新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■高橋大輔(フィギュアスケート)名言集
悔しいとは思うけれど、(実際に抜かれても)そんなに嫌じゃないかもしれない。フィギュアスケートの日本男子全体が盛り上がればいいから。女子ばかり注目されて、ちょっと悔しい思いをしてきたんで。
日本人男子初として様々なタイトルを獲るためには、常に新しいことに挑戦する姿勢が求められました。現役時代、バリエーションがあるステップやスピン、ジャンプに挑戦できたのも、「やってみようよ」と周りが背中を押してサポートしてくれたから。ファンの方々の声援も含め信頼できる人と出会い、支えてもらったことは、自分を後押しする大きな力になりました。
『何があっても、私は味方』いつも 長光先生から言われる。だから僕は安心してスケートができる。
『理想のスケート』って言葉を使うこともあるけれど、実際には『理想ってどんなんだろう』と、分かりません。ただ、理想というものは「こういうふうになりたい」と思うと、そこで止まっちゃうのかな。『もうこれ以上できない』と思ったところまで来たら、多分それが理想なんだと思います。
僕はスケートバカなんです。スケートは人生そのもの。やればやるほど難しく、奥深い。でも、もっと知りたい。
本当に素敵な母だと思います。本当に、本当にって凄い多いんですけど(笑)普通に怒ったりはするんですけど責めたりは一切しない。常に何があっても『頑張った』『良かった良かった』って言ってくれる母で。母がいたからこそこうやっていられることを自分自身も感じている、素晴らしい母だと思います。
選択肢が多い中で、僕はおのずと難しい仕事を選んでいました。難しい挑戦を選ぶのは現役時代からで、選ぶ基準は「これが完璧にできる人はかっこいいな」「こんな人間になれたらいいな」と思えるかどうか。「なりたい自分になる」という動機があるからこそ、モチベーションを高く持って挑戦できるのかなと思います。
唯一無二の存在になりたい。
僕は、最後は希望や奇跡を信じながら臨むしかないと思っています。つまり今の自分にすべてを賭ける。
僕は元々緊張しやすくて不安を感じやすいタイプ。何かセオリーを身につけようとしたこともありましたが、『形だけ』何かしてゴマかそうとしても結局は解消できないものなので、緊張も不安もあって当たり前だと思うことにしました。でもそれだけではダメ。そう思えるためにやるべき必要なことが沢山あります。
うまくいかず相変わらず落ち込むことが多かった。そんな時は愚痴を吐いて、そしていい意味で諦めながら、自分ができることを模索し続けていった。
ソチの代表の中で、唯一僕だけが、文句なしの結果で選ばれたわけではないと思っています。全日本で3位だった(小塚)崇彦だってソチに行きたかった。もしかしたら彼にとって最後のチャンスだったかもしれないのに、27歳の僕が代表に入った。オリンピックに出たいし、出られるのはうれしいけど、若手のチャンスをつぶしている、という面もある。だから僕は、いろんな人の思いを背負ってソチに行かないといけないんです。それ相応の覚悟が必要だと感じています。金メダルをイメージして、人生最高のパフォーマンスを披露したいです。
僕の夢は、みんなの夢。叶えてみせる。絶対に。
よく『自分精いっぱい頑張っているんだから、周りから頑張れと言われるとしんどい』と言うスポーツ選手もいるが、僕は逆。頑張れていないから、頑張れ!という言葉に抵抗はないし。
スケートに限らず大切なのは、自分で考えることだと思います。さらには、どんなことにでも楽しんで、チャレンジすること。それが物事を上達させるために大切なことだと思うんです。
悪いことはたいてい、次に進むために必要なものの場合が多い。
4年前にメダルを取った時にやめていれば、ソチで負けずに済んだかもしれないし、日本人の中で最下位なんて悔しくて情けない思いをすることもなかったかもしれません。それでも、やっていてよかったと思える。本当に、続けてよかった。
結果としてバンクーバーでやめてれば良かったかなと思う人もいると思うんですけど、自分としてはモスクワでの世界選手権が終わってからソチを目指すと決めた3年間は、すごく良いことも悪いこともいっぱい経験できたと思いますし、こうやって3回五輪に来れたので続けてきて良かったなと思います。
自分を盛り上げようと、自信がなくても目標を口に出した。目標は高く持たないとそこにいけない。
『龍翔鳳舞(りゅうしょうほうぶ)』龍の如く力強く飛び、鳳凰の如く華麗に舞う。これは、僕がある人からいただいて大切にしている言葉です!!フィギュアスケートにぴったりの言葉やと思いませんか?
若い選手は、冷静になったり、力の配分を考えたりする必要はないと思う。がむしゃらにやっている方が、絶対に自分のためになります。そうしたことを経験して、自分に合うやり方が見つかってくると思う。
挑戦と試行錯誤を繰り返しながら、後輩につながる道が1つでも多く作れるのであればうれしい。
やめるもんか。ここでやめたら後悔する。
『あきらめなければできる』とか言葉では絶対に言いたくない。言葉ではなく、そういうことが自然と伝わるような存在でありたい。
自分で変えられないものを受けいれて、変えられるものを変えていくしかない!
何でも見てみよう!何にでも足を踏み込もう!そこから始まる!!
やる。やらない。僕は迷わず、やる方を選ぶ。やらなくちゃ、未来は始まらないから。
■高橋大輔(フィギュアスケート)とは?
高橋大輔。
2010年フィギュアスケート世界王者。
愛称は「大ちゃん」。
主な実績として、2010年バンクーバーオリンピック銅メダリスト、2006年トリノオリンピック(8位入賞)、2014年ソチオリンピック(6位入賞)日本代表。ほか2010年世界選手権優勝、2012年グランプリファイナル優勝、2008年・2011年四大陸選手権各優勝、全日本選手権通算5回優勝(2005年-2007年、2009年、2011年)、世界フィギュアスケート国別対抗戦連続2回優勝(2012年、2013年)など。
1986年、岡山県倉敷市生まれ。
幼少時は性格的に弱く、心配した両親に少林寺拳法、野球、アイスホッケーなどさまざまなスポーツをやらされたが、痛いことや怖いことが嫌いでどれも長続きしなかった。
体操は気に入ったが、岡山市内の体操教室に通うことが難しく断念。
8歳のとき、家のすぐ近くにあるウェルサンピア倉敷のスケートリンクでフィギュアスケートを始めた。
決して裕福とは言い難い家柄ながらも家族一丸となって支え、また地元の商店街の人々が有志の募金箱を設置しカンパを受けるなど、非常に愛されて育ってきた背景がある。
また、自身のお年玉は全てスケート代に充てていた。
全国有望新人発掘合宿で素質を見出された高橋は、1999年中学校2年から、長久保裕・佐野稔両コーチがいる宮城県仙台市のスケートリンクに出向いて指導を受けていたが、佐野が仙台を離れることになったため、プログラム作成を依頼された長光歌子と仙台で初対面した。
同年に初の国際大会となるトリグラフトロフィーで優勝。
001年に全国中学校大会で2連覇を達成し、全日本ジュニア選手権を制す。
2002年には世界ジュニア選手権で日本男子として初めての優勝を飾った。
2004-2005シーズンには、大学入学に伴う環境の変化やプレッシャーや、シーズン前半のアジア選手権で右足首の神経の炎症を起こしたことによりモチベーションが低下し、スケートをやめたいとさえ思っていた。
しかし、全日本選手権で6位に沈んだことで気持ちがふっきれ、年明けのユニバーシアードで優勝、四大陸選手権では3位となった。
2005-2006シーズン、スケートアメリカでISUグランプリシリーズ初優勝を果たし、本田に続く日本人男子2人目のGPシリーズ優勝者となった。
続くNHK杯では3位に終わったが、SPではシングルの選手として世界で初めてステップでレベル4(最高難度)を獲得した。
初めて進出したGPファイナルでは銅メダルを獲得して日本人男子として初の表彰台に立ち、全日本選手権はSP2位から逆転して初優勝、僅か1枠のトリノオリンピック・男子シングル日本代表の座を掴み取った。
トリノオリンピックではSPで5位につけたが、フリーは冒頭の4回転ジャンプでの失敗やザヤックルール違反などで得点が伸びず9位、総合8位入賞に留まった。
2006-2007シーズン、NHK杯で優勝、フリーでは1年8ヶ月ぶりに4回転ジャンプも成功させた。
2季連続で進出したGPファイナルは、競技直前からの体調不良による腹痛や吐き気に耐えながら最後まで滑り切り、日本人男子として過去最高の2位となった。
全日本選手権では2位以下に大差をつけて2連覇を達成。
2007年冬季ユニバーシアードでも2連覇を果たした。
日本・東京で開催の世界選手権では、ショートプログラム3位、フリースケーティング1位で、日本男子史上最高位となる銀メダルを獲得した。
2007-2008シーズン、GPシリーズ初戦のスケートアメリカで優勝。
2戦目のNHK杯では日本人男子として五十嵐文男以来26年ぶりのNHK杯連覇を達成し、3季連続のGPファイナル進出を出場ポイント1位通過で決めた。
ファイナルではステファン・ランビエールに僅か0.26点及ばず2位となるも、12月の全日本選手権ではフリーで4回転ジャンプを2度成功させ、再び2位以下に大差をつけて3連覇を達成。
四大陸選手権でもフリーで2度の4回転ジャンプを成功させ、フリーと総合得点でISU歴代最高記録を更新して初優勝。
2008-2009シーズン、2008年10月末の練習中に3回転アクセルで転倒し、右足膝の前十字靭帯と半月板を損傷、11月に手術。
2009-2010シーズン、10月のフィンランディア杯優勝で自らの国際競技会復帰を飾った。
スケートカナダでは表彰台に上り、2季ぶりにGPファイナルにも出場。
全日本選手権で4度目の優勝を成し遂げ、バンクーバーオリンピックの男子シングル日本代表に内定、ニ大会連続2回目の冬季五輪代表入りを果たした。
2010年のバンクーバーオリンピックではSPで90点台をマーク、SP1位のエフゲニー・プルシェンコと0.6点の僅差で3位につけた。
フリーでは冒頭の4回転トウループで転倒し、他細かなジャンプミスも有ったが、得意のステップと演技構成点は出場選手中最も高い評価を受ける。
結果フリーのみでは5位だったものの、総合得点では4位のステファン・ランビエールを0.51点の僅差で上回り3位入賞を果たし、日本及びアジア人の男子シングルの選手としては史上初の冬季オリンピックのメダルとなる銅メダルを獲得した。
バンクーバー五輪から約1か月後の世界選手権では、SP、フリーともに1位の完全優勝を果たし、男子シングルでは日本・アジアで史上初の世界チャンピオンとなった。
2010-2011シーズン、GPシリーズ初戦NHK杯ではFSで3シーズンぶりに4回転トウループを成功させ優勝。
続くスケートアメリカでも優勝、日本人男子として最多となるGPシリーズ6勝目を挙げた。
四大陸選手権では3年ぶり2度目の優勝を達成。
2011-2012シーズン、NHK杯では大会最多となる4度目の優勝を果たした。
全日本選手権ではSPで7シーズンぶりに4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させ、2年ぶり5度目の優勝を果たした。
GPファイナル、四大陸選手権、世界選手権はいずれも世界王者パトリック・チャンに次ぐ2位だったが、シーズン最後の国別対抗戦ではチャンを抑えて1位、SPでは歴代最高得点をマークした。
2012-2013シーズン、自身7度目の挑戦となったGPファイナルにおいて、日本男子初のチャンピオンとなった。
2013-2014シーズン、スケートアメリカでは4位。
NHK杯ではSPで自己ベストを更新。FSも1位で優勝した。
最後の3枠目で2014年ソチオリンピック代表に選出された。
そのソチオリンピック本番は団体戦には出場せず、個人戦のみ出場。
SPでは4位発進だったが、フリーではジャンプミスが響いて総合6位入賞に留まり、五輪二大会連続メダル獲得はならなかった。
しかしフィギュアスケート日本代表選手で、冬季オリンピック三大会連続入賞(8位・3位・6位)は高橋が史上初。
2014年10月14日、岡山市内で現役引退を表明。
2018年7月1日、所属事務所を通じて現役復帰を発表した。
2018-2019において、「全日本最終グループに入ること」を目標にし、全日本予選となる近畿選手権で3位、西日本選手権で優勝と順調に進み、全日本選手権では目標の最終グループに入り、2位を獲得。
見事な復活を遂げ、スケート連盟から世界選手権の代表入りを打診されたが「若い選手が経験する必要性の方が大きい」と出場を辞退。
2019-2020年シーズンは、ショートプログラムを「The Phoenix」(振り付けは、ビヨンセなどの振り付けも行ってきたシェリル・ムラカミ、ユウコ・カイ、ミーシャ・ジー)、フリープログラムを昨年度と同じ「Pale Green Ghosts (with the BBC Philharmonic Orchestra)」を引き続き使用すると発表。
2019年9月、2019年12月の全日本選手権を男子シングルとしての競技会出場を最後にすること、及びアイスダンスに転向し村元哉中とペアを組むと公式サイトで発表。