、南アフリカW杯予選突破に貢献し、岡田からは「チームの心臓」と称された。

2007年シーズンは通して大きな体調不良もなく、リーグ戦全34試合にフル出場し、ナビスコカップ優勝にも貢献。

しかし、2008年6月末にウイルス性感染症により、再び1ヶ月以上の離脱を余儀なくされ、オーバーエイジ枠でのメンバー入りが確実視されていた北京オリンピック日本代表を辞退することとなった。

ガンバは復帰後のACLではアシストを連発し、特に準決勝の浦和戦では2戦合計2ゴール2アシストと全得点に絡む活躍でクラブ初のアジア制覇に貢献し、大会MVPを受賞した。

同年11月には、イングランド2部のプリマス・アーガイルFCからオファーを受けるが、家族のことなどを考慮してガンバに残留した。

同年度の天皇杯優勝にも貢献し、ガンバでは2005年のアラウージョ以来となる日本年間最優秀選手賞を受賞した。

2009年11月にはAFCから日本人では1993年の三浦知良、1995年の井原正巳、1997年、1998年の中田英寿、2002年の小野伸二以来5人目(6度目)となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した。

リーグ戦では自身5年ぶりとなる2桁得点を記録し、2010年1月1日に行われた天皇杯決勝の名古屋グランパス戦では、2ゴール1アシストと圧巻の活躍を見せガンバの天皇杯連覇の立役者となった。

なお、この頃からポジションを代表と同じボランチに移すようになった。

2010年10月12日、親善試合の韓国戦で、井原正巳、川口能活、中澤佑二に次ぐ4人目、GKとDF以外のポジションの選手では初となるフル代表100試合出場を達成。

南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからもレギュラーとして起用され、2011年1月に開催されたアジアカップでは全6試合にスタメン出場を果たし、チーム最年長、チーム最多CAP選手として若いチームを引っ張り、日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に大きく貢献。

2012年、前年に移籍した山口智に代わりガンバの副主将に就いた。

6月23日、J1第15節札幌戦で、三浦淳宏の記録を抜く当時のJリーグ歴代1位となる通算16得点目の直接フリーキックを決めた。

7月21日、カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチでは、サポーター投票で最多の320,709票を集め、Jリーグ選抜の一員として出場した。

この年、ガンバは極度の不振に陥り、自身は代表との過密日程ながら5年ぶりにリーグ戦全試合に出場したが、京都時代以来のJ2降格となった。

2013年、J2降格となったガンバに残留。

また、明神智和から引き継ぎプロ入り以来初の主将に就いた。

自身初のJ2でのプレーとなったこの年、日本代表との並行日程でリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、終始安定したプレーを発揮し、ガンバのJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献。

シーズン終盤には、フォワードとしてやや高い位置でプレーしながら、この年チーム最多得点を記録した宇佐美貴史をサポートする役割を担った。

シーズン終了後のJリーグアウォーズでは、サポーターの投票で選出されるJ2最優秀選手賞にあたる「J2 Most Exciting Player」を受賞した。

2014年5月、ブラジルW杯代表に選出され、日本代表では唯一ドイツ大会から3大会連続選出となった。

2014年、開幕当初は前年の後半戦同様、前線で起用されたが4月以降は今野泰幸とダブルボランチを形成。

7年ぶりのナビスコカップ優勝を達成。

シーズン終盤はカップ戦も勝ち進んだことで過密日程になるも、リーグ戦はフィールドプレーヤーでは唯一の全試合に出場し、FKとPKではそれぞれJ1最多記録に並んだ。

先発メンバーに多くの若手選手が名を連ねるようになった中、不動の平常心でチームを牽引し、J1昇格1年目で9年ぶり2回目のリーグ優勝を果たし、さらにはクラブ史上初の国内三冠を達成。

Jリーグアウォーズでは11度目のベストイレブンと自身初となるJリーグMVPを受賞した。

2015年4月18日、J1.1st第6節湘南戦でJ1でのPK通算27得点目を決め、福田正博を抜きPK得点単独トップに立った。

10月17日のJ1.2nd第14節浦和戦でJ歴代最年少でJ1通算500試合出場を達成。

この年もリーグ戦全試合にフル出場。

2015年シーズン最後のタイトルがかかった天皇杯決勝浦和戦では後半にコーナーキックからパトリックの決勝ゴールをアシストし、天皇杯連覇に貢献。

2016年10月29日、2ndステージ第16節のアルビレックス新潟戦で史上13人目、MF登録では藤田俊哉以来2人目となるJ1通算100得点を達成。

2018年2月23日、開幕戦の名古屋グランパス戦で得点を挙げ、21年連続ゴールを達成。

11月10日、第32節の湘南ベルマーレ戦ではフィールドプレーヤー史上初となるJ1リーグ通算600試合出場を達成した。

2019年シーズン開幕戦に先発出場し、Jリーグ(J1・J2を含む)史上初の20年連続開幕戦先発の単独記録となった。

4月20日、第8節の大分トリニータ戦で22年連続ゴールを達成。

8月2日、第21節のヴィッセル神戸戦で日本人選手としては初となる公式戦1000試合を達成した。

2020年7月4日、第2節のセレッソ大阪戦でJ1史上最多となる632試合に出場した。

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