あせらず、おこらず、あきらめず
きょうの我にあすは勝つ。
身を屈して、分を守り、天の時を待つ
ひばりに引退はありません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ。
私が生きられる場はここなの!なぜなら、私はそのために生まれて来たのだし、そのために生きてきたんですもの。そしてきっと、私の幸せもここにしかないのでしょう。
本当に、人生って、川の流れのようなものよね。まっすぐだったり、曲がりくねっていたり、幅が広かったり、狭かったり、流れが速かったり、遅かったり・・・・
美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 – 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。
神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。
横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。
12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。
昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。
本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。
愛称は御嬢(おじょう)。
神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女・和枝(かずえ)として生まれた。
増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、喜美枝は東京山谷の出身。
妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也・香山武彦。
家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、和枝は歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知ることとなった。
1943年6月、第二次世界大戦に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、和枝は父のために『九段の母』を歌った。
壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。
1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。
近所の公民館・銭湯に舞台を作り、和枝8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。
1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。
審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。
横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。
翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。
古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。
1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。
以来、この一行と地方巡業するようになる。
高知県に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号で加藤母子が乗っていたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。
そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。
和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。
家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。
1948年横浜国際劇場に進出。
翌 49年8月映画『踊る竜宮城』に出演し、その主題歌『河童ブギウギ』でレコード・デビューを果す。
9月に初主演した映画『悲しき口笛』は、第2次世界大戦後の混乱を生抜く少女を描いて同名の主題歌とともに大ヒットした。
以後日本コロムビア・レコードと専属契約を結び、次々とヒット曲を出す一方、雪村いづみ、江利チエミとトリオを組んで活躍。
その後、熱狂的なファンに塩酸をかけられるなど、不運の時期を経て、「歌謡界の女王」と称される存在となった。
代表曲『リンゴ追分』『柔 (やわら,1965年日本レコード大賞受賞) 』『悲しい酒』などをはじめ、全作品は 1000曲以上に及ぶ。
没後、女性初の国民栄誉賞が贈られた。