うちは、新潟で肉屋を営んでいたんです。母はお惣菜の担当。メンチカツやコロッケ、ポテトサラダ・・。母は、お買い物にきた主婦のみなさんの話を聞いてあげる役。世間話をしながら、ポテトサラダをはかりながら、「お客さん、おまけね!」ってほんの1ハケおまけするんです。そうすると、ちょっとのおまけなのにお客さんが笑顔でとても喜んでくれるんです。そんな、母の姿、そして歌好きな父の姿をみて育ったからですかね。
カラオケ大会に7歳や8歳の私が出て歌うと、特別賞を貰えるんです。その商品が夏だとおそうめんだったり、秋だったら洗剤だったり。あっ!唄うと何かもらえるんだ。そうすると母が喜んだりして、ただそれが嬉しくって歌っていました。
肉屋をやり出そうと言ったのは母なんですよ。父と結婚し、日本は戦争に負けた。そんな中、これからは肉を食べるようになる!これからは肉の時代だ!と母が言いだし肉屋をやることになりました。父は最初サラリーマンでしたが、お店がだんだん流行り長蛇の列になるのを見て、これはお店を手伝わなくてはいけないと思い、両親でやることになりました。父はお肉担当、母はお惣菜担当。私はお店が忙しいと、乳母車に入れたまま店先に置いておく、そうするとお客さんがあやしてくれるんです。いつも笑っている、人見しりのしない子に育ちました。
父は父で、私が歌手になるきっかけを作ったこと、売れない時代が長かったことに責任を感じていたようでした。「幸子、俺のことを恨んでないか」と何度も繰り返して言っていましたね。私、あの時デビューしてトントン拍子で売れていたら今の私ではなかったと思うから、これで良かった。今、幸せですもの。人生は何がきっかけでどうなって行くのかホントにわからないものです。
9歳といえども自分の言葉には責任を持つ、自分が出した結論を全うするのは当然のこと。ということは自分の「帰りたい、さみしい、家族に会いたい」という自分の気持ちは表に出すべきではないと、10歳の時に封印しました。それからですね、こんなかんじになったのは(笑)。
10歳でデビューして、売れない時代に、キャバレーなどでも仕事をすることが沢山ありました。そんな中、お客さんに合わせていろいろなものを勉強し唄いました。シャンソン、ブルースそしてジャズも!15歳くらいに歌い始めました。そして、今ではディナーショーなどで唄わせて頂くことがあります。どんなジャンルも、音楽は凄いんです。人間は普段、言葉を使ってコミュニケ―ションをとることが多いと思います。でも言葉だけで埋め尽くせない部分を、音楽が埋めてくれる事があるんです。
さだまさしさんに作ってもらった楽曲で、歌の力ってすごいと思った曲があるんです。さださんに作ってもらった『約束』という歌の歌詞の中で、「思いどおりには 生きられないけれど 一生懸命」 という一節があります。「思いどおりには 生きられない」これ、当たり前です。それで、それを聴いた方がガンを宣告されて、それでも一生懸命生きている人がいらっしゃいました。本当は「こんな思いして、なんで俺がガンになるんだよ……」「私がこんな目に……」となってしまうけど、人はみんな思い通りには生きられないってことを歌にした、そこのフレーズだけがパーンって残ってるんです。そしてそれで頑張れたって言う人がたくさんいたんです。そのとき、歌の力ってすごいなとおもいました。
私はいつも演歌も含めて、色々な歌を歌いたいと思っています。物心がついた時から、本当に色々な音楽を聴いていましたし、ナイトクラブでジャズを歌っていたりもしていました。そうやって自然に色々な引き出しが出来ていきました。だからどんな要望にも応えられると思うし、新しい自分を引き出してくれるどんなジャンルの曲も歌いたいですね。
お客さんも全然違うから最初は戸惑いましたけど、一方でそれを面白がっている小林幸子が自分の中にいたっていうのが良かったですね。「何でそこまでするんだ」っていう人もたくさんいましたけど、今は一緒になって楽しんでくれています。そういう、何だか分からないけど面白いっていうのが大事な気がします。
みんながそういう風に面白がってくれるから、私も面白がることが出来るんです。ただ、面白いからって言って、チャラけてるわけでもなくて、本気でやらないと皆さん見抜きますからね。でも見抜かれるから本気でやってるんじゃなくて、結果的に本気でやってると、みんながその本気についてきてくれるのかなと思います。
そのままやっている方が楽なのかもしれませんが、変わっていく事も大事だと思うんです。演歌という世界の中では、ネットの世界に飛び出していったのは私が最初かもしれませんが、なんでも一番最初にやるという事は、本当に大変で疲れます。でもやりがいがあります。ダメだったとしても大変さは同じだと思います。50年間歌っていて思うのは、自分が“怖い”と思うもの=やっていない事にあえて挑戦しなければ、面白くないと思いました。
皆さん“勇気”とおっしゃいますが、思い込みが過ぎると、新しい知識が入らないし、入れようという気持ちにもならないと思います。その思い込みをなくした事で、今は面白いですね。
私は、売れていない時期がすごくあったんですね。それこそいろんなことがあった。そこには戻りたくない。これはありますね。だから、よく「マイペースでいい」とか、「今のまんまでいい」とか、あれは間違いだと思ってます。今のまんまなんかありえない。「今のまんま、このまんま、自分らしく生きる」とかよく言われることですけど、一歩先へ出ていないと、みんなが先へ一歩出るから、一歩先に出ようと思ったときには、やっぱりまたスタートラインになる。二つ出ないと、出てないんですよ。
私、生きてきた年数、要は年齢はもちろん把握してますけど、それと自分の人生の歴史がイコールだっていう認識をしていないんですよ。やってきた職種は歌手だけ。10歳のときから50年間歌だけを歌っていたので。
辞める勇気はとっても必要なことだと思います。でも、辞めるにも、やらないと辞められないですから。とりあえずやってみるということをやった。それだけなんです。
私の好きな言葉に、”思い込みを捨て、思いつきを拾え!”という言葉があります。どうか皆さんも、自分で”何歳だから””女性だから””長年経験してきたから”などの思い込みや垣根を作らず、なんでもチャレンジしてほしいですね。それでダメなら、やめればいいんです。私自身は、今年で芸能生活55周年を迎えました。ですが、まだまだ新しい刺激がほしいです。そのために、いろんな人々に出会い、挑戦していきたいですね。
とにかく、お客さんに楽しんでいただくにはどうしよう?といつも考えています。そして、お客さんに楽しんでいただくには、自分も楽しんで面白がること。私の周りにいるスタッフも常に楽しんで面白がって、アイデアを出してくれます。自分たちが面白がっているので、エネルギーも出てくるんでしょうかね(笑)
アンテナを研ぎ澄ませるには、いろんな人と関わること。関わり方が得意ではなかったら、ただウォッチングしているだけでもいいと思います。アンテナを磨くことで、自分を大事にしてくれる人にも気づけます。その人を信じて大切にしてください。そうすると、例えば、今仕事や学校がつらくても、徐々に自分がいる環境がおもしろくなっていきます…。あり方や生き方に正解はないから、自分がやりたいなと思ったことをぜひ躊躇せずに楽しんでください。
私も歌の世界で生きてきて、大人からひどいことを言われたことはありました。でもそういう大人に出会ったら、「こんな大人にはならないぞ!」って反面教師にして、悔しさをバネに自分の財産に変えるんです。それに、どれだけ意地悪な大人だとしても、やっぱり飯粒を自分より1つでも多く食べている大人は、いろんなことを経験しています。「大人は嫌いだ」「大人は駄目だ」と思う前に、この人もきっと何か辛いことがあったのかもしれないとか、その人なりの考えがあったんだろうな…って思って欲しいです。
私ね、学校に通っていないんです。10歳から歌っているので。それでわからない言葉が演歌の歌詞に出てくるんですよ。でも歌いたいから、自分で勉強するわけです。そうやって展開していく勉強の仕方もあると思うんですね。自分から興味を持っていくということ。だから、自分のやりたいこと、その仕事は自分に合っているのかってことも、人に聞くものじゃないですね。どうしたらいいか悩んでいる人は徹底的に悩んでほしい。人に聞くとその知識だけがきてしまうので。自分で考えて、自分で体験しないと後で他人のせいにしちゃいますよ。若いんだからダメだったら違う道にぽんと変えるくらいでいい。若さって若い事が素敵なのではなく、柔軟性なんです。あっちこっち傷ついても、今度はうまくしようと自ずと変われるはずです。
古賀先生がとても素晴らしい言葉を残してくれました。「チビね、歌はご飯じゃないから、歌でお腹いっぱいにはならないけど、人の心を温かくすることはできるんだよ。どんなに食べても、お金がたくさんあっても、心は温まらない、でも、歌は心を温かくすることができるよ。」って。私の心に残っている一番の名言です。
ジャンルとしては演歌です。それで育って、生きて来たわけで、育ててもらったということだと思います。
思い込みを捨てろって言うけど、それも、「思い込んでることは捨てることができないこと」これも事実だし、これはこれでいいんです。でも常にこっち側を考えていきましょうね、ということであって。「捨てろよ」って言ってるわけじゃない。捨てられない。
小林幸子。
新潟県新潟市出身。
1963年、9歳の小学4年生の時にTBS『歌まね読本』でグランドチャンピオンとなり、審査委員長の古賀政男にスカウトされる。
翌1964年には新潟市内で肉屋を営んでいた家族とともに上京して古賀事務所に所属し、古賀作曲の『ウソツキ鴎』でデビュー。
デビュー曲がいきなり20万枚のヒット曲となる。
1966年7月30日から1968年1月27日まで日本テレビ『九ちゃん!』に『チビッコトリオ』としてレギュラー出演。
1968年にはNET(現:テレビ朝日)で放映された青春ドラマ『青い太陽』に主演、背泳ぎでオリンピック出場を目指す女学生を演じ、同作の主題歌(エンディング曲)と挿入歌も歌う。
低迷期には15年間に渡って一人で全国各地を行脚し、地方興行の中で人に言えぬ苦労を経験した。
昼間は各地の興行を行いながら地元のレコード店やラジオ局、有線放送局などへ一人でキャンペーン廻りをして、夜になると毎晩深夜遅くまで飲み屋やキャバレーなどの繁華街を泥酔客に絡まれたりしながら歌い廻っていた。
1979年に『おもいで酒』が有線放送から徐々に火がついてついに200万枚の大ヒットをする。
この年の暮れ『第30回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たす。
『全日本有線放送大賞』グランプリ、『第21回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞に輝く。
1980年にはシングル『とまり木』も大ヒットした。
その後も『ふたりはひとり』、『もしかしてPartII』、『雪椿』などの大ヒット作に恵まれ、紅白への連続出場も果たし、1991年 – 2009年まで紅白での美川憲一との派手な衣装対決は紅白恒例の話題作りとなっていた。
1983年5月にはロサンゼルス、ブラジルなどで初めての海外公演を行い、新宿コマ劇場で初の単独座長公演を行った。
1987年には、第一プロダクションから違約金2億円で独立、個人事務所の幸子プロモーションを設立。
1988年、紅白に10回連続出場。自身初となる紅組トリを務める。
1993年、歌手生活30周年を迎えNHKホールにて記念リサイタルを行う。同年12月、紅白に15回連続出場を果たす。
1996年、ワーナーミュージック・ジャパンが演歌部門を撤退したのに伴い、古巣の日本コロムビアに移籍。
1997年、第9回日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞。
1998年『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のエンディングテーマソング『風といっしょに』を担当。
そして、同年の『第49回NHK紅白歌合戦』では『風といっしょに』を熱唱。紅白に20年連続出場を果たす。
2000年、日本レコード大賞 美空ひばりメモリアル選奨受賞。
2001年、博多座で女性歌手初の座長公演を行う。『夢の涯て?子午線の夢』で、日本レコード大賞編曲賞受賞。
2003年、藤田まさと賞大賞受賞。紅白に25回連続出場を果たす。
2004年、第55回NHK紅白歌合戦で自身2度目の紅組トリ、初の大トリを務める。
2005年、新潟市、長岡市より特別感謝状を授与。日本レコード大賞特別表彰。
2006年、第27回松尾芸能賞大賞受賞。国土交通大臣より感謝状を授与。紺綬褒章を受章。名古屋・御園座にて初座長公演。
2007年、長岡市に『越後絶唱』の歌碑が建立。新潟市より、「新潟市観光大使」に任命。
2008年、芸能生活45周年を迎え、全国3劇場で座長公演を行う(御園座、博多座、明治座初座長)。文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞。『第59回紅白歌合戦』で45周年記念曲『楼蘭』を熱唱、紅白に30回連続出場を果たす。
2010年、台北市の台北国際会議中心でコンサートを行い、1993年と2006年のNHK紅白歌合戦で披露された衣装を台湾の観客に披露。その後台湾政府交通部観光局から「台湾観光親善大使」に任命。
2011年11月15日、再生医療などを手掛ける株式会社TESホールディングス代表取締役社長の林明男と電撃結婚。
2011年東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手・陸前高田市と宮城・気仙沼市を慰問して2004年に中越地震で被災した故郷、新潟・長岡市 山古志地区に所有する田んぼ「幸子田」で10月に収穫した新米「幸子の復興米」2トンを所有する大型トラックに積んで贈呈。
2012年5月、日本財団主催の「被災地で活動した芸能人ベストサポートで表彰。
2014年8月、個人サークル「5884組」として第86回コミックマーケットに参加。小林自らブースに立ってミニアルバムCD「さちさちにしてあげる♪」を頒布し、約2時間40分で用意していた限定1500枚のCDが完売。iTunesアルバム総合ランキングでも10位にランクイン。
2014年11月50周年記念コンサートのツアーファイナルとしてデビュー以来初めての日本武道館コンサート『50周年記念小林幸子in武道館?夢の世界?』を開催。過去に紅白歌合戦で使った豪華衣装3点を持ち込み、1993年の「ペガサス」、2006年の「火の鳥」、2010年の「母鶴」を再披露。イルカがデザイン&プロデュースした振り袖を含む合計13パターンの衣装を用意して度々衣装チェンジを行いながら新曲「越後に眠る」など全27曲を歌った。当日の公演の模様はニコニコ動画により生放送された。
2015年10月、中川翔子のコンサートツアー東京公演にサプライズで登場して、中川とコラボユニットを組んで「しょこたん▼さっちゃん」として発売。
2019年9月失明の危機で右目の網膜剥離の緊急手術を受た。