苦労を乗り越えて、強くなり、優しくなっていく。~魔裟斗(キックボクシング・K-1)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■魔裟斗(キックボクシング・K-1)名言集

どんなに練習しても強くなれない選手はいます。でも、この世界は才能だけじゃ勝てない。死ぬほど練習しなきゃ。

幸運を引き寄せる方法があるとしたら、それは笑顔でしょう。いつも笑顔を絶やさない人の周りには、自然と人が集まってくるじゃないですか。

反逆のカリスマとよく言われるんですが、実際は昔から俺は人の話をよく聞く素直な子でした。話を聞いてとりあえずやってみて、それからこれは自分に合うかどうか判断する。これができる選手は強くなります。

強くなりたければ、自分の一番嫌いな練習や苦手な練習をやった方がいい。好きなことや楽なことばかりやっていたら、強くなれるわけがありません。

自分本位な視点がなくなり、多くの気付きを得ましたね。一般のビジネスパーソンのみなさんも、私のことを 「魔裟斗って、すごいよな、強いよな」 と思ってくれているかもしれないけど、私は私で、「ビジネスやっている人ってすごいよな」 「会社に勤めて、組織の中で仕事をしている人ってすごい」 と思えるようになりました。そうした、周囲を認める優しさと言いますか、世の中への見方が変わってきたことは、しかるべき変化だと受け止めてもいます。ストイックな現役時代を生き抜いてきて、確かにあの頃、ファイターとしては誰にも負ける気がしないほど強かった。でも、人間としては、明らかに今のほうが強いと感じているんです。

最近気付いたんですよ。人間の最大の喜び。人に必要とされること。

格闘家は、必ずお客様を意識しながら闘う義務があると私は考えています。自分のプライドだけをかけた戦いであれば、それこそ二人きりで巌流島でやっていればいい。でも私はそういう 「勝負」 をしたいのではなく、仕事として 「ファイター」 をやっているわけですから、お客様の求めるものを提供しなくてはいけないでしょう?ストイックな練習もやってきましたが、すべてはその意識が根底にありました。

「弱い犬ほどよく吠える」 という諺がありますが、それはまさにその通りです。20代前半の若いときは、とにかく虚勢ばかり張っていた。リングの上で睨みつけたり威圧したり、エラそうな態度をぶつけてみたり。でも本当に強い人は、普段通りの表情をしている。それでオーラが十分出るんです。

毎日、練習が終わったらハードワークの影響で嘔吐するんです。でも 「ここで逃げたら、俺はすべてのことから逃げてしまう」 と思って、絶対にキツいことから目をそむけなかったんです。今から思えば、苦しいことを多くクリアしてきたことで、図太い精神が養えていったと思いますね。

うちの嫁さんの名言。嫁すら幸せに出来ない男は、誰も幸せにできない。

肉体と精神はつながっていますから、精神が疲れていると身体に異変をきたしますし、その逆もしかり。当時は、肉体が疲れすぎて、精神がかなり疲弊した状態でした。若い頃は精神が弱いものですので、余計に疲弊しがちだったんですよね。私はストレスを発散するような趣味や手段をもっていなかったので、とにかくもう耐えるしかなくて。自分がどうにかなってしまうんじゃないかと自覚するくらい、精神のバランスがおかしかったと思います、当時は。でも、試合の1週間前になると練習量を一気に落として調整に入りますから、一気に身体が楽になる。そうなるとマイナス思考のルーティンから抜け出してプラス思考になり、「俺が負けるはずがない」 と自信もみなぎってくる。

本当にやっととることができました。人生半分15年間ずっと格闘技続けてきて本当に一つのことを頑張ると本当にいいことがあるんだなと本当に思います。みんなも辛いこととか苦しいこととか沢山あると思うけど途中であきらめずに最後までやり通すと絶対結果はどうあれ充実した嬉しい気持ちになるし、継続は力なりじゃないけど続けることがこのベルトに繋がったと思います。ありがとうございました。

15年間やってきて、1つのことを頑張るといいことがあるって思ったね。皆も色々とあるだろうけど、途中で投げずに続ければ、結果はどうであれ、充実できると思う。はっきり言って俺は99%の努力と1%の才能でここまで来たけど、“継続は力なり”じゃないけど、ずっと続けたことが、このチャンピオンベルトにつながったと思います。

夢を持って渡っている時点で、それはもう「夢」じゃなくて「目標」に変わっていると思うんですね。もう“始まっている”わけで、後はその自分の意思を貫いて、いかに努力して実現するかということだけだと思うんですよ。俺は「夢」は叶わないって思っているんです。「目標」にした時に初めて叶う確率が高くなるんだろうなって思うんですよ。

診察が終わって戻ってきた心に「どうだった?」と尋ねると、答えがありませんでした。しばらくすると、半分泣きながら、「心臓、止まってた……」と言いました。「どういうこと?」「何それ?」僕は事情が分からずまた尋ねましたが、無言の時間が流れていきました。僕は心を神宮外苑のいちょう並木が見えるカフェにそのまま連れていき、ただ2人で静かに過ごしました。もう、声のかけようがなかった。「大丈夫だよ」なんて、軽々しく言えない。だって、大丈夫じゃないんだから。結局、時間が解決するほかなくて、僕はそばにいてあげることしかできない。そのとき、僕は「子どもはもういいんじゃないか」と思いました。心がこんなに傷ついているなら、かわいそうだと思ったんです。子どもがいなくたって、僕と心の2人で生きていけばいい。子どもはもう諦めよう。しばらくたってから、心にそういう話をしました。ところが、心は意外なことを言ったんです。「私は、あなたの遺伝子を残したい。だから、子どもを諦めることはできない。授かるためだったら、どんな治療でもする」と。僕の本名は小林というのですが、心はその小林家の歴史のことまで話し始めて、「おじいさんやお父さん、お母さんから引き継がれてきた遺伝子を、自分も残したい」と言いました。今まで不妊治療をしてきた間、心からそんなことを聞いたことがなかったから、ビックリしました。僕は、一度もそんな風に考えたことはなかったし、心がそんな気持ちで治療をしていたなんて、思いもよらないことでした。それからです。僕が「自分も本格的に協力しよう」「ちゃんとサポートしよう」と思うようになったのは。心の覚悟を知って、僕も本気で取り組まなければと思いました。

「こうしたい」という程度の思いの強さでは駄目です。本気で「こうする」と思うから、じゃあ、そのために何をやらなければならないかということがわかってくるのです。

優しさというのは心が強くないと周囲に現れません。父がかなり精神力が強い人だったことに、若い頃はちっとも気付けませんでしたが、今になってよくわかる。強い人は、人に優しくなれるんだと。

難関から逃げずに挑んでいく。そのうち、自分にも人にも優しくなれる。優しさとは、強さの裏返しなのだと、今、私は信じていますね。

俺はカッコツケマンだから、最後までカッコつけて辞めたい。

魔裟斗を演じてる魔裟斗は大好きなんですよ。演じてない時の俺は嫌いですね。

一番辛い道を進むのが一番成功の近道。

人生って思ったことしか現実にならないんですよ。

苦労を乗り越えて、強くなり、優しくなっていく。

■魔裟斗(キックボクシング・K-1)とは?

魔裟斗。

本名・旧リングネーム:小林雅人。

1979年、千葉県柏市にて4700グラムで誕生した。

小学校2年生の時に両親の都合で千葉県柏市から沖縄県へ引っ越す。

小学校6年生の時に再び両親の都合により埼玉県朝霞市に転居。

小学6年次・中学校・高校時代を朝霞市で過ごす。

埼玉栄高校に進学するも中退。

高校中退後は10種類余りの職を転々とした。

1994年、15歳でボクシングの名門ヨネクラボクシングジムに入門。

しかしプロテストをドタキャンし、そのままジムを去る。

その後、キックボクシングに転向、17歳で藤ジムに入門した。

1997年3月23日、全日本キックボクシング連盟でのプロデビュー戦で竹原太と対戦し、1RKO勝ち。

1997年5月30日、小比類巻貴之と対戦し、膝蹴りの連打により3RKO負け。

初黒星を喫した。

その後しばらくは、総合格闘技団体・パンクラスの東京道場や新日本キックボクシング協会の伊原道場を間借りして練習を行う。

2000年7月26日、初の自主興行『Wolf Revolution』を開催し、メインイベントでクレイトン・コリヤーに1RKO勝ち。

2000年11月1日、K-1 WORLD MAXの前身に当たる興行『K-1 J・MAX』で、ムラッド・サリ(フランス)とISKAオリエンタル世界ウェルター級タイトルマッチを行い、2Rに左フックでKO勝ち。

王座奪取成功。

2000年12月5日、タイで行われた『タイ国王生誕記念大会』でスリヤー・ソー・プルンチットと対戦し、判定負け。

小比類巻貴之戦以来、3年6か月ぶりの敗戦となった。

2001年1月12日、Wolf Revolution 〜Second Wave〜にて1年前に対戦予定だったモハメッド・オワリを一方的に打ちのめして3RTKO勝ち。

2001年3月30日、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟主催『ODYSSEY-1』で伊藤隆の引退試合(エキシビションマッチ)の相手を務めた。

2002年2月11日、K-1 WORLD MAX 日本代表決定トーナメントに出場。

1回戦、準決勝共にKO勝ちで決勝に進出し、小比類巻貴之と対戦。

的確にパンチをヒットさせ判定勝ち。

2002年5月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界一決定戦の準決勝でアルバート・クラウス(オランダ)と対戦。

2Rにクラウスの右ストレートでダウンを奪われ判定負け。

試合後の控室に向かう途中、号泣した。

2002年10月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界王者対抗戦でアルバート・クラウスと対戦。雪辱を誓ったものの、互いに決め手を欠き引き分け。

2003年3月1日、K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメントに出場。3試合とも判定勝ちながら危なげない試合運びでトーナメント2連覇。

2003年7月5日、K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメントの1回戦でマイク・ザンビディス(ギリシャ)と対戦。

1R、わずかな隙を見せたザンビディスに跳び膝蹴りを見舞いダウンを奪うも、その後ザンビディスの反撃によりポイントを奪い返され、2-1の判定で辛勝。

決勝戦で前年度王者アルバート・クラウスを2R、左フックでKOし、優勝を果たした。

2003年12月15日、『WOLF REVOLUTION meets LUZ』で宇野薫とエキシビションマッチを行った。

1Rはキックボクシングルールであったが、2Rは総合格闘技ルールとなり、オープンフィンガーグローブでの戦いを披露した。

2004年7月7日、K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメントでジャダンバ・ナラントンガラグ(モンゴル)、アルバート・クラウスをそれぞれ判定で下し、決勝戦でブアカーオ・ポー.プラムック(タイ)と対戦。

延長Rで判定負け、準優勝となった。

2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で山本”KID”徳郁とK-1ルールで対戦。

1R、山本にダウンを奪われた直後、ローキックが山本の金的を直撃し試合が中断する。

山本自身「手足が震えた」というほどの致命的なダメージであった。

そして5分の休憩の後、精彩を欠いた山本から2Rにダウンを奪い返し、判定勝ちを収めた。

2005年7月20日、K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝でマイク・ザンビディスと対戦。

ダウンを奪い判定勝ちしたが、自身の蹴りで左足腓骨を骨折し準決勝を棄権。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で復帰。

元プロボクサー大東旭と対戦し、2RTKO勝ち。

2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝で小比類巻貴之と通算3度目の対戦。

3Rにボディブローを効かせ、直後の左ストレートでダウンを奪い判定勝ち。

準決勝でアンディ・サワー(オランダ)に3R終了間際にダウンを喫し判定で敗れ3位に終わる。

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!において対戦予定だった元WBA世界スーパーフェザー級王者・チェ・ヨンス(韓国)が練習中に負傷したことにより、試合10日前に対戦相手がボクシング元日本ミドル級王者・鈴木悟に変更。

結果は2RKO勝ち。

2007年2月、女優・タレントの矢沢心と6年間の交際、5年間の同棲を経て入籍。

2007年10月3日、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦では、自ら指名した前年度王者ブアカーオ・ポー.プラムックと準々決勝で対戦。

1Rに右ストレートでダウンを奪い、判定勝ち。

準決勝ではアルトゥール・キシェンコ(ウクライナ)に2Rにカウンターの左フックでKO勝ち。

決勝ではアンディ・サワーと対戦したが、2試合を戦ったダメージの蓄積に加え、サワーの猛攻で足が限界に達し、2R終了時に立ち上がることが出来ず、セコンドがタオルを投入しTKO負け。

準優勝に終わった。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で前年に対戦予定であったチェ・ヨンスと改めて対戦。

3年続けて元プロボクサーとの対戦となった。

1Rにダッキングに合わせたハイキックでダウンを奪うと、その後もパンチやローキックで攻め立てて3Rタオル投入によるTKO勝ち。

2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、かねてから魔裟斗との対戦を熱望していた佐藤嘉洋と対戦。

判定勝ち。

続くアルトゥール・キシェンコとの決勝戦でも同様の判定が起こり、延長Rに判定勝ち。

2度目のK-1 WORLD MAX世界王者となった。

2009年3月22日、東京マラソン2009に出場し、3時間51分41秒で完走した。

2009年4月1日、記者会見を開き、2009年末を以って引退する旨を表明。

2009年4月21日、引退発表後の「初戦」として出場したK-1 WORLD MAX 2009 FINAL16で、かねてから魔裟斗が目を掛けていたHIROYAとエキシビションマッチを行った。

2009年7月13日、K-1 WORLD MAXでのラストマッチとなったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8にて、ファン投票で推薦された総合格闘家・川尻達也と対戦。試合決定直後から、川尻の打撃トレーナーも加わり激しい舌戦を繰り広げた。

1Rに右ストレートでダウンを奪い、2Rにパンチのラッシュで追い込んだところで川尻陣営からタオルが投入されTKO勝ちを収めた。

2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALにてジョルジオ・ペトロシアンが圧倒的な強さで優勝。

2009年12月31日、さいたまスーパーアリーナにて行われたDynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜でアンディ・サワーとK-1特別ルールで自身の引退試合を行った。

4Rにカウンターの右フックでダウンを奪うもサワーも盛り返し、最終5Rまでもつれ込んだが3-0の判定勝ちを収め、現役を引退した。

2015年12月31日、東日本大震災チャリティーイベント『NIPPONFIGHT』にて現役復帰試合を行った。

相手は2004年の大晦日にK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦した山本”KID”徳郁で、結果は判定勝ち。

2016年12月31日、『NIPPONFIGHT』にて一年振りに登場。

元PRIDEライト級王者五味隆典とK-1特別ルールで対戦。

5R終了まで行われ、ドローとなった。

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