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竹内まりやの「大切な」言葉たち~竹内まりやの名言・人生・生き方など~


竹内まりやの「大切な」言葉たち

幸せになりたい気持ちがあるなら、明日を見つけることは とても簡単。

「どういう音楽をやりたいのか」という軸をブレさせないことが一番重要なのかもしれません。

過去を悔やんでも変わらないし、未来を憂えてもしょうがない。

私が若いころは、もっと伸びやかにいろいろなことが言えたと思います。経験を積んでいない、まだ夢もかなっていない時点で、自分の提供したものや発言について、「それはダメ」という不特定多数の意見が入ってきてしまう。今音楽をやっている若い人たちは、精神的な強さを求められていると思います。だから、そんな生きづらい環境のなかで努力して活躍している人たちを見ると、本当に感動しますね。

綺麗事ではなくて、ただひたすら色々なことにありがたいと感じています。

ポジティブな意味で人生の残り時間を考えるようになりました。私には座右の銘が2つあるのですが、その1つが17歳でアメリカに留学したとき、学校のカレンダーに書いてあった『今日があなたの残りの人生の最初の日です』という言葉。当時もいいなぁと思いましたが、60歳を過ぎた今読むと言葉の重みが違う。今日が自分の余生の初日だと考えれば、何歳であってもやり直せるという前向きな言葉。そして、もう一つは『今日を人生最後の1日だと思って過ごしなさい』という言葉。対極的なようで、どちらも『今を生きよ』ということなんですよね。過去を悔やんでも変わらないし、未来を憂えてもしょうがない。昨年出したシングル『今を生きよう』にも書きましたが、『目の前の1日を精一杯生きればいい』と思っています。そして、今を幸せに生きる秘訣は“ささやかな日常を面白がれること”。だって人生はほとんどがハレの日ではなく、ケの日じゃないですか?

自分の歌う歌が会うことのない誰かに届くとか、人の心に寄り添っていったりすることが音楽では起こる。作り手の想いが届いて、その歌を歌ってもらえたり、聴いてもらえたりするのは本当にありがたいこと。

自分が意識しないところで、自分の放った言葉とかメロディが誰かの人生の役に立つって素敵なこと。

「この人はいいな」と思ったのは、結婚前、一緒に住み始めたとき。私がひどい風邪をひいて寝込んだときに、達郎が枕元で「ひとつちょっとバカバカしいお話を……」なんて、突然落語を始めたんですよ。「湯屋番」という演目。「これはいいや。この人といたら一生退屈しないな」って思ったんです(笑)。

(年齢を重ねる事について)決してネガティブなものではなく、“そういうものだ”と肯定的に受け入れ始めた、というか。“人生とは限りあるもの”という諦観を持つようになった。

自分に曲を書くときも、シンガーとしての自分を客観的に見て「これは私に似合わない」とか、プロデューサーの目線を持てるようになりました。作家的な見地で、シンガー・竹内まりやに歌わせる曲を書くんです。

私は物語に“救いがない”というのが苦手なんです。

人生って、みんな死に向かって歩いていくわけですよね。それは紛れもない事実。若いころは上昇気流に乗って、夢に向かって歩いていく。でもある時点で、「終わりはある」ということを意識します。終わりに向かって歩いていく人間が、希望や夢を持つことはなかなか難しい。それでも、「何か面白いことがまた起こるんじゃないか」と思える自分でいたい。ポジティブな気持ちを捨てたくないと思うんです。それは私の性分ですね。

街を行き交うそれぞれの人たちが、何を考え何を感じているのか、すごく興味がある。

流行とは関係なく普遍的なものを求めて作った結果、若い人から見て、案外と新鮮だったりすることはあるのかもしれません。

好きなことや気になるものを見つけていくことで、それが自然に歌詞やメロディーになる。

何かいつも素敵だなと思えることを探したり、誰かの良い部分に目を向けてみたりする。

常に面白がって生きる、些末なことでもいいから。

自分の自然のままに歩いている中で見つかるものが音楽。

自分らしい言葉やメロディはなんだろう?と探りながら作ってきたものがほとんど。

“生きること”って拒絶できないじゃないですか。生かされているわけですから、だったら日々の一瞬一瞬を味わいながら面白く生きたいと思っている。

(私は)人間、生きていればいいことばかりじゃないのだということはみんなわかっているけど、『それでもなお、夢や希望は持っていたい』と常に考えるタイプの人間。

人生に晴れの日は少ない、辛いこともたくさんある。そんな中でいかに日常を楽しむかが、私のモットー。

竹内まりやとは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

竹内まりや

島根県簸川郡大社町(現出雲市)出身。

生家は出雲大社正門前に位置する老舗旅館『竹野屋旅館』。

4女2男の6人兄弟の三女。

世界で通じるようにとの父の考えから「まりや」と名付けられる。

高等学校在学中に、AFS交換留学制度によりアメリカ・イリノイ州のロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学。

高校卒業後は慶應義塾大学文学部の英文学科へ進学。

在学中に音楽サークル「リアル・マッコイズ」に所属。

1978年、ビクターより発売された『ロフト・セッションズ』に參加。

1978年11月25日にRCA/RVCよりシングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』でデビュー。

アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスもあいまってアイドル歌手のような役割を担った。

大学では英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり留年。

のち、1979年のシングル「SEPTEMBER」で第21回日本レコード大賞新人賞を獲得、1980年のシングルで資生堂化粧品CMソングとなった「不思議なピーチパイ」などがヒットする。

当初は安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていたが、これに飽き足らず自らも作詞・作曲を手がけるようになった。

この頃にアレンジャーとして竹内の前に現れたのが、後に公私にわたるパートナーとなる山下達郎。

当初、山下は竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用されたが、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際しては、双方がコーラスに起用されるなど、その関わりは密になっていった。

1981年、過酷なスケジュールの中で喉を痛めたことや、アイドル的な活動へのオファーと自身の希望する活動とのギャップに悩み、音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言。

1982年4月に山下と結婚。

これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、河合奈保子に提供した「けんかをやめて」「Invitation」などヒットを放つ。

しかし1982年、山下の担当ディレクター小杉理宇造がRVCから独立しアルファ・ムーンを設立。

山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍。

「記念に一枚」のつもりで、1984年にシングル「もう一度」、そして全曲を竹内自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリース。
このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に竹内が書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下が驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。

最終的には30万枚以上のヒットになった。

その後は家庭生活を優先したためにライブ活動からも遠のくが、アレンジャー・プロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動を続けた。

3年間のロングセールスを記録したアルバム『REQUEST』(1987年)や、シングル曲として「AFTER YEARS/駅」(1987年)、「シングル・アゲイン」(1989年)、「告白」(1990年)、「マンハッタン・キス」(1992年)など続けてヒット、特に1994年発売の「純愛ラプソディ」は、自身現時点で最大のヒット曲となった。

さらに、1992年にはアルバム『Quiet Life』が発売と同時にミリオン・セラーとなり、1994年のベスト・アルバム『Impressions』は売り上げ300万枚を超えるヒットを記録した。

作詞・作曲家としても薬師丸ひろ子の「元気を出して」(1984年)、岡田有希子の「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして」(1984年)、中山美穂の「色・ホワイトブレンド」(1986年)、広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」(1997年)など、多くのヒット作を生んだ。

1995年11月のシングルで、ケンタッキー・フライドチキンのクリスマス・キャンペーン・ソングとして使用された「今夜はHearty Party」では、当時たまたま観ていたフジテレビ系ドラマ『あすなろ白書』に触発され、歌詞に「キムタク」のフレーズを入れたことから、ダメもとを覚悟でSMAP・木村拓哉の起用をジャニーズ事務所へ打診したところ、快諾を得てコーラスと冒頭、間奏の台詞に木村が参加している。

2007年には6年ぶりにオリジナルアルバム『Denim』を発表。『Denim』はオリコンチャート1位入りを果たし、人気を証明した。

2013年には出身地の出雲市からの依頼を受け、出雲大社の60年に一度の大遷宮のこの年に、故郷への想いを歌った「愛しきわが出雲」を書き下ろして楽曲提供。出雲の市民コーラス隊と共に、地元でレコーディングした4日には、デビュー35周年の記念企画としてアン・ルイス「リンダ」、河合奈保子「けんかをやめて」、中森明菜「駅」など他アーティストへの提供楽曲を集めた2枚組コンピレーション・アルバム『Mariya’s Songbook』を発売。自ら監修・選曲を手がけ、楽曲解説も自ら執筆。初回限定盤には自身が歌った提供楽曲のデモバージョンなどのレア音源も収録された。

2015年3月、出雲市から特別功労者として表彰を受ける。第6回岩谷時子賞を受賞。

2016年2月、嵐のニューシングル「復活LOVE」の作詞を手掛ける。作曲・編曲は山下達郎。 同年4月、テレビ東京系列経済ニュース番組「ワールドビジネスサテライト」のエンディングテーマを書き下ろす。2017年3月までの1年間放送。

2018年、デビュー40周年を迎える。それを記念して10月17日にはシングル「小さな願い/今を生きよう」をリリース、初のファンミーティングを開催した。

2019年3月、芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。

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