曽野綾子の「大切な」言葉たち
幸福というものは客観的な状況ではなくて幸福を受け取る者の能力にかかっている。
すべて人生のことは「させられる」と思うから辛かったり惨めになるので「してみよう」と思うと何でも道楽になる。
自分や周りにある影に目をつむり光ばかりを見ようとする子供たち。それは幸福でなければならないという強迫観念に取りつかれた社会が生んだ産物でしょう。光しか見ないからちょっと影に入るとイライラしたりキレたりする。それは決して幸せな姿とは言えません。
好きなことだけやって嫌なことはやらなくてもいい。そんな風潮が子供をおかしくさせている。我がままで他人の痛みが分からない子供を育てているのです。
今は子供に強制する親や教師が余りに少ない。何事も自主的にやらせるべきで強制するべきではないと言う。これはとんでもない間違いです。
人にはできることもあればできないこともある。得意なものもあればどうしても不得意なものもある。それが一人の人間が持っている光と影なのです。光にばかり目を向けるのではなく影の部分もしっかりと見据えることが大切です。
幸せでいることに慣れてしまうと不幸せになることが許せなくなってしまう。自分の一生はいつも幸せでなければならないと思い込んでしまう。この誤った感覚が日本人をどんどん不幸せにしている。
社会が自分を裏切ったから自分はだめになったなどと言うのは口実に過ぎない。自分の教育に責任があるのはまず自分であり最終的に自分である。
テレビや本や違った体験が人間に知識を与えるのも本当だがただ血縁と家畜と何もない荒野の広がる静寂が少年たちに多くのことを教えることも事実。
砂漠のど真ん中でガソリンがなくなればそれは死を意味します。「想定外」なんていう言い訳は通用しない。
どんなにその人を愛していても、その人のためにすべてを犠牲にしてはならない。なぜなら、必ず後で、その人を憎むようになるからだ。
人生において何が正しいかなんて誰にもわからないのだから、自分の思うとおりに進んで、その結果を他人の責任にしないことが大切ではないかと思う。
私たちはすべてのことから学べる。悪からも善からも、実からも虚からもおそらく学べる。狭い見方が敵なのであろう。
我慢しろ。正しいことだったら、他人の思惑なんか構うな。
社会が自分を裏切ったから自分はだめになった、などと言うのは口実に過ぎない。自分の教育に責任があるのは、まず自分であり、最終的に自分である。
他人が何かを「くれる」こと、「してくれること」を期待してはいけない。そのような受け身の姿勢は、若いときには幼児性、年とってからは老年性と密接な関係をもつものだからである。
実に多くの日本人が、才能と知能に恵まれながら、賢くなくなったのは、叡知の源である貧困を取り上げられたからかもしれない。
今は子供に強制する親や教師が余りに少ない。何事も自主的にやらせるべきで、強制するべきではないと言う。これはとんでもない間違いです。
貧困こそ、我々の中の卑怯さと残忍さを露呈し増幅する。
信じるということは、疑うという操作を経た後の結果であるべきだ。疑いもせずに信じるということは、厳密に言うと行為として成り立たないし、手順を省いたという点で非難されるべきである。
人は公平、幸福、順調が何より好きだが、心の一部では、そうでもない要素も求めている。つまり不公平であることは充分知りつつ、時には桁外れの豪華な暮らしや、家柄の故に不当に裂かれる悲恋も好きなのである。
何かがまちがいなくできる、という感覚も快いものでしょうが、私は何かが完全にできることはないのだ、という思いもまた好きでした。『仮の宿』
生の基本は一人である。それ故にこそ、他人に与え、係るという行為が、比類ない香気を持つように思われる。『人びとの中の私』
人を助けるなどということは、本来不可能なことなのだが、それでも一人の目の前にいる人がほんの少しでも、幸せになることができれば、という程度のことでやるのである。『あとは野となれ』
一人前の大人に育てるために
1、教育はすべて強制から始まる
2、「子どもの才覚」を養う
3、「人間の原型」を教える
4、親は子どもにとって「土」である
5、子どもに教育が必要なら、親にもそれ以前に教育が必要
6、「叱る」ことと「ほめる」ことは連動作用
7、代替のきかない個性を伸ばす
8、親離れ、子離れ
『親の計らい』曽野綾子 扶桑者新書より
物事にはすべて光と影があります。明暗と言い換えてもいいでしょう。例えばどんな名画も、光だけで描かれているものはない。影があればこそ光も活きてくる。影がなければ絵にはならないのです。
幸せと不幸せ。それはいつも半分半分なのです。どんなに裕福な人にも、不幸せは半分ある。貧困に喘いでいる人でも、人生の半分は幸せだと感じることがある。それが人間というもの。そして、少しだけでも幸せの割合を多くしたい。そのために努力をすることが人生なのではないでしょうか。
人にはできることもあれば、できないこともある。得意なものもあれば、どうしても不得意なものもある。それが一人の人間が持っている光と影なのです。光にばかり目を向けるのではなく、影の部分もしっかりと見据えることが大切です。
腐りかけの果物、心が病んでいる人間は社会や周囲に往々にして迷惑をかけるが、しばしばすばらしい芳香も放つのである。もちろん常識的に言えば、果物は腐っていない方が、人間は心が病んでいない方が始末がいい。しかしその腐りかけの部分がないと、人生の芳香もない。
英語の「ワンダフル」は「フル・オブ・ワンダー」ということで、実は驚きがいっぱい、ということだ。すばらしい、という表現の基本には「想定外」が含まれるらしい。もし想定通りに事が進んだら、必ずしもワンダフルではないのかもしれない。
人生において何が正しいかなんて誰にもわからないのだから自分の思うとおりに進んでその結果を他人の責任にしないことが大切ではないかと思う。
自分を追いつめないようにすること。その方法は何にでも「たかが」をつけて考えることです。何も思いつめることはないやという気になってくるのはおもしろいことです。
自分らしくいる。自分でいる。自分を静かに保つ。自分を隠さない。自分でいることに力まない。自分をやたらに誇りもしない。同時に自分だけが被害者のように憐れみも貶めもしない。自分だけが大事と思わない癖をつける。自分を人と比べない。これらはすべて精神の姿勢のいい人の特徴。
曽野綾子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
曽野綾子。
1931年東京府南葛飾郡本田町(現・葛飾区立石)に父町田英治郎、母キワの二女として生まれる。
1934年、大森区田園調布に移る。
母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院。
敗戦前後10か月ほど金沢に疎開し学校も金沢第二高等女学校に変わるが勤労動員令が下り平野化学工場に配属。
1946年3月、東京に戻り聖心に復学。
戦後父親は米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となる。
芥川賞候補作「遠来の客たち」の舞台となる米軍接収の箱根山ホテルはここをモデルとしており、曾野は1948年夏に実際ここに滞在しアルバイトまがいの手伝いをしていた。
同年9月、洗礼をうける。
中河与一主宰の同人誌『ラマンチャ』(1951年5月)に載った「裾野」が臼井吉見の目にとまり、臼井の紹介で現在の夫・三浦朱門や阪田寛夫らの第十五次『新思潮』に加わる。
朝日放送に入社した阪田の伝手もあり、同人誌発行資金獲得のため同社にコントを投稿し数編採用される。
「鰊漁場の図」(新思潮5号)、「田崎と鶴代」(新思潮6号)、「片隅の戦士」(世界8・9月合併号)と発表し、22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚。
山川方夫の紹介で『三田文学』に書いた「遠来の客たち」が芥川賞候補となり23歳で文壇デビュー。
30代で不眠症に苦しむが、『弥勒』『無名碑』など新しい方向性にチャレンジするうち克服した。
1995年から2005年まで日本財団会長職を務め、2009年10月からは日本郵政社外取締役に就任。
2012年菊池寛賞授与。