新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
藤原喜明(プロレス)名言集
小学校5、6年の頃、学校で映画鑑賞会があったんだよ。フィルムとフィルムを取り替える時間なのかな、10分くらいニュース映画っていうのが流れて。そこで力道山先生が映ったんだ。衝撃だったよ。「なんなんだ、これは!? こんなものが世の中にはあるのか!」って思って。これしかない、みたいなね。それが始まりだと思うよ。
新日本に入る前は、コックをやってたんだよ。21から23(歳)までかな。最初入ったお店ではまかないばっかりだったんだけど、これが一番面白かったね。いろんなもん作れるから。次が洋食店で、その後が横浜の中央卸売市場でマグロの解体とかやってたね、冷凍のでっかいやつを。そこに行きながらジムに通ってたんだよ。
レスラーってさ、やっぱり強いのは当たり前。プラスアルファで食ってる訳だから。客だってバカじゃないよ。柔道やってるヤツや、レスリングやってるヤツらは本物がわかる。
当時は、極めるっていうよりも押さえ込みだよな。それを極めるという風にしていったのはゴッチさんだよ。ゴッチさんが新日本にきてて、丁度、俺もヒザを怪我していて練習を見てたの。そしたら“お前、ちょっと来い”っていわれて教わるようになったんだよ。
プロレス始めて4年くらいの時だったから、27、28歳の時だな。(道場破りが来ると)周りのヤツらが道場からいなくなっちゃうのよ。さっきまで居たのに、腹が痛いとかってさ。だから道場破りと対戦すんのも俺しか残らないんだよ(笑)
(藤原教室で)一番最初に練習してたのは、俺と佐山だよな。で、前田が入ってきて、高田も入ってきた。あと、(佐々木)健介もいたよな。
ゴッチさんは、技は知ってるけど教えてはくれないんだよ。だから、ゴッチさんが技を見せてくれて、“ゴッチさんは凄いな”っていうのは分かるんだけど、“今、どうやったの?”っていう部分は全く覚えてない。だから、分かったのは“ゴッチさんは凄い”ってことだけなんだな(笑)。だから、これじゃダメだと思って、一日1つ、2つでも頭に入れてさ。後の技は知らんぷりして、毎晩遅くまで全部ノートに書いてさ。でもってスパーリングやりながら、“どうして極まるんだろ?”って考えて、考えて。全部復習してコツコツやって完成したのは10年後くらいか。誰も教えてくれないからな。教えるってことも分からないし。
プロレスラーは、強くて当たり前。プラスアルファだよ。いくら「俺は強いんだ」って言ったって、お客さんがつまんないなと思ったら、二度と来てくれないからね。でもね、本物はやっぱり綺麗なんだよ。藤原敏男さんのハイキックだって綺麗だしな。本物は美しい。美しいから、お客さんが来る。
おう、日本人ってのは、七五調が好きなんだよ。ぐだぐだ言っても駄目なんだ。
私がプロレス団体を旗揚げした時のことだ。スタッフ数人が集まって会社の名前を考えた。横文字やありふれた名前しか出て来なかった・・・・その昔、新日本プロレスの試合前にリング上でスパーリングするグループを『藤原組』と呼んでいたのを思い出し私が『藤原組』とつぶやいた。その時、故空中正三の『それ、ええなあ』の一言で決定した。『藤原組』の誕生だった。(株)藤原組の社長だから組長と呼ばれるようになった訳だ。これがもし、『藤原会』だったら会長と呼ばれていたのかもしれない。
不器用だけど、コレ(ハート)があったからな。パキスタンの時も堂々と行く訳だよ。成り行きみたいな、死んだら死んだでしょうがねーよって(笑)。試合じゃ、グルッと銃持ってるヤツらがリングを囲んでて、俺、そのビデオ持ってんだよ。貰って10年くらい経つけど、おっかなくて観れないんだよな。あの時の恐怖があって。観衆が総立ちになって、軍隊みたいなヤツが銃構えて。ドンってなったら殺されるって思ったよ。
こっちはアリのファイトマネーに18億円も用意してさ。しかも、新日本プロレスの財産じゃない、借金ですよ!(笑)。猪木さんが負けたら会社は潰れるし、猪木さん個人もすべてを失うでしょう。アリだってボクシング界を背負っているから負けるわけにはいかないだろうけどね。
ステージ3だったからね。「あ、俺、死ぬんだな」って思った。どうせ死ぬんだったら、カッコよく死んでやろうと思ってな。4日目に抜糸してもらって、それから管いっぱい入れたまま点滴担いで、階段を上ったり下りたりしてさ。そしたら看護婦さんが驚くわけよ。ざまあみろ、俺はプロレスラーだ! まあ、残念ながら死ななかったけどな(笑)。
抗ガン剤治療、大変だったんだよ。2年間、毎日飲んだからね。最初の8か月間は強烈なやつ。フラフラするし、目はかすむし、練習しても筋肉がつかないんだよ。新しい細胞ができないようにする薬だから。ガン細胞もできないかもしれないけど、筋肉もつかないんだ。いくらトレーニングしても力がつかない。けど、一回死んだ人間は強いよ。なにもおっかなくないしね。もう心の準備はできてるから。
猪木さんに命預けます。
俺たちに明日の展望なんてないんだよ。ただひたすら練習するだけだ。
楽しいからやるの。それだけの話だよ。人生は一度きりじゃん。好きなこと、全部やったほうがいいよ。
人生は楽しく。ちょっとだけ厳しくな。
藤原喜明(プロレス)とは?
藤原喜明。
1949年生まれ、岩手県和賀郡江釣子村(現:北上市)出身。
「関節技の鬼」という異名をとり、愛称は「藤原組長」。
岩手県立黒沢尻工業高等学校時代、体育と応用力学、機械工作の評定は5であり、非常に器用であった。
体育は高1の時は3であったが、16歳から始めた自己流のトレーニングの成果が出たため高2で4、高3で5と少しずつ高くなった。
高校卒業後、サラリーマンや板前を行っていた。
サラリーマン時代は『プレイボーイ』や『平凡パンチ』などを読んで、面白いと思ったページを破いて、それを見て絵を描いていた。
1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門。
そして入門の10日後である同月12日に和歌山県白浜町坂田会館にて藤波辰巳相手にデビュー戦を行う。
新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。
1975年、第2回カール・ゴッチ杯で木村たかしを破り優勝。
道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。
アントニオ猪木のスパーリング・パートナーにも抜擢され、海外遠征にも同行した。
海外では1976年秋にドイツにてホースト・ホフマンやクリス・テイラーと対戦。
1978年11月にローラン・ボックが猪木を招聘して開催したツアーにも同行しており、ミレ・ツルノ、ウィレム・ルスカ、ピート・ロバーツ、ジョニー・ロンドスらと対戦した。
1978年にはMSGシリーズの第1回大会に出場、予選トーナメント1回戦でマーティン・ジョーンズを下すも、2回戦でチーフ・ジェイ・ストロンボーに敗退、敗者復活戦でもバロン・シクルナに敗れて決勝リーグ進出は果たせなかった。
猪木の用心棒的な存在としてセメントの強さには定評があったものの、華やかさに欠ける藤原は、前座レスラーのポジションから脱することはできなかった。
しかし、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会において、長州力をタイトルマッチ直前の花道で襲撃、テロリストとして一躍脚光を浴びる。
長州襲撃は猪木の指示で行われたとされる。
以降、長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる。
同年6月に第1次UWFに参加。
持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。
新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、1993年にパンクラス、1995年に格闘探偵団バトラーツが分裂するという、2度に及ぶレスラーの大量離脱を経て、団体としての機能を失った。
1993年、1994年と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典「G1 CLIMAX」に出場。
1995年には「イノキファイナルカウントダウン」第4弾で師・猪木とシングル対決した。
1996年、ドン荒川とともに全日本プロレスに初参戦、6人タッグながらジャイアント馬場との対戦が実現。
1997年にはWARに出場し、天龍源一郎やアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチが行われた。
その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。
その技術を見込まれ、男女問わず指導を請う後輩レスラーも多い。
ZERO-ONEではフリーとしての参戦ながら、橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献した。
2007年、胃の噴門部(入り口)付近に4センチ大の胃癌が見つかり、胃の2分の1を切除した。
TS-1は胃がんの場合、奏効率は46パーセントと高く、副作用も抗がん剤の中では比較的強くないとされるが、87パーセントの患者に何らかの副作用が出るとのことだが、TS-1を予定通り、6クール続けたあと、薬が同じ5-FU系の経口抗がん剤UFT(一般名テガフール・ウラシル)の少量投与に変わり、副作用もほとんど無くなり、筋力トレーニングができるようになった。
手術の後遺症としては、ダンピング症候群が出たがプロレスの試合に出られるまで回復した。
現在も不定期ながらリアルジャパンプロレス、ドラディションなどのリングに上がっている。
IGFにも参加し猪木に協力している。
近年では新日本プロレスのレッスルキングダムにおけるニュージャパンランボーに2年連続で出場している。