中島みゆきの「大切な」言葉たち~中島みゆきの名言・人生・生き方など~

中島みゆきの「大切な」言葉たち

トロさという点だけで言いますと幼稚園から帰ってくる私の姿を母が窓から見つけるでしょ。で、見てると家にたどり着くまで2時間半かかる子でした。母がこれまた“さっさと家に入りなさい”と叱る人じゃなくて、しゃがみ込んで私がアリンコ見てれば“じゃあ見てなさい”という母親だったんです。

先を急ぐ人たちは、たいてい何かを落としてしまうものだから。

一応は国語の先生になろうと思って、教職課程も取って、ちゃんと教育実習にも行きましたよ。でも、先生って仕事は朝早いんだわ(笑)。耐えられないっす。今、親も安心してますもん。お前は早起きしなくていい仕事だから、長続きしてるんだって(笑)

たとえば3000人の客を相手にしても、1×3000じゃないんですよ、1×1が3000あるだけです。ってこと言うために、一万人もやりましょう、三百人もやりましょうと。大基本を言うために、基本じゃないことをわかりやすく両方やるのが私のやり方なの。

私自身は、すごくホレっぽいタイプで、それが何かと話がまとまらない一因なのかもしれないけど、仮に結婚しても、その時点から先、夫以外の誰にもホレない、なんて約束は絶対できないんだもの。

私にとって小さな夢は、母親にいい物を食べさせ、いい物を着せたいことです。母親は大陸から引き揚げて来て、持って来たものも家のゴタゴタで全部なくし、自分で仕事していた時に結婚した。娘時代、振り袖一枚持っていなかった。嫁にきて、父は安月給、市場に行った時、栗饅頭があるのを見て、こんなの一つ買えたら、どんなにいいだろうと思って帰って来た記憶があるそうなの。遅ればせながら何かやってあげたい。

きつい言葉をきつい声で言ったらさ、ききとりたいことも初めからシャットアウトしちゃうときってあるじゃない。人に説教するとき、いきなり目尻つり上げて「座りなさい!」って言ったらさ、ピシャッっと心を閉ざすときってあるじゃない。

べつに、小さいころにですね、ストレートなモノのいい方をしないようにしつけられたとかっていうのはなかった。そういうのがキライだったとかっていうのもなかった。でも、ストレートなモノのいい方をして相手を傷つけてしまった経験とかがあると、やっぱり人間って「どうすれば傷つけずにすむだろう」って考えるでしょ。それじゃあないですか。きっと私はですね、そんなことを考えつつ、寄り道をしているんだと思う。

「暗いのと明るいのと、どちらかが嘘にちがいないから本当のあなたはどちらなんですか?」というふうに訪ねられると、いつも困ってしまいます。「お天気屋なので、しょっちゅう気分が変わりまして」とでもお答えするよりほかはできないんです。どっちも本当、のつもりなのです。

結婚には向き不向きがあるのでは、と思うのよ。結婚にはそれなりの才能と度量が必要みたいだけど、私にはそうした女らしい部分がないような気がして。恋愛自体は生きるエネルギーの源。でもすべての人が結婚をその延長上におかなきゃならないのかな?って、不思議に思う。

わたしは女だからごめんしてちょうだいね、みたいな甘くみてちょうだいみたいなのは大嫌いなのね。だったらわたしは女でございますっていう前置きをどけるから、一対一で話すから。あたしって言ってるんだから甘く見ていてよ、みたいなのはごめんだっていうそんな気持ちはあったのかもしれない。

聴いた人を泣かせるように歌を書くテクニックなんてないですけど、書いてる時点ですでに私が泣いてますから。この曲を聴いて泣きましたと言われたら、ねー、泣くよねー、それしか言いようがないかな。

小さいころ、みんなが楽しそうになわとびをして遊んでるの。それを見てて、はいりたいなあ、って思う。だけど、どうしても“入れて……”っていえないの。そのうちなわとびは終わって、私ひとり取り残されて……。私の人生って、そういうことが多いみたい……。

弱い者を励ましている?よく言われるけど、違うんすよ。私が励ましてほしいの。

“言葉が乱れてる。これはいけない”というご注意ってさ、遡ると平安時代の人たちも言ってるんのね、同じこと。江戸時代の人たちも。“最近の若者の言葉は”っていっつも言ってんのね。だから言葉って、いっつも、いっつも崩れて変わるもんなんでしょう、きっと。

私が言いたいことって、『時代』の時から変わってないのかもしれないんです。“まわるまわるよ時代はまわる…”“生まれ変わってめぐりあうよ”。それはずっとそのまま、なのかもしれないです。同じことを、手を変え品を変え、ずっと歌っているんですね。

『悪女』を出した29歳のときに、ガクッと痩せたね。実は、あの頃、ちょっと自然食に凝ったのよ/マクロバイオティック。玄米やゴボウをかじる、大根かじるの世界です。面白がってやったんですけど、自己流だったものだから、貧血になりましてね。

両親に「刀で切った傷は薬つければ治せるけれど、言葉で切った傷は薬では治せないんだよ」って言われまして。自分は悪気もなく言ってしまったんだろうけれどもそれで人を傷つけることがあるなんて思いもしなかったんで言葉は気をつけて使わなければいけないんだってそのときに学習したんですね。

私は、よく他人からいわれるんです。何を考えているかわからない女だって……。自分でいうのもおかしいんだけど、すごく気分屋さんというか、心の動きが激しいんです。1分1秒で気分が違っちゃうわけ。バカみたいにパッと明るいときもあるし、深く深く沈みこんじゃうときもある。

タレントになろうなんて考えたこともないのよ。まず自分自身を追求していくだけ。歌をひとに聞かせてやるとか、与えてやるという思いあがりはイヤね。生きている自分を確かめていることで、結果的に共鳴が得られるのは嬉しいことですけど…。

中島みゆきファンだからみゆきさんのまねしようとか、じゃあ私はカリスマになっちゃおうか、とかそういうことは思わない。そういう器じゃない。私は自分のことやってる。だからあなたも自分のことやっててよ、という気持ち。交感という言葉があるでしょ。交換じゃなくて交感。そうあってほしい。

人間関係はきついよね。でもさ、NOもいわなきゃ物事変わらないんだよ。ストレスに麻痺せずはげみにするの。OLとしての環境を利用して戦うぐらいでなきゃ。

今はもうだいぶ数としては減ってきてると思いますけれども、男女同権がエスカレートしすぎて、男が男らしく、女が女らしくということは差別であるみたいに突っ走ったブームもありましたよね。おかしいんじゃないかなと思ってましたね。男の人の役割と、女の人の役割はちがって当然だと思うんでね。

“ちがう”ということを大いに尊敬したいなあと思いますね。女にできないことを男ができるから、「男は偉い、女はダメ」というのじゃなくて、女にできないことが男の方はできるなら、ああそれはありがたい、ぜひお願いしましょう。女は、こっちにやれることがあるんだったら、そりゃ私が引き受けましょう。という役割分担でいけばいいんじゃないでしょうかねえ。それをできない相手に対して侮蔑することもないし、できない自分を卑下する必要もないし。

すごくつらい目にあったときに“まるで中島みゆきの歌みたい。でも、たかが歌。歌にできる程度のことなんだ”と思って、気を楽にしてもらえればいい。歌にできないほどつらいことも、世の中にはいっぱあるんだから。

自分の歌は実用品として役立てていただくのがいちばんの夢ですね/鍋、釜とかザルとか、そういうものと一緒でね。それを使うことで生きていくのが便利になったり、何か気晴らしになったりすれば十分だと思うんですね「私の作品は実用品コーナーでお買い求めください」って(笑)そういう気持ち。

人の不幸を悲しむやさしさはみんなあるんですよね。だからね、ここから先も期待できるんじゃないかと、甘く考えてんですけどね。まだ、人の不幸を悲しむ力はみんな持ってると思うんです。でも、もう一歩、人の幸福を喜ぶところまで、なんとか私もなってみたいものですねえ。

抽象的な言い方ですけれども、他人の幸福を喜べることが、一番の幸福じゃないでしょうか。なかなかそうはいかないですけれども/自分の幸福しか考えられない一生ってさみしいでしょうね。なんかね、自分で棺桶の蓋をするようで、さみしい一生でしょうね(笑)

私は運命っていうのは、やっぱり自分で決めるんだと思いますけどね。自分のコースは一応決まってるかもしれないけど、その中で自分が何かしていくことによって、そのコースっていうものはいくらでも変わっていくものだと思いますけどね。

希望的な歌をうたうと聞いてる人に対して“あなたの明日は明るいわヨ”といってるかのようにとられがちだけど、私が“明るいわヨ”っていったって、アナタのアシタはアナタが作るしかないでしょ、っていう個人的なところへ帰ってくるもんだって私は考えてる。

夢は、叶ったほうがいいです。でも叶わない夢もあります。かたちを変えでもしないかぎり、どうにもならない夢もあります。どんなにかたちを変えてでも、どんなに傷つきながらでも、いつかきっとあなたの夢が叶いますように。

20歳の時より30歳のほうが、30歳の時より40歳になった時のほうが素敵だな、と言われるような年の取り方をしたい。

『幸せ』という字は、『辛い』という字の上についているちょっぴりの点を、十という字に変えると幸せになるんです。十分辛くて、はじめて人は幸せになるんです。

あのね、無理に笑うって難しいけれども、せめてこの口角をね口の両端をぐいーって笑ってる時みたいに上げてみてください。あのー泣き笑いでもいいですから、口角をぐいーって上げてみると細胞が元気になるんですと。いきますよはい。一、二の三、ぐいー。はい、ちょっと元気にな…ったらいいな。

もうしょっちゅうくじけてます。もう何べんも何べんもくじけてます。ほんでくじけるけど、この先にもっといいこともあるかもしれないと思って、こうぐっと、こう、そうですね、冬、冬に、こう木がね、葉っぱを落としても栄養を貯めているように、そんな感じで越えようと思ってます。

あれこれいう人は責任なんて取ってくれないんだからさ。もし、やりたいことができたなら自分の目で選んで欲しいな。私もそうしているし。自分の人生を人に振り回されないで欲しいな。自分で選択した人生なら、自分で責任が持てるでしょ。それを人のせいにするのは卑怯だと思うな。

自分がしたいこと、できるかもしれないことは、誰かの意見で決めずに、自分の目で見据えたいですよね。人は好きにいいますよ、あんたにそんなことムリよとか、できるわけないでしょ、とか。特に20歳のころはそういわれやすいもん。でも、自分の人生は自分で責任取らなきゃいけないんだからね。

中島みゆきとは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

中島みゆき。

本名:中島美雪

1952年、北海道札幌市出身。

祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、父・眞一郎は北海道帝国大学医学部出身の産婦人科医で中島産婦人科院長。

札幌市に生まれ、5歳の時に岩内に引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。

帯広に移り、市立帯広小学校を卒業、市立帯広第三中学校に入学する。

1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移り、市立第六中学校に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻る。

その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子大学文学部国文学科を卒業する。

帯広柏葉高校3年生の時、文化祭(第20回柏葉祭・1969年9月1日)で初めてステージを踏む。

この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」である。

大学時代は、放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをする。

北海道大学フォークソングのメンバーと交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コンテスト荒らし」の異名をとった。

「フォーク音楽祭札幌予選」では「私の窓から」を歌っている。

1972年には「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している。

この時の音源は大会実況版としてLP化されている。

大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝うかたわら、アマチュア活動を続ける。

ジャズ喫茶オーディオのマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画で多くのステージを踏んでいる。

デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得しており、オリジナル曲は既に100曲以上存在していたが、それらの一部は現在でも音源化はされていない。

1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による「第9回ポピュラーソング・コンテスト」に「傷ついた翼」が入賞した。

9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードからレコード・デビューを果たす。

1975年10月の「第10回ポピュラーソング・コンテスト」に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞し、11月の第6回世界歌謡祭でもグランプリを受賞した。

「時代」は12月に2作目のシングルとして発売。

これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。

1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。

同年には研ナオコに提供したシングル「LA-LA-LA」と「あばよ」が大ヒット、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。

同年大晦日『第27回NHK紅白歌合戦』で研ナオコが「LA-LA-LA」で出場、一挙に認知度を広める。

翌1977年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。

作詞家・作曲家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。

数少ない出演番組の一つとして1977年から放送された『コッキーポップ』がある。その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。

後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲の一つとなっている。

『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得している。

1977年発表のアルバム『あ・り・が・と・う』から1996年発表のアルバム『パラダイス・カフェ』までの22枚のスタジオ収録アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得している。

1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーの間で大きな人気を集めた。

1980年代前半にはミュージシャンとしてさらに大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、1982年の年間チャートでも6位を記録、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。

1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞した。

甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいる。

1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。

自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当した。

1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。

「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。

ドラマ『親愛なる者へ』の主題歌「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。

なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。

1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、中島にとっての最大級のベストセラーである。

『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている。

1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新した。

1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。

2000年には25年にわたって在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社・ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。

以降現在に至るまでヤマハから作品を発表している。

移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。

中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週にわたってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。

発売当初は話題にならなかったが、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。

このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出演。

『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。

このときに初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。

「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。

これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。

同時に、1970年代 – 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。

2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。

同年には、TOKIOに提供した「宙船(そらふね)」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。

2009年11月3日、紫綬褒章を受章。

2010年10月から2011年1月まで3年ぶりの全国ツアー「中島みゆきTOUR2010」が27公演9会場で行われた。

2012年10月から2013年2月まで全国ツアー「中島みゆき縁会2012〜3」が27公演12会場で行われた。

2014年9月よりNHK連続テレビ小説『マッサン』の主題歌として「麦の唄」が使用され、同年12月31日の第65回NHK紅白歌合戦にも出場し、同曲を歌った。

中島にとっては2002年以来12年ぶり、2回目の紅白歌合戦出場となった。

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