小学生の頃から吉本新喜劇が好きで、放送の翌日は学校でマネをしてました。地元の小学校は同級生が男女6人ずつしかいなくて、給食も「合コンや!」って言いながら食べてたくらい人数が少なかったんですが、みんなが笑ってくれるのがめっちゃ嬉しくて。もともとなりたかったアイドルは、子供心にも「無理やん」と思ったんですが、吉本なら私でもスポットライト浴びれるとこありそうやん、って。
ピアノは友達のお母さんが先生だったので、習っていましたが、さぼりまくり。結局、大人になってからネタに使いたくて練習しました。英語は、中学生のときに見た映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」がきっかけでした。主役のマイケル・J・フォックスがめちゃくちゃかっこよくて。そこからアメリカに憧れて、英語に憧れて、映画に憧れて。台詞や歌をまねするようになりました。ダンスも一緒で、高校生の時にマイケル・ジャクソンに感動して「これを人前でできたらうけるやろな」と思ってやっていたら、好きになりました。振り返って考えると、なんか技を増やしていくような感じです。漫画「ドラゴンボール」の主人公みたいに、どんどん技を増やして、強い人になるみたいな。
田舎なので、小学生の時は同級生が12人しかいなかった。男子6人、女子6人。「給食は合コンや~」とか言ってました。だれがどんな子か、互いにそれぞれの個性を知っていて、先生も全員の個性を認めてくれていました。それが中学校になったら、あちこちから生徒が集まって、当時の自分からするとたいへんな人数になったんです。みんなの個性が一瞬で分からなくなって、目立っている子と、おとなしい子に二極化して見えました。
嫌なときもありました。でも家族がずっと話を聞いてくれていて、一人で悩みを抱えていたわけではないので、助かりました。幼稚園の頃から「きょうでき」というのが家にあったんです。父親は毎日夜9時にバスで帰ってくるんですけど、母親と一緒に食卓にいるときに呼ばれて「きょうのできごと=きょうでき」を言わないといけなかったんです。最初は誰と会って何して遊んで・・・て話していたんですけど、だんだん面倒くさくなってきて「普通」「微妙」とか言うと、「そんなわけない、何をしゃべろうか考えて生きろ!」って言われて。今から思えば「きょうでき」が家に習慣としてあったから、中学生になってもちょっとした人間関係のいざこざとか、違和感とか、「そんなん言ってきてるんだけどどう思う?」とか言いながら、親にちくっている感覚なくしゃべれたんだと思います。高校では、仲間外れとか、はみだされている子がいないようにしたいと思って過ごしました。ステータスで「この子かわいいから一緒におったら自分も・・」みたいなのは一切なしで、あまり気を使わず楽しい子とおろうって。そしたら楽しく過ごせました。
子供の時、父親に毎日『今日でき』っていう、今日の出来事を発表する時間があったんです。小さい頃は、真面目に話してたんですけど、だんだん面倒くさくなってきて「別に」とか「普通」とか言うてたら、「今日は何喋ろうって思って生活せえ!」って怒られたりしながら(笑)、毎日『今日でき』をやっていました。その日の出来事を包み隠さず親に話すのが当たり前になっていたので、いじめられていた時も末期の状態で親が知るってことはなく、私と同じタイミングで知ってくれていたのは、今思うと心強かったのかも。あと、私、小学校の同級生が12人しかいなかったんです。だから、全員友達でみんな仲良くって。「ゆりちゃんはこんな子」って感じで、勉強ができる/できないとか、太ってる/太ってないとかは、あまり関係なかったんですよ。そういう、みんな違って当たり前みたいな環境も良かったなと思います。
思い込みって絶対大事。思い込みはかなうんです。ただこつがあって「こうなりたい⇒でもこれやるには、何やったらいいかな⇒どうせ無理か⇒なりたいけどなられへんか」じゃなくて、「なりたい⇒こうやったらいい⇒できる⇒できる⇒できる」って思う。無理やと思えば「無理」が実現するし、いけると思えば「いける」が実現するんです。野球の大谷翔平さん(米大リーグ・エンゼルス)が高校時代に書いた目標達成シートも参考になります。真ん中に最終目標を書いて、それを実現させるために何が必要かを周りに書いていくんです。私だったら、最終目標を「ハリウッドでアカデミー賞受賞」として、その周りには「英語力」「人間性」「お笑いがんばる」「ハリウッドに耐えうる見た目にする」と書く。さらに「人間性」のところには「あいさつする」「人にやさしくする」とか、「見た目」のところには「ダイエットする」「美容室に通う」とか書いていく。そしたら身近なことから何ができるかが分かってくるんです。ノートに5年計画も書いています。すると、思っているより早くかなうんです。書くことで、目標に向かって動けるようになるからだと思います。夢に向かってできることは絶対あります。失敗しても面白い、死ぬわけでないし。失敗なんて、どーでもいいこと。
子どものころから「吉本の芸人になりたい」というのが夢でしたが、「アメリカで仕事したい」というのも言い続けてきました。それで昨年3月、アメリカのオーディション番組に出させてもらって、夏にも1週間行って小さなステージに立たせてもらいました。そしたら英語はしゃべれないし分からないし、現地の人たちのネタもよく分からない。「そもそも、なんぼ英語がしゃべれたとしても、現地のことが分からんと、なにもならへん」と思ったんです。それで会社にお願いして、1月から行くことになりました。現地では、地元の人みたいに朝からジム行って、カフェ行ってサラダ食べて、店員さんとしゃべって。演劇のワークショップに行ったりもしました。
おじいちゃん、言葉の終わりに、ことわざを1個付けてくるんです。障子を閉め忘れていたら「開けたら閉める。三つ子の魂百まで」とか。賞状もらって「やったー」と帰ってきたら、親は「よかったなー」なのに、おじいちゃんは「勝って兜の緒を締めよ」とか。内心「うるさいな」と思っていたけど、自然と頭に残っていて、今になって「なるほどなー」と思うことがあります。ちなみに「芸は身を助ける」もよく言ってました。
大学3年の時、「就活せーへんの?」と聞かれました。全くするつもりなかったから「せーへん。吉本入る」と言ったら、「かまへんけど、何年までって決めとき。決めてあかんかった時のこと、考えとき」て言われました。あかんかった時、期限をもうけてなかったら、だらだらしてしまうし、次を考えてなかったら、挫折してしまうからと。でも挫折する気は全くなかったんで、考えませんでした。子どもの時から「芸人なりたい」と言ってたので、親からしたら「ほんまになってしもた」って感じらしいです。
怖くなかったです。テレビで「食えない」と言ってる若手芸人は、毎年500人いるNSCの卒業生のうち、吉本の若手の劇場で勝ち上がった頂点の人なんです。そんなんなんも知らずに、テレビ見て「あそこにすぐ行ける」と思ってたんで。あと地元は人数が少ないから、家族も学校の先生も「この子はこういう子やから、こういう役割がある」みたいに一人一人の“らしさ”を認めてくれていたし、自分もそれを疑わなかったというか。だから自分が「こうなりたい」と思えば、そうなれるんやって思えたのかもしれません。
アメリカでもお笑い好きな方は、やっぱりちゃんとした笑いがほしいやろと思うし、「ゆりやんは笑わせたんじゃない、笑われただけ」みたいに言う人もいるんですが、「うん、そうや」って思ってるんです(笑)。でも私はお客さんに笑ってもらえたら、そんなんどっちでもいい。自分自身がハッピーなものを提供させて貰えるなら、それでいいかなって思います。
確かにお笑い業界って男社会ですけど、“女やからこうしなさい”とかって、今まで言われたこと一度もないですし、逆に女を舐めないで! と思ったこともないです。そもそも体の作りが違うから、無理に一緒である必要はないですし。逆に男社会だからこそ女芸人って目立てるし、できることも違うから、ラッキーって思っているんです。
次、次、次…って、最初は焦ってました。同世代の女芸人さんたちがすごく注目されて、私がやりたいと思ってるようなネタめっちゃやってるし、なにこれめっちゃ面白いやん…と思って、勝手に意識して。1000人が入るなんばグランド花月の舞台に何も考えないで出て、客席からすごいブーイングされて―― ハッ! と起きる、みたいな悪夢ばっかり見て。なんでこんなにしんどいねん、ってことを先輩に相談したら「ゆりやんが頑張れば仕事は来るし、頑張れへんかったらなくなる。他人が売れてようが売れてまいが、考えんでええんちゃう?」って言われて、ホンマやと。勝ち負けより、楽しいと思うことやらしてもらう方がずっといい。人が頑張ってたら、私も頑張りたいって思えばいいんやと。
自分で自分のキャラが全然わからなかったんですよ。それも別の先輩に相談したんです。テレビに出始めた頃に、ちょっと絡みずらいボケ方をしてしまって、他の方々が「何この人…」みたいな反応してはったから、「もうちょっと違う形がいいんですかね?」って。そうしたら「やり続ければ『そういう人や』って分かってもらえるから、ゆりやんはそのままでいい」って言って下さって。そこからはどんな時でも「心ここで折れず」で、自分が思うように「これや! 今や! これが楽しい!」っていう感じでやろうと。周りに「心臓どないなっとんねん!」と言われるんですが、そういうのが自分の好きなところではあります。
テレビに出させてもらえるようになった頃、当時から私って、収録中、話を振ってもらっても意味分からんことばっか答えていたんです。そのせいでMCの方に迷惑を掛けることが多くて……。千鳥のノブさんに飲みに連れて行ってもらった時、「やっぱり、まともに答えた方がいいでしょうか?」って相談させてもらったことがあったんです。ほんなら、「今はゆりやんのことをどんな人か知らんから、変なコト言う子やなってみんなびっくりするかもしれへん。だけど、それをずっと続けてたら、ゆりやんはこういう人なんやってことが分かってもらえる日が来る。だからそのままでええねん」って言ってくださって。その言葉に勇気をもらって、“自分が”良いと思ったことを続けられるようになりました。最近は台本にも【ゆりやん:好きなように喋ってください】と書いてもらえることも多くなり、“自分を”貫いたことで受け入れてもらえるようになったので、ノブさんには本当に感謝しています。
良かったことはめちゃくちゃあります。最初の頃は「女だからと特別扱いされたくない」と思っていましたが、今は「女だと目立ってラッキー」とも思いますし。「あんまり自虐しないで」と言うファンの方もいますが、それも違うんですよね。「ずっと隠してることあるんですけど、私、実はデブなんですよ」「見たらわかるわ!」って、自分はそんなのが楽しくて。テレビとかでもモデルの方と一緒に並んだりすると、人によってはちょっと引け目を感じたりするかもしれないけど、自分はどうボケようかなって思える。女芸人だから楽しく生きられるんです。
今まで、キャラのために太ったわけじゃなくて、単純に不規則な生活をしていただけなんです。でもなかなか自分を変えられなくて、やせようと思うときは、すべて好きな人のためだったんです。でもテレビ番組でトレーナーの岡部 友さんに出会って、運動しはじめてからは、小さな結果が自信になって、もっと自分のために運動したいと思うように。昔『やせたらつきあってやるわ』と言われたこともあるんですけど、今は『そんなに価値のない女じゃないわ!こっちからお断り』って思うようになりました。今は、媚びない強い女性になって、自分の中で最高の体型を目指したい。そして、最終的にはアカデミー賞を受賞したいって本気で思っています。“叶わない夢はない”と思っているので!
帰国子女みたいな言い方をするなら、日本の生活に甘えていたと思います。日本で芸人をやらせてもらってる時は、周りに助けてくれる芸人の仲間がめっちゃいるし、“ゆりやんレトリィバァ”を知ってくれている人たちのいるホームで戦える。でも、海外に行ったらそれがゼロで、自分はただの人間なんです。今までやってきたことをゼロからまたスタートしないといけない。英語も文化ももっともっと勉強しないと話にならないって、L.A.に2ヵ月間行って、改めてお尻を叩かれました。
“自分が”あんまり面白くないと思ってやったことって、例えば誰かに、「つまんない」って言われても「せやねん……」ってなるんですよね。だけど、“自分が”面白い!と思ってやったことは、つまんないって言われても、「チッチッチ、これが面白いんですよ~」って自信を持って言えるんです。世界のどこかには、その面白さを分かってくれる人が絶対居るはず! だからそこは頑固に、“自分が”面白い感覚を大切にしたいです。その方が断然楽しいから!
これウケへんかな……と心配になったネタも、友近さんや周りの先輩たちが、「ええやん、ええやん!」って言ってくれるんです。何をやっても不正解と言われることがない環境にほんまに感謝しています。でも“自分が”面白いと思ったことをするのはもちろん大事ですけど、みんなで仕事をしている時には“自分が、自分が”って自分を押し過ぎるのは、あかんと思っています。先輩たちって、みんな絶対的に“人を”立ててはるんです。喋しゃべってない人が居たら話を振ったり、誰のことも排除しない優しい人ばかり。ずっと否定されていたら、萎縮してなにもできなくなるけど、先輩たちが「ええやん、面白い」って言ってくれるから、好きなことができるんです。私も人を否定せず、みんなと一緒に幸せにやりたいなといつも思っています。
これからは強くなって媚びない女性になりたい!
ゆりやんレトリィバァ。
本名、吉田有里(よしだゆり)。
1990年生まれ、奈良県吉野郡吉野町出身。
奈良県立高田高等学校卒業後、関西大学文学部に進学。
最初は高校卒業後すぐにNSC(吉本総合芸能学院)に入るつもりでいたが、好きになった男子に注目されたいと進学に転向。
2012年4月、大学4年生の時、大阪NSC35期生として入学。
その後、2013年2月に行われた「NSC大ライブ2013」で優勝を果たし、NSCを首席で卒業した。
また、優勝特典として、2013年4月の予定がすべて仕事で埋まっているスケジュール帳が贈られた。
かつて大手鉄道会社の職員だった父親は地元・吉野でエッチング工房『エッチング幸房ソレイユ』を経営。
子供の頃は『モーニング娘。』に憧れており本気でメンバーになりたかったが、モー娘のメンバーはみんな二重まぶたで涙袋があるのに対し自分は一重まぶたであるという決定的違いに気付き、挫折したという。
芸人になろうと思ったきっかけは、小学校2年の時に吉本新喜劇を見て、自分も山田花子や島田珠代のようになりたいと思ったことから。
また、「これなら一重まぶたでもスポットライトを浴びれる」と思ったこともきっかけだったとも言う。
父親には最初芸人になることを反対されたが、父親自身も「自分も周囲の反対を押し切って好きなことをしているので説得力に欠ける」として、最終的には許したという。
また、大好きだった映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がきっかけで、子供の頃からアメリカ進出の願望を持っていた。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主演のマイケル・J・フォックスに会いたいがために、一時は海外の高校への進学も考えたことがあった。
中学3年生の時には、この映画をテーマに英語のスピーチコンテストに出場したこともあった。
高校生の時から文化祭の舞台に立ち、ピンネタを披露していた。
芸名は、高校時代からのあだ名「ゆりやん」と、NSC入学当時に友人との間で流行っていた「ゴールデンレトリィバァ」の2つの候補で悩んでいたが、芸名を申請する際、試しに両方を合わせた「ゆりやんレトリィバァ」を言ってみたところ、いい感じだったため決定した。
2015年4月より『世界のどっかにホウチ民』の企画で、ホウチ民の一人として3か月間アメリカ・ニューヨークに滞在。
現地で下ネタスラングに精通するレベルの英会話力を披露した。
また、関西大学の映画研究会で洋画を観るなどして英語を勉強してきた経験もあり、英会話が得意である。
2017年2月24日、第47回NHK上方漫才コンテストに出場し、優勝を果たした。
同コンテストでは、女性ピン芸人初の優勝者となった。
2017年12月11日、東京・日本テレビで行われた「女芸人No.1決定戦 THE W」に出場し、決勝戦ではドラえもんをパロディに自らの実体験のネタを披露し、優勝を果たした。
2019年6月、アメリカのオーディション番組『アメリカズ・ゴット・タレント』に出演。
星条旗デザインの大きく露出した水着を着て、角刈りのカツラを被り、ヨーロッパの曲『ファイナル・カウントダウン』をBGMとしてダンスのパフォーマンスを披露した。
2020年10月、36kgの減量に成功したことを明かす。