なんか、頑張ってって言われるほうがしんどい時ってあるじゃない?でも、そういう時でも、誰かにポンポンって肩をたたかれるだけで、あ、大丈夫だなって思えたりする。
誰のものさしでもなく私のものさしでしかないんですけど、「この人は本物」とか「この人は違う」とか、「これは好き」とか「嫌い」とか、自分のものさしで判断することってたくさんあるでしょう?
始めたばかりの10代、20代前半の頃は自分の存在意義が欲しいという気持ちが一番強かったと思うんですけど、結局のところ、自分のための確認作業をしてるなと気づいてからは、そういうことじゃないというか——。何かしたことが社会現象になったり、ちょっとしたことが良くも悪くもメディアに取り上げられたりするようになった時に、私はきちんとこの世に存在しているんだとは思えなかった。そう思えると思ってやってきたんですけど、その時はもう誰も見ないでって——。あの頃が一番、“浜崎あゆみ”を辞めたいと思った時期だったと思う。
本当の意味での自由って、自分で全ての責任をとれるようになってはじめて手に入れられる気がする。責任ばかり感じてしまうと確かにしんどいけど、じゃあ責任とりたくないからって自由を手放すのは無理だよね。
海外生活が続く中で、気づいたら日本語の繊細さみたいなものに飢えてたっていうのもあるかな。“日本語で表現したい”欲が鬱積していて、どんどん歌詞も書けちゃうし、伝えたいことを音楽で表現できる楽しさに純粋に没頭できたっていうものあるかな。あとは、カウントダウンライブ後に作った曲もあるんだけど、それらは、浜崎あゆみとしての自分というか、カウントダウンライブを通して、私自身の中で、自分の本質に立ち返ったら結果、自然と生まれてきた。そんな曲もあったり――。そういう意味でも、すごく素直はアルバムというか、王道を作ろうとしたのではなく、結果、こうなった。ということなのかなって――。
最初に自分がそう感じたのであればそれなんだ。何があってもそれを貫こうって。そこには勇気や覚悟がいることで、そういう意味で強さはすごく必要になってくるよね。
正直いうと、私ずっと逃げてたんだなってことにカウントダウンのリハーサルの時に気づいたの。海外と日本という生活をしだした時にごちゃごちゃ言ってたじゃない?『プライベートと仕事はハッキリ分けたい』とか。そんなこと言ってた自分に笑った。『そういうこといって逃げたかっただけでしょ?』って。それらしい理由をつけて、逃げたくて逃げてみたけど、やっぱり逃げられないし逃げたくない。どこにいるとか、誰といるとか、そういうことじゃなくて、どこにいても誰といても、私は私でしかいられないんだということが分かったの。だからもう逃げるのは辞めようと決めた。
どんな事があっても、私は自分の人生において自分がする選択についてはとことん自信を持って、貫き通す。
タモリさんになってみたい。これは昔から思ってて、タモさんにも言った気がします。タモリさんってどっからどう見てもタモリさんじゃないですか。一回海外でお会いしたんですけど、一瞬でタモリさんなんですよ。それをタモリさんに言ったら『あゆに言われたくないよ。お互い様だよ』って言われたんですけど、自分のことが分からないので、タモさんになったら人はどんな風に見るのかなって。
毎日の中で傷ついたり、挫折したり、息詰まったり、振り返ったり、そういうこともたくさんあると思うけど、そこをあまり不安に思わないでほしい。絶対にそこで終わりじゃないから。必ず前に進める日が来るから。
自分に厳しくしながら毎日いろんなことを選んできた結果が、今につながっていると思うから…。すべては。
私の歌っていうのは苦しみから逃れるためにある音楽ではなくて忘れてはいけない悲しみも受け止めた上でだけどこんな素敵な音楽もあるよっていう、そんな歌であればいいなと思ってます。
それこそ以前は「火のないところに煙は立たない」って言ったけど、今は火がなくても誰でも煙を立てられるような時代だから。それを気にする人もしない人もいるけど、自分の言葉で真実を伝えていきたい人は伝えていったほうが絶対にいい。自分の人生だからね。それを信じてくれる人がいるかいないかは、その人がいままでどうやって生きてきたかが反映しているんだと思う。私やがくちんはいつも正直にやっていたから、こういう場で発することはきっとみんなホントだと思って聞いてくれる。それが正しいことだと思うし、「本物ってこれだよ」とか「真実ってこれだよ」というのが、みんなが上手に見極めて物事を見れば、日本のエンターテイメントももっと進化できる気がする。
そんなキレイごとばかりじゃないし、そんなにカッコつけてばかりもいられない。カッコ悪くたって、情けなくたって生きてかなきゃなけない。
何ひとつ傷つかずに生きて行く事が不可能なのと同じように、何ひとつ傷つけずに生きて行くのも不可能だと、私は思っています。
今、生きている人生は、一回だけのものじゃない?限りある時間だけど、何かに興味を持って、トライしたいと思っているなら、いくつになってもそれが遅すぎる、too lateってことはひとつもないと、私は思うのね。
私じゃない人物が発する私についての話や噂によって形成されるのは、私の人格ではなく、あなたの人格だと思うんだ。どうかあなたの大切な時間をムダな事に費やさないでね。
『大人になっても未来はいいもんだよ』。昔の方が何に対しても怖かったのは絶対的にあったので。知識もなかったですし、何も知らないから、何をするのにも怖くって、何もできないと思っていたので。今は少しずつですけど、学ばせてもらって、楽しむ余裕ができたので、19歳の自分に『大人になったらそんな大変じゃないよ』って言ってあげたい。
辛かったことは、そんなの死ぬほどある。だけど、「過程」だから。
“生きる意味”なんてわからないじゃないですか。でも、わからないから、見つからないから考えるのが楽しいんだと思うんです。
なんでもやること。私は考えるより、先に動いてしまうタイプです。じっとしながら書いたり、考えたりする暇があるなら実際に行動に移しちゃえという気持ちでずっとやってきました。その分、たくさんの失敗もあるし、痛い思いもするし。それでも経験した方がいいので、気になることならなんでも挑戦した方がいいと思う。何回でもやり直せるし、それで終わるわけではないので、必ず新しい日はきます。
自分自身のことに関しては、いくらでも変えようがある。やるか、やらないかだけ。そこに “無理” という基準は存在しない。
走ってきた道は引き返せない。引き返したところで何も消せない。だからもう、前に進むしかない。
一つだけ言えるのは、“いつだって今この瞬間が一番若くて、一番可能性がある”。だとしたら、引き延ばせば引き延ばすほど、その野望は遠ざかっていく気がしますね。
人にどうみられているか、といことじゃなくて、大切なのはどういう自分でいたいか、ということ。
浜崎あゆみ。
1978年生まれ、福岡県福岡市早良区出身。
幼少の頃に父親が蒸発、母子家庭で育った。
小学生の頃にSOSモデルエージェンシー福岡にスカウトされ、「浜崎くるみ」の芸名で福岡中央銀行のポスターや地元商業広告に登場。
その後、東京のサンミュージック(現:サンミュージックプロダクション)を紹介され、所属することとなる。
1993年、14歳でテレビ朝日系テレビドラマ『ツインズ教師』でドラマ初出演し、女優としてデビュー。
1994年、15歳で芸名を「浜﨑あゆみ」(『崎』の異体字『﨑』)に改名し、同年4月に堀越高等学校芸能活動コースに入学。
16歳から17歳にかけて「渚のシンドバット」「未成年」や「闇のパープル・アイ」等テレビドラマ・映画、Vシネマで女優として出演。
またグラビアアイドルとしての活動や”AYUMI”名義でアルバム「NOTHING FROM NOTHING」のリリース(1995年)なども行った。
1995年に当時可愛いと評判の店員として六本木のヴェルファーレに入り浸っており、そのVIPルームでエイベックス創業者であり当時専務だった松浦勝人と知り合う。
その約1年後、浜崎が「エイベックスで(歌手を)やりたい」と口にしたことと、96年末にサンミュージックとの契約が切れたことをきっかけに、松浦からエイベックスに誘われる。
翌1997年夏、浜崎はボイストレーニングのため3ヶ月間ニューヨークへ渡り、エイベックスからの歌手として再デビューへの入念な準備が始まった。
当初は3~4人組のグループを結成し、ボーカルに浜崎を据えるつもりでいたが本人が断り、ソロという形になった。
1998年4月8日発売の1stシングル「poker face」で「浜崎あゆみ」として19歳で歌手デビュー。
デビュー時からエイベックス内で巨大プロジェクトチームが立ち上がり、莫大な広告費と綿密な計画で2ヶ月に1枚という超ハイペースでCDがリリースされ、多くの化粧品会社や製菓メーカーなどとタイアップし、テレビ・雑誌などのメディアによって徹底的かつ短期間で常に露出し続ける戦略が取られる。
8月5日発売の3rdシングル「Trust」で初のトップ10入りを果たし18万枚を記録。
この年だけで5枚のシングルをリリースし、平均セールスは10万枚足らずと大きなヒットはなかったものの、徐々に浜崎あゆみの知名度・注目度が上がる。
同年12月28日、ニッポン放送”浜崎あゆみのオールナイトニッポン”で初ラジオMCを務める。
1999年1月1日発売の1stアルバム『A Song for ××』がオリコンチャート1位を初獲得。
同年つんく♂プロデュースの4月14日発売の7thシングル「LOVE 〜Destiny〜 / LOVE 〜since1999〜」でシングルでも初のオリコンチャート1位を獲得。
この頃から本人出演でJT「桃の天然水」、HONDA「ジョルノクレア」、花王「AUBE」、森永製菓「こんがりショコラ」などのCMに立て続けに出演し、7月14日発売の9thシングル「Boys & Girls」が3週連続1位を獲得、自身出演CM曲を4曲収録した翌8月11日発売の10thシングル「A(4曲A面)」がシングル扱いでは初のミリオンセラーを記録し、夏に大ブレイクを果たす。
この年のリリースしたシングルを全て含む同年11月10日発売の2ndアルバム『LOVEppears』は同日発売の11thシングル「Appears」と共に上半身裸で胸を髪で隠す白肌と黒肌のジャケットが話題となり、ダブルミリオンを記録。
同年12月31日の『第50回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。
この年だけで7枚のシングルにオリジナルアルバム2枚、リミックスアルバムなど毎月怒涛のリリースラッシュで他の追随を許さない勢いと露出量で一気にトップアーティストに躍り出た。
この頃から女子高生・ギャルを中心にカリスマ的存在となり、浜崎のブレイクに伴い、ライヴ・コンサート・アーティストのグッズ・エッセイ・写真集など、広告代理店のような発想で音楽以外の利益を生み出すビジネスモデルも形が整っていった。
2000年4月より自身がセルフプロデュースを務める初めてのコンサートツアーに挑むも、左耳の疾患(内耳性突発難聴)により一部の公演を延期した。
同年、KOSE「VISSE」やTU-KAなどのCMキャラクターに起用されメディアにおける存在感を更に強め、4月から6月にかけて絶望三部作と称して3ヶ月連続でシングルをリリース。
中でも、6月7日発売の16thシングル「SEASONS」は136万枚のミリオンセラーを記録。
これらを収録した9月27日発売の3rdアルバム『Duty』は同時発売の17thシングル「SURREAL」と共に豹柄のジャケットやPVが大きな話題となり予約が殺到し、オリジナルアルバム自身最高の290万枚を記録。
同年11月、全日本有線放送大賞でグランプリを受賞した。
以降、2001年と2002年のALL JAPANリクエストアワード、2003年のベストヒット歌謡祭でもグランプリを受賞し、4連覇を達成している。
同年12月13日発売の19thシングル「M」ではCREAとして初めて作曲を手掛け、マリア像を意識した衣装が話題となり132万枚のミリオンセラーを達成。
同年12月31日には2度目の紅白出場と同時に、初のカウントダウンライブを開催。
同年も7枚のシングルに6枚のアルバムという驚異的なリリース数で、CD総売上げ200億円を突破するなど人気は頂点に達していた。
2001年2月28日には1stシングル「poker face」から8thシングル「TO BE」までの計8作品が12cmシングルとしてリミックスを追加して再発売され、オリコン週間ランキング20位〜31位に全作がランクインし、いずれも売上を2-3万枚伸ばすなど人気絶頂ぶりを見せつけた。
同年3月28日、デビュー丸3年にして自身初のベストアルバム『A BEST』を発売。
宇多田ヒカルの2ndアルバムの発売日にぶつけるなどの過去最大級規模のプロモーションを実施したことでマスコミ連日報道合戦となり、結果として自身最高の400万枚以上の売上を記録。
この年リリースした作品は全て首位を獲得し、年末には75万枚を記録した9月27日発売の24thシングル「Dearest」で日本レコード大賞を初受賞し、3度目の紅白出場。
12月12日には『songnation』に参加し、小室哲哉の作曲、自身の作詞のもとアメリカ同時多発テロ事件チャリティシングル「a song is born」をglobeのKEIKOとの共作でリリース。
デビューからCDリリースラッシュの勢いを止めることなく同年もシングル6枚にアルバム5枚を発売し、史上初二年連続CD総売上げ200億円を突破した。
2002年1月1日発売の4thアルバム『I am…』がダブルミリオンを記録。
『タイム』誌アジア版3月25日号の表紙を飾り、第一回MTV ASIA AWARDSで特別名誉賞を受賞。
2002年7月24日発売の27thシングル「H(3曲A面)」が、日本のシングルCDの売り上げが全体的に低迷しはじめた2002年において唯一、オリコン・日本レコード協会でのシングルミリオンセラーを記録(100万枚出荷記念版含む)。
9月26日発売の28thシングル「Voyage」に合わせて6年ぶりに女優として演じた短編映画『月に沈む』が公開。
10月12日、初のレギュラー及び総合司会を務める番組『ayu ready?』がスタートした。
12月18日発売の5thアルバム『RAINBOW』では初の英語歌詞にも挑戦し、ミリオンセラーを記録。
年末、67万枚を記録した「Voyage」で日本レコード大賞を2年連続で受賞し、4度目の紅白出場を果たす。
2003年12月17日に初のミニアルバム『Memorial address』を発売し、ミリオンセラーを記録。
年末、37万枚を記録した11月6日発売の31stシングル「No way to say」で史上初のレコード大賞3連覇を達成し、5度目の紅白出場を果たす。
2004年12月15日発売の6thアルバム『MY STORY』がミリオンセラーを記録、これが2020年現在では自身最後のミリオンとなっている。
32ndシングル「Moments」で6度目の紅白出場。
2005年36thシングル「Fairyland」で7度目の紅白出場。
2006年6月21日発売の40thシングル「BLUE BIRD」ではソロ歌手および女性ボーカルでは史上初のシングル総売上2,000万枚を達成する。
同年8度目となるNHK紅白歌合戦では、11月29日に発売された8thアルバム『Secret』より「JEWEL」を選曲し、初めてアルバム曲を披露することになった。
2007年2月28日、『A BEST 2 -BLACK-』『A BEST 2 WHITE-』が発売された。
オリコンチャート1位および2位を初登場で獲得。
また、自身初のアジアツアー(香港、台湾、上海)を開催。7月18日発売の41stシングル「glitter/fated」のDVDには香港の俳優・余文楽(ショーン・ユー)と共演したショートフィルムが収録。
12月5日には、初のデジタル・ダウンロード規格のみのシングル「Together When…」を発表。
前年に続き、この曲で9度目の紅白に出場。
2009年「Mirrorcle World」で10度目の紅白歌合戦に初のトップバッターとして出場。
2011年1月、前年PVで共演したオーストリア人モデル・俳優と結婚。(翌12年1月に離婚するも、アメリカのみでの入籍・離婚であった)
2012年8月8日、ベストアルバム『A SUMMER BEST』をリリース。このベストアルバムのリリースによりシングル、アルバムの総売上枚数が5000万枚を突破し、B’z、Mr.Childrenに続き、史上3組目、5年5か月ぶりの記録を達成した。
総売上枚数が5000万枚を越えたのはソロアーティスト並びに女性アーティストとしては史上初の快挙であった。
同年末、14回目の紅白歌合戦では自身初となる過去のヒットメドレーを披露。
2013年末、15回目となる紅白歌合戦に出場し、6年連続でトップバッターとして2004年「INSPIRE」を披露。
2014年2月、年下の医学部大学院生と再婚(2016年9月に離婚)。
この頃からアルバムや新譜制作などを控え、ライブツアーやイベント等を中心に専念したり、InstagramなどSNSをメインに発信するようになる。
2019年8月1日、浜崎あゆみおよび松浦勝人への取材を元にまとめた小松成美の小説『M 愛すべき人がいて』(幻冬舎)が発売され、初週3.8万部を売り上げた。
2020年1月、前年11月に第一子の男児を出産していたことを公表。
2020年7月5日、ドラマ『M 愛すべき人がいて』の最終回に合わせて、約2年ぶりの新曲「オヒアの木」が配信限定リリース。
この曲名は、浜崎オリジナル曲として初めての日本語タイトル。
2020年10月2日、第2子妊娠が発表される。