ダイエー創業者、中内功:「働く」の反対語とは?

ダイエー創業者、中内功:「働く」の反対語とは?

 

「働く」の反対語とは?

 

中内功/ダイエー創業者

 

 

我々の世代は「働く」の反対語は「休む」である。

ワークの反対はレスト、これでは創造的ではない。

ワークの反対はプレイ。

そして、この二つが両立してこそ、新しい文化が花開く。

ワークを一生懸命にやれば、プレイも命がけでする。

それが若者ではないか。

 

 

 

 

中内功(ダイエー創業者)とは?

 

 

中内功。

大阪府西成郡伝法町に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。

 

父は大阪薬学専門学校を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。

母は神社の宮司の娘であった。

 

祖父・栄は高知県矢井賀村の士族の家に生まれ大阪医学校に学び卒業後、神戸で眼科医となった。

ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。

 

功は神戸三中を経て、1941年、兵庫県立神戸高等商業学校を卒業。

ゲーテ『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す。

 

勉強はできる方ではなく、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く大学受験に失敗。

1942年(昭和17年)、日本綿花(のちのニチメン→双日)に就職するも、ほどなく翌1943年(昭和18年)、1月応召。

 

広島にて訓練の後、幹部生として扱われる仲間を尻目に、満州国とソビエト社会主義共和国連邦の国境にある綏南に駐屯、さらに1944年(昭和19年)7月、フィリピンの混成五八旅団に所属。ルソン島リンガエン湾の守備に就く。

 

ゲリラ戦では、米軍基地を襲撃した時、石油発動機でアイスクリームを作っていたことに衝撃を受けたと述べている。

敵から手榴弾の攻撃を受け死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃ってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。

 

この様に、彼にとって第二次世界大戦での戦争体験は、1945年(昭和20年)8月投降後、マニラの捕虜収容所を経て、11月に奇跡的に神戸の生家に生還するまで、後の人生観、ダイエーの企業理念にも影響を与えた。

「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との言葉は、この時に痛感した日本軍と米軍との物量の差と飢餓体験から出ている。

 

また、中内は毛沢東の矛盾論の影響も受けていた。

1945年(昭和20年)11月、フィリピンから復員。

 

復員を機に、神戸市兵庫区にあった実家(サカエ薬局)に、1948年(昭和23年)、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。

旧制神戸経済大学に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、学費未納のため除籍。

 

6年後の1951年(昭和26年)8月には、次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」で勤務。

サカエ薬品を離れ、1957年4月10日に神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入。

 

ただしすぐに撤退する。

同年7月、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長吉田日出男の要請を受けて小倉に向かい開店の援助をしたことから、吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰う。

 

9月に、この会社にて大阪市旭区の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」を開店した。

当初は今日のドラッグストアに相当する薬局で、後に食料品へと進出していった。

 

千林での開店の翌年1958年には、神戸三宮にチェーン化第1号店となる三宮店を開店。

既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこした。

 

特に価格破壊は、定価を維持しようとするメーカー勢力の圧力にも屈せず、世の人の喝采を浴びた。

1962年、大手商社日商(のちの日商岩井)の協力のもと、渡米。

 

現地の流通業を研究する。

そのときの中内の仕事ぶりはそれこそ寝る間を惜しんでの流通業界研究と商取引にあたっていた。

 

1960年発売の「ダイエーみかん」や1961年発売の「ダイエーインスタントコーヒー」などでオリジナルブランドを開発、これらは1970年代の「ノーブランドシリーズ」や「キャプテンクックシリーズ」を経て「セービングシリーズ」に発展し、ダイエーの旗艦ブランドとなる。

 

1964年、松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって「ダイエー・松下戦争」が勃発した。

当時、ダイエーが松下電器の製品を希望小売価格からの値下げ許容範囲だった15%を上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけとなり、松下電器が仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。

 

これを受けてダイエーは松下電器を相手取り、独占禁止法違反の疑いで裁判所に告訴した。

ダイエーは13型カラーテレビを「BUBU」というブランド名で当時としては破格の安さである59800円で販売したことから、松下との対立が激化した。

 

この対立は、松下幸之助没後の1994年に松下電器が折れる形で和解となった。

この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。

 

1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高トップにまでのしあげた。

1980年2月16日に日本で初めて小売業界の売上げ高一兆円を達成した。

 

また、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ドムドムハンバーガー、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開していった。

 

1988年にはパシフィック・リーグの南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入、福岡ダイエーホークスを誕生させ、さらに東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドームの建設に着手するなど、グループを急拡大させた。

 

1988年4月には神戸・学園都市に長年の悲願であった流通科学大学を開学。大学職員は全員当時のダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。

それまで、製造業や銀行などの、他業種より格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。

 

1990年代後半になって、バブル崩壊により地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾き始めた。

また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。

 

業績が低迷する中で1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生。

東京・田園調布の自宅で知った中内は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。

 

国より速くフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した。

 

しかし一方で、この地震により、被災地神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊、コンビニのローソンを始めとするダイエー系列店約100店もの店舗が被災するなど、関西発祥のダイエーの金銭的被害は甚大で、バブル崩壊のさなかで業績が低迷しつつあったダイエーの凋落に拍車をかけることとなった。

 

ダイエーの正社員も、この震災により判明しただけで30名以上亡くなっている。

「スーパーはライフラインである」中内のこの哲学により、阪神・淡路大震災では、地震発生3日後には自ら被災地神戸に乗り込み、自前のネットワークを駆使して必要な物資の輸送をおこない、営業時間の延長、被災した店舗前での物販販売などを特例的に行政当局に認めさせ、被災地への迅速な物資の供給・販売を実現した。

 

「店の明かりをつければ、それだけで被災者たちは力が出る。」「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り店を開け続けろ。流通業はライフラインや。」の号令の元、電力供給が出来ているダイエー、ローソンなどの照明を24時間点灯し被災地を勇気づけた。

 

2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。

その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人中内学園学園長に専念。

 

2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後神戸市内の病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、療養中の9月19日に転院先の神戸市立中央市民病院において死去。享年83。

 

逝去して7日後の9月27日に、中内がオーナーを務めたダイエーホークスの後身、福岡ソフトバンクホークスと、対戦相手であった東北楽天ゴールデンイーグルスの選手・関係者が福岡ドームでのプレー前にファン・観戦者と共に感謝の意を込め1分間の黙祷を行った。

 

なお、中内の死に関して福岡ドームの電光掲示板にはこう表示された。

「ありがとう!! 中内功さん 福岡はあなたを忘れません 安らかにおやすみください」

 

更に、日本の流通業界の先頭を走った中内の社葬が行われなかった事により、このまま終わるのは忍びないと、イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊、イオン創業者の岡田卓也、日本におけるスーパーマーケットの育ての親でもあった渥美俊一、自身も立ち上げに携わった日本チェーンストア協会等、好敵手でもあり戦友が発起人となって、同年12月5日にホテルニューオータニにて「お別れ会」が開かれた。

 

約2300人が献花に訪れ、生前親交のあった安倍晋三、二階俊博、小池百合子、小沢一郎、冬柴鐵三、神崎武法などの政界人も参列した。

 

 

 

 

厳選!中内功(ダイエー創業者)の珠玉名言

 

 

 

ええ恰好をするな。現実に足をつけ。自分の体で考えたこと以外は言うな。実践とは、自分で手を汚して最前線に出てはじめて分かる。

 

 

 

相手を憎んで、蹴落とすようなことは、私の性格に合わない。敵も自分から作らない代わりに、特定の人にべたべたとくっつくこともしない。あくまでも公明正大。堂々と渡り合う信念はある。

 

 

 

私は睡眠時間を切り詰めてでも情報を集めることに精を出す。海外に出ても可能な限り自分の目で見、足で確かめることにしている。そうした情報の集積体が経営戦略を決定していくうえでの勘になる。

 

 

 

マーケットの科学的な把握、仮説を設定して、実証してゆく日々の努力こそ、新しい市場、マーケットを作ることになる。

 

 

 

日常の生活の中にギラリと光る断面で、繰り返しのきかない場面にこそ人生がある。人間が生命をかける事業がそうである。自分を進んで危機に追い込んでいき、持てる全力を投入する。これが本当の人生である。

 

 

 

我々は生活消費大衆に対してどのような提案をするかだけ、生活者から受信をしてそれを商品化するだけ。

 

 

 

経営も一寸先はわからない。不安があるから人間が進歩しているわけや。それがなくなりゃ死んでしまった方がいい。

 

 

 

自ら信ずること少なき者が、他の人々に福音を説くことは不可能である。飛びくる矢にたじろがず、木石のごとき非情な精神を持たねばならぬ。

 

 

 

国はつぶれないからね。企業はつぶれるから、リスクマネイジメントを考える。国は赤字国債をどんどん出して借金すればすむ。企業はそうはいかん。だから、情報に対しては企業は非常に敏感になりますよ。

 

 

 

営業をできなくてもいいから、明りをつけろ。暗いと物騒だし、神戸自体が沈んでしまう。営業できなくとも、明るいだけで安心感がわくものだ。少なくともダイエーグループだけは明かりをつめろ。

 

 

 

プロとは一つの仕事について一芸に秀でた人、一流になろうと努力している人のことである。今後、会社も自分を売り込むだけのプロの技術を持っている人が必要になってくる。

 

 

 

駅前にダイエーしかなかった時代は、商品を何でも揃えて「総合」で勝負できたのですが、今は専門店やコンビニが周りにたくさんできた。そうなると便利さだけではダメで、「専門性」も必要になる。総合スーパーはそうした時代の変化への対応が遅れたというのが、苦戦の原因です。

 

 

 

広報でなく、広聴だ。私は発信するのは大嫌いです。我々がお客さんより上にあって発信するとか、東京から地方に発信するとかはちょっとおかしいのではないか。

 

 

 

一流主義より一番主義である。企業を伸ばすには絶対一番でなければならない。

 

 

 

現実という壁の前に立った時、いたずらに壁の厚さのみを測ることがないだろうか。実行する前に言い訳を考えていないだろうか。とにかく壁に体当たりしてみることだ。鋼鉄と思っていた壁が、実は段ボール紙製であるかもしれない。たとえ鋼鉄であっても、ダイナマイトで爆破すればよい。それが創造的姿勢というものだ。

 

 

 

落伍者とは、戦う心を失った人を言う。生きていること自体、なんらかの意味で戦う場である。

 

 

 

いままでは売り手側、作り手側の理論が工業化社会を支えてきたわけですから、ある意味ではやむをえません。しかし、生活者が自分の価値観で商品を選択するようになったからには、発想を転換しなければ生き残っていけません。時代はレディ・メイドを基本とするポスト・インダストリアルの時代に移っています。その認識の立って、買う側の理論、使う側の理論を優先する時代を作っていくことは、企業に課せられた使命ではないでしょうか。

 

 

 

大衆は常に正しい。日本で大衆というと安物と取られがちですが、ベストセラーであり、一番いいということです。

 

 

 

時代の流れから言って、かつてのような需要過剰、売り手市場の時代は二度と来ないと思います。景気は今、デフレ局面にあると言われていますが、これからは供給過剰、買い手市場が常態になる。そのような中で企業が存続していくには、買い手市場を前提とした新しいシステムを構築して、徹底的に消費者の理論に立って経営を推し進めていく以外にはありません。

 

 

 

バカと天才とは、この世に存在することはまれである。すべてが我々凡人の世界である。そのなかで半歩前に踏み出すことのできる勇気を持つことが大切である。

 

 

 

自分自身の人生を、エキサイティングなものにしていかなければいけない。人間の能力にそんなに差はない。やる気さえあれば、だれでもたいていのことはできる。むしろ我々は、常に完全なことができるんだというひとつの信念を持つことが必要だ。

 

 

 

この資源のない国で、世界一豊かな暮らしを提供するためには、もっと使命感に燃えた人が必要だ。

 

 

 

我々はダイエーでしかできないことを、この国が本当に豊かさを実現するために、あえてリスクを冒しても実行していかなくてはならない。

 

 

 

もはや手本はない。いまこそ主体的に変革を実行していくときである。企業家精神を大いに発揮し、痛みを伴いながらも、創造的で活力のある新時代を切り開いていく。それが日本経済を再生し、透明度の高い経済社会を作ることになる。

 

 

 

ただ一度の人生。その限りある生命の空間を飾って一点に全力を傾注することに、美しさに似たものを覚える。流通業に身を置く経営者として、何はさておいても流通の近代化と取り組んでいくのが、私にとっての永遠のテーマである。命ある限り、全力投球を続けたい。

 

 

 

人間とは、本来弱いものだ。だが、信念とか使命感で行動するときは、なぜか果てしなく強くなる。

 

 

 

変化こそ、機会の母である。

 

 

 

秩序の破壊なくして前進はないよ。

 

 

 

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