新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■村田兆治(野球)名言集
茶碗やコップから一升瓶まで、何でも人さし指と親指だけではさむ練習をした。
小学4年のとき、なぜか自分の意志でノートに「努力」「忍耐」「根性」「知識」「知恵」「体力」という言葉を延々と書き続けたことがあったんだ。これが、いつの間にか頭にインプットされたのかな。プロ入り後も、この6つを実践するのが当たり前だと思って生きてきた。
冒険とギャンブルとは違う。冒険とは七割の科学的確実性のある場合をさし、五分五分以下の場合をギャンブルという。
手術を受ける前、ジョーブ博士に一つ確認したことがあるんだよ。「先生は手術に失敗したことはないんですか」って。そしたら、博士は「ある」と答えた。その言葉を聞いて、「この人は信頼できる」と確信したんだよな。幸い、手術は成功。ただ、今度は厳しいリハビリが待っていた。暗闇を一歩一歩這って進んでいるような感じだったけど、再びマウンドに上がるまでは弱音を吐くつもりはなかった。どんな壁を前にしても、絶対に逃げない。それが俺の生き方だから。
おまえとじゃなきゃ、終われないんだよ。
反抗したこともある。ある試合で金田さんが投手交代を告げに来て、俺の手からボールを奪おうとしたとき、思わず手を引っ込めたんだ。金田さんは「監督の命令を聞けないのか!」と怒ったけど、それでも俺はマウンドを降りるのを拒否し、最後は「打たれたら給料はいりません」と大見得を切った(笑)。結局、最後は金田さんが折れて「好きにせい」とベンチに戻って行ったんだ。結果?もちろん抑えたよ。次の打者をダブルプレーに打ち取って、試合は4対2で完投勝利。
本物に触れなさい。本物に学びなさい。
俺は、40歳で迎えた1990年のシーズンを最後に、現役を引退した。この年は10勝8敗だったし、まだ、できるんじゃないかと言ってくれる人もいたけど、もう完投する力がなくなりつつあったんだ。事実、この年の完投は4試合だけ。俺はエースなら「先発完投」が当たり前だと思っている。同じ1勝でも、6回しか投げていないのと、9回を投げ切ったのでは価値が違う。だから、もう引き際だと判断したんだ。
体が硬くなると心も硬くなる。
俺がスピードにこだわり続けたのには理由がある。現役を引退してから、俺は日本の離島を回って、ボランティアで野球教室をやってきた。この教室で子どもたちにホンモノのプロ野球選手のすごさを見せたかったんだよ。言葉や理屈で説明するよりも、肌で「速さ」を感じてほしい。それが野球の素晴らしさを伝えることにもつながる。打席に立った子どもに、俺が手抜きなしで渾身の快速球を投げ込むことが、教える側のマナーだと思ったんだ。だから、体調管理にも気を遣ってきた。さすがに今は140キロも出ないけどね(笑)。
このゲーム、私にください。
俺が子どもたちに教えてきたのは野球だけじゃない。そりゃあ、離島は野球の環境としては恵まれていないよ。でも、卑屈になる必要はないし、本気でやっていれば、必ずいいことがあるということを伝えたかった。加えて、俺が教えたのは礼儀とあいさつと感謝の心。この3つが備わっていれば、社会人となり、どんな分野に行ってもやっていけるはずだから。
人は皆、人生というマウンドに立っています。途中で降板せず、最後まで完投してください。
自分が何をやりたいのか。どこを目指すのか。そして、そのために何をすべきか。結局は生きる信念を持っている人間が、どんな世界でも生き残っていくのではないでしょうか。ただし、いくら目標を持っていても、いくら努力してもダメな時はある。それが人生というものです。
人生先発完投。
■村田兆治(野球)とは?
村田兆治。
1949年生まれ。
広島県豊田郡本郷町(現・三原市)出身。
村田がプロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場へナイターを観戦しに行ったことがきっかけ。
初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったという。
福山電波工業高校(現:近畿大学附属広島高等学校福山校)に進学。
県内でも屈指のピッチャーとして有名で、2年生の秋からエースとなった。
しかし当時の広島県には、広島商、尾道商、広陵など強豪がひしめいており、甲子園出場の悲願は叶わなかった。
しかし、広島カープを希望していたが、ドラフトは予備抽選で指名順位を決め、1番くじを引いた球団から順に1人ずつ指名していく方式で、広島は12番目。
その前の6番くじを引いた東京オリオンズが1位指名、1967年のドラフト1位で東京オリオンズに入団。
当時はドラフト1位の契約金を持て余し、パチンコや麻雀など遊びに明け暮れていた。
その時既にベテランだった小山が、若手の自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰ってしまった。その後、練習中に小山に謝りに行ったところ、「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭された。球界を代表する大投手からの叱咤激励に感激した村田は、以降別人のように練習に打ち込むようになったという。
球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し、6勝(そのうち5勝は完封)を挙げる。
1970年にはリーグ優勝を経験、1971年、金田正一監督のアドバイスを元に投球フォームを大幅に改造し、後に村田の代名詞となる「マサカリ投法」の原型を編み出した。
同年は12勝を挙げて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテのリーグ優勝の際にも大車輪の活躍を見せた。
中日との日本シリーズでは最終第6戦では先発し、松本幸行、星野仙一との投手戦を制し完投勝利、胴上げ投手となった。
1976年にはフォークボールを習得する。
同年シーズンは257回を投げて21勝を挙げると同時に、防御率1.82で最優秀防御率のタイトルを獲得。202奪三振もリーグ最多であった。
捕手に頼らず「ノーサイン」で自分で投球を組み立てていたため、同年から1979年まで4年連続で2桁暴投を記録した。
1979年は32試合に先発して自己最多の21完投・230奪三振を残す。
1981年には開幕11連勝を飾り、19勝で最多勝のタイトルも獲得。
しかし、1982年に肘を故障。
様々な治療法に取り組む傍ら、宮本武蔵の「五輪書」を愛読し和歌山県白浜町のお水場・十九渕で座禅を組み、深夜白衣を纏い滝に打たれるといった荒行も行っていた。
翌1983年も一向に肘の症状が改善されないため、渡米しスポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブの執刀の下、左腕の腱を右肘に移植する手術(トミー・ジョン手術)を受けた。
以降2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰する。
1985年、開幕から11連勝を挙げるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。
前年に続くロッテのリーグ2位に貢献した。
同年から、中6日で日曜日のみに登板する先発ローテーションを取るようになったため、「サンデー兆治」とも呼ばれるようになった。
1989年5月13日、対日本ハム戦で通算200勝を達成。同年、39歳にして3回目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。
コーチ兼任で兼任臨んだ翌1990年10月13日、開幕戦の対オリックス・ブレーブス戦で1失点完投勝利とレギュラーシーズン最終戦の対西武ライオンズ戦で同年2度目の完封含む10勝をマークし、10度目の二桁勝利を挙げる。
最終戦で引退セレモニー実施で現役引退した。
村田の武骨な野球人生は「昭和生まれの明治男」と呼ばれた。
引退後は1995年から福岡ダイエーホークスの一軍投手コーチに就任。
コーチ在籍中の1997年に心筋梗塞を患ったため、以後コーチ業には就いていない。
全国各地を回って少年野球の指導にあたる一方、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加している。
2005年、野球殿堂入り。
2016年3月30日のロッテ対楽天戦で始球式に登板し、1球投げただけだが球速は66歳にして131km/hと表示された。この時の模様はアメリカ合衆国のFOXスポーツ電子版でも報じられ、同誌は1968年から1990年までの村田の経歴を挙げた上で、「冷戦時代に現役だった66歳の元選手が、未だこれ程の剛速球を投じる事は驚嘆に値する。」と記した。
2018年8月21日、ロッテオリオンズ誕生50周年特別試合として行われたロッテ対西武戦で始球式に登板し、1球投げただけだが球速は68歳にして112km/hと表示された。