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研ナオコの「大切な」言葉たち~研ナオコの名言・人生・生き方など~

研ナオコの「大切な」言葉たち

実家は静岡県の兼業農家で、父が外で働き、母が家事、子育て、農作業を一手に引き受けていました。早朝から深夜まで働き詰めで、そんな生活を何十年も続けて、祖母の面倒も見て…。母のにおいは汗のにおいなんです。子ども3人を育て上げてくれた母に感謝しています。

子どもの頃から歌うことが大好きでした。12歳の頃に静岡放送の「のど自慢大会」に飛び入り参加して「悲しい酒」を歌って見事合格。親戚のおじさんが宝塚の照明をやっていて、新しいレコード会社のオーディションを薦められて、高校1年で学校を辞め、親の反対を押し切って上京したんです。学校には「両親は賛成」、両親には「学校は賛成」と言いました。正直なところ、親に楽をさせてあげたい、築100年の家を建て直したい、という思いがあったんです。

オーディションを受けて、1年くらい経ってデビューしたんです。でも、あまり売れず、マネージャーと夜行列車に乗って全国キャンペーンをしました。レコード、色紙、カラオケテープを持って、毎日レコードジャケットと同じ服を着て、スナックに飛び込み営業。2か月お風呂に入らなかったこともあるし、北海道や東北の冬は雪が深いのできつかったですよ。

新曲「愚図」との出会いが転機となりました。75年に「愚図」がヒットして、やっと歌手として認めてもらえたんです。それまではタレントとしか見てもらえなかった。この曲がなければ、歌手の研ナオコは存在していないと思います。

小林幸子さんですね。同い年なんですけれど、彼女が小学校6年生の時にデビューして、それをテレビで見て「子どもでもデビューできるんだ。こんな年で歌手ならわたしだって…」。それからですね、本気で歌手になりたいと思ったのは。

歌い上げると、自分の世界に入り込んでしまって、自己満足で終わって、曲の心が伝わらないと思うんです。あまり上手に歌われると、うるさいよって思っちゃうんです。自分の感情は2、あとの8はお客さまに預ける。歌は語るように、芝居は歌うようにしているんです。

2人の子どもが幼稚園に入って高校を卒業するまで、仕事の量を減らして、すべての学校行事に参加しました。あとで後悔するのが嫌だったんです。

子育てをしたというより、一緒に成長してきた感じです。子どもが母親にしてくれるんですよ。赤ちゃんのときは、何もわからないまま一生懸命育てていて、子どもはいまどういう気持ちなんだろうと、探り探りやってきました。それから、自分の時間を割いて、子どもたちのために費やしていく、というふうに。たぶん、自分の親もそうだったんだろうなと思って、親に感謝しながらね。

私の母もそうでした。心配は胸の中だけに収め、何も言わずに好きなことをさせてくれました。だから私は、目標が見つけられたと思うんです。

娘と一緒だと楽しいし、頼もしいし、安心です。横で冷静に見ていて、精神的なケアをしてくれます。私がアドバイスできること? ないですね。ただ、自分がやってきたことを、娘にも経験させてあげたいなとは思いますけど。

息子は英語がいちばん苦手だったんです。でも、8年間英語圏で勉強して苦手を克服しました。娘もそうですけど、子どもががんばってくれている、というのはありがたいこと。親もがんばらなくてはと思う。教えられることばかりです。

私の場合、自分自身のために歌うのではなく、歌を聴いた方が、その歌詞で自分の世界を描いてくださればいいな、と思っています。娘もそういう思いで歌っていると言っていました。

まだまだやりたいことがあるので、絶対に無理しちゃいけないなと思います。これからも子どもたちと一緒に遊びに行きたいし、子どもたちがどこまでがんばれるかを見ていたい気持ちがあるんです。それには、長生きしなくちゃ(笑)

1回手を抜き始めたら、おそらくずっと手を抜いてしまう。そうしたら、歌手としては終わります。だけど、一生懸命歌っていれば、また時代がめぐってくるから、そのときにすっと流れに入っていけるように、がんばっていたいんです。

昨日の追悼番組をご覧になってくださった方々、見てくださりありがとうございました。生放送のスタジオの中は、笑いでいっぱいでした。私も沢山、笑いました。けんちゃんも喜んでいるかなぁ。喜んでいるはずです。最後の加藤茶さんの弔辞では、出演者、スタッフの張り詰めた気持ちが 涙となって溢れてきました。高木ブーさんのいう通りけんちゃんは生きています。

研ナオコとは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

研ナオコ。

1953年7月生まれ、静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現:伊豆市)出身。

1965年 ちびっこのどじまんにて『星空に両手を』を唄い、「子供がそんな歌を唄って」と不合格。同年 静岡放送の『のど自慢大会』に出場し、合格。

1967年 静岡放送の『のど自慢大会』に出場。準優勝。

1970年 歌手を目指し上京。東京宝塚劇場のエレベーターガールなどのアルバイトもしていた。

1971年 4月1日、東宝レコードの第1号歌手として『大都会のやさぐれ女』でデビュー。

1973年 美人画で知られた画家:岩田専太郎に「百年に一人出るか出ないかの不世出の美人」と絶賛される。

1975年 『愚図』で、自身初となるオリコンシングルチャートベスト入り(週間最高9位)、FNS歌謡祭優秀歌謡音楽賞を受賞。

1975年から10年にわたって放送された日本テレビのバラエティー番組「カックラキン大放送!!」にレギュラー出演し、「ナオコお婆ちゃんの縁側日記」で人気を博した。

1976年 『あばよ』で、自身初のオリコンシングルチャート週間1位、日本歌謡大賞放送音楽賞、FNS歌謡祭最優秀歌謡音楽賞、第18回日本レコード大賞歌唱賞受賞。『LA-LA-LA』で第27回NHK紅白歌合戦に初出場。

1978年 中島みゆき作詞、作曲による復帰作『かもめはかもめ』がヒット。 日本歌謡大賞放送音楽賞、第20回日本レコード大賞金賞を受賞。また、同曲で第29回紅白歌合戦に2年ぶり2回目の出場。

1982年 『夏をあきらめて』(桑田佳祐作詞、作曲)で、第24回日本レコード大賞金賞、日本有線大賞有線音楽賞、全日本有線放送大賞優秀スター賞を受賞。同曲で第33回紅白歌合戦に出場。

1983年9月、急性尿路感染症で入院。『泣かせて』で、古賀政男記念音楽大賞優秀賞を受賞。第34回紅白歌合戦に出場。

1985年、田原俊彦との異色のデュエットソング(歌手名義は「Toshi & Naoko」 )『夏ざかりほの字組』がヒット。

1987年7月7日、7歳年下の野口典夫と結婚、同時に妊娠6か月を公表。同年10月29日、長男が誕生。

1989年8月8日、長女が誕生。

1993年 声帯ポリープの手術。同年第44回紅白歌合戦に、『かもめはかもめ』で1986年の第37回紅白歌合戦以来7年ぶり11回目の出場(現在の処これが自身最後の紅白出演)。

1994年 胆のうの全摘出手術

2001年 日本テレビ、第24回『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で、歴代女性初のチャリティーマラソン(85km)を完走。

2002年 初の自伝エッセイ本『家族リレー 〜ナオコんちの場合〜』(ISBN 4764819562)を出版。

2006年 中日ドラゴンズが優勝した日(10月10日)の祝勝会ビール掛けに参加。

2015年45周年記念コンサートツアーは全国100カ所コンサートを開催。

2017年には、静岡県の観光や特産品情報を発信する「ふじのくに静岡大使」、2018年、生まれ故郷の「伊豆市親善大使」に就任している。

2017年3月21日 山梨県甲府市内で舞台『梅沢富美男劇団特別公演「アッ!とおどろく夢芝居」』の公演中に転倒、右大腿骨頸部骨折と診断され入院。長期療養も余儀なくされたが、驚異的な回復力により同年4月28日に復帰。

2019年「研ナオコ・野口五郎アニバーサリー・スペシャル50周年+50周年てことは100周年ステージ」ツアーを展開。

2020年、芸能生活50周年を迎えた。

arashidaisuki