「TRABALHO(献身)」「LEALDADE(誠実)」「RESPEITO(尊重)」~ジーコ(サッカー)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■ジーコ(サッカー)名言集

サッカーはすでに日本文化の一部だ。

わたしはサッカーが好きで、そのサッカーを続けていくために、人より努力と犠牲を惜しまなかっただけだ。

1991年に私がここに来たということは、ただ単に契約して、プレーして、得点を取りました。よかったねというただの選手ではなくて、鹿島というクラブのスタートに対して、それを一緒に作っていくために呼ばれたので。もちろん実際にグラウンドで見せるという部分では、プレーすることも重要でした。一緒にプレーしつつ伝えていって、私が離れたあとも、選手たち、クラブがそれを続けていってくれて、今もこういったいい状況ができていると思います。

ロから立ち上げたクラブが初のプロリーグで最初のステージチャンピオンになった。私はJリーグに、鹿島に、ゲストとして招かれ、お膳立てされた中でプレーをしたのではない。最も苦しい時代を仲間と、地域の皆さんと一緒に戦って勝利を手にしたんだ。それが、私の生涯変わらぬ誇りだ。

自分で道具を手入れし、ロッカーを片づけたこともある。ピッチで練習の準備をし、紅白戦のラインズマンをしながらオフサイドを教えたこともある。暗中模索で一日が終わると、本当にプロで成功するという目標に近づいているんだろうかと不安になることもあったが、私を支えたのは選手、スタッフの類まれな向上心と勤勉さ、そして地元の皆さんの温かさだった。駅のベンチに座っていると、サインや写真を求められるより、「頑張ってください」、「鹿島をよろしくお願いします」と頭を下げられたものだった。選手だけでも会社だけでもない。町中が協力して何か新しいものを生み出そうとするあの雰囲気が、自分をずっと支えていたんだ。本当に楽しかった。

運じゃなかったんだ。試合終了まで諦めずにシュートを打ったから点が入ったんだ。きちんと準備をし、最後まで集中していれば勝てるんだ。ピッチの中の選手に運なんか関係ない。運を持っている選手がいるならば、宝くじを買ってくれ。

神は自分の夢に向かって努力する人間を決して見捨てない。

サッカーとは、90分を使って勝敗を決するゲーム。途中でどちらがリードしているかを争うものではない。90分という時間を頭に入れて戦え。

すべては基礎がしっかりしていなければ何も生まれない。日本人はゴール前でとにかく急いでしまう。とにかくどんなに時間がかかろうと、地味でも目の前の今やるべきことを近道を求めずコツコツと一生懸命やり続ける。それが一番重要なことだ。

シュートはゴールへのパスだ。

夜中に選手の部屋を見回るような管理はしない。みんな大人だ。なのに、ルールを破るのは、わたしへの裏切りだ。

サッカーの試合で良いパフォーマンスを発揮するために良い食事をしよう、良い休息をとろう。今、夜遊びに出かけていいのか?それは試合前にすることじゃない。試合が終わったら仲間で少しお酒でも飲みながらサッカー談義でもしよう。今は、試合に向けてきちんとマッサージを受けてベッドで休もう。

リーダーの役割は、メンバー一人ひとりの優れているところを引き出すことに尽きるといっても過言ではない。

いいかみんな。練習の後で疲れているのはよくわかる。でも、雨などで身体が冷える恐れがない限り、今日から20分程度でいいので必ずファンと接するように。俺たちがサッカーで食べて生活していけるのはファンのおかげだからだ。

レベルの高い本物に接すること――これはサッカーに限らず、あらゆることについて言えることだ。

あれもこれもをやっていては、限られた人生の時間では少な過ぎます。ひとつのことでさえ、極みはなく、どこまでも高く、深く、夢を追い求めることができます。そして、その高さや深さで、接する世界が違ってきます。どんな一点でも、そこを高め、深めていくことです。

カシマサッカーミュージアムの入り口にも書いたように、「TRABALHO(献身)」「LEALDADE(誠実)」「RESPEITO(尊重)」といわれるようなものが、一番大事なのではないでしょうか。鹿島の強さの秘訣だと思います。あとはそういった哲学を持ち続けること。

間違った指示にもおとなしく従う、「お人形さん」集団では、組織はぜったいに強くならない。

人の作る組織にとって、言われたことしか実行しない部下は、役に立たないどころが組織の命取りになる。こういうタイプの人間が増えれば増えるほど、その組織は発展していく力を失っていく、何かをはじめようとするとき、最も大切なのは、チャレンジする気持ちだと私は考える。特に、これから組織を作り上げ、部下を育てていかなければならないリーダーには、なくてはならない素質だ。大きな目標に向かっていこうとしないリーダーに、誰がついていこうと思うだろうかレベルの高い本物に接すること、これはサッカーに限らずあらゆることについて言えることだ。

私はサッカーで名声を得ることができました。でも今なお、スパイクをサッカーの心と思い、感謝の気持ちで磨くことに変わりはありません。そして、初めてスパイクを貰ったときの、あの感動を忘れることは出来ません。

最初のスパイクを手にしたのは、13才のときでした。自分のスパイクを持つなんていうのは夢でした。だから、スパイクを貰ったときは、本当に嬉しかった。真新しいスパイクを履いてみると、自分に不可能なプレーはないように思われました。私にとってスパイクは、魔法の靴だったのです。しかし、私がサッカーの指導をするために辿り着いた異国ニッポンのロッカールームには、泥の付いたままのスパイクが、無造作に転がっているではありませんか。私は非常に悲しくなりました。そして、同時に怒りが込み上げてきたのです。

何かを始めようとするとき、もっとも大切なのはチャレンジする気持ちだ。特に、これから組織を作り上げ、部下を育てていかなければならないリーダーには、なくてはならない資質だ。大きな目標に向かっていこうとしないリーダーに誰がついていこうと思うだろうか。

冒険には、失敗がつきものである。しかし、失敗を恐れるあまり、冒険できないとすれば、その組織は衰退の一途をたどることになろう。

気にすることはない。私はワールドカップでPKを外したことがある。

実現したい夢を、どこまでも諦めずに追い続けること。一途に一心に、チャレンジし続けること。そこにしか、夢や理想の実現はないでしょう。

おれは髪の毛一本でも可能性がある限り、あきらめない。

■ジーコ(サッカー)とは?

ジーコ。

本名:アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。

1953年生まれ、ブラジル出身。

ポルトガルからの移民でパン職人(後に洋服仕立て屋)で生計を立てていた父、ジョゼ・アントゥネス・コインブラとイタリア系の母マチウデの5男1女の末子として出生。

遅く生まれた子供のため、父親は彼を「最後の一滴」と呼んだという。

母親の意向で息子アルトゥールをミュージシャンにさせるべく幼少時からピアノを習わせるものの彼の兄弟アンツネスとエドゥアルト(エドゥ)の影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる。

家業の仕立屋も多忙で父ジョゼの遅い息子だった事もあり実兄のゼッカとエドゥが両親の代わりにジーコの面倒を見る。

あまり手のかからない子で上の兄らは父親に叱られてよく殴られていたがアルトゥール少年は学業も習い事もそつ無くこなし、家庭内でも整理整頓、小遣いも管理するという几帳面な子供だった。

エドゥがプロサッカー選手として成功。

13歳時には既に後のプレースタイルが確立していたとエドゥが回想しており、14歳時にはゼッカもエドゥも目を見張る程のセンスを持った少年へと成長した。

1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロのフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。

加入当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、思春期が終わり骨の成長が遅くなるのを待ってジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。

その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功。

兄二人の教えもありトレーニングメニューを次々と消化し、競り合いに負けない強靱な体格を手に入れた。

その後、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。

フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981やトヨタカップ、4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。

コパ・リベルタドーレス1981では得点を量産し、決勝のブレロア戦、1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献、2ndレグを0-1と落としたが、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め、優勝に大きく寄与した。

同年トヨタカップではリヴァプールを3-0と破り優勝、ヌネスの2ゴールをアシストし大会MVPに選ばれた。

FIFAワールドカップには1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。

1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍、この移籍はフリウーリ地区のみならず、イタリア国内でも大騒動となり、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調査が行われた。

8月21日のコッパ・イタリア、グループリーグのボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日、セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げ鮮烈なイタリアデビューを飾った。

更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め、その後、更に2試合連続ゴールとセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決めた。

ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった。

これらの活躍によってサポーターの人気を集めた。

1984-85シーズンは怪我での離脱、長期の出場停止があったが、3月31日のインテルで約半年振りのゴールを決めると、次節のユベントス戦でもゴールを決めた。

しかし、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなった。

また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。

2017年にチームを訪問すると、ファンから大きな歓迎を受けた。

1986年、FIFAワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。

最後のワールドカップはグループリーグ最終戦の北アイルランド戦、ラウンド16のポーランド戦でいずれも途中出場、準々決勝のフランス戦では交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。

1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。

フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。

翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。

ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。

ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は「当初、紹介した古河電気工業サッカー部(現、ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と語っている。

引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日。

鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。

その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。

1992年10月11日のJリーグカップ、サンフレッチェ広島戦ではハットトリックを決めた。

1993年のJリーグが開幕前にして、サントスの他にもう一人外国人の戦力補強が必要だと考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。

イタリア遠征を行うが、セリエAのチームに次々敗北、クロアチア戦では1-8と大敗、帰国後、鹿島スタジアムのこけら落としとなった、フルミネンセFCとの親善試合で、ジーコは鹿島スタジアム第1号となるゴールを決め、勝利した。

迎えた開幕初戦、名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した。

2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場したものの、アントラーズは1stステージ制覇。

セカンドステージでは13試合6ゴールの成績を残し、天皇杯の2回戦、東北電力戦ではヒールボレーでその後も称賛され続けるゴールを挙げた。

しかしチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでは退場処分となった。

1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日サンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日ガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め、最後の3試合となった6月8日浦和レッズ戦、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴール、現役最後の公式戦となった6月15日ジュビロ磐田戦(決勝ゴール)と3試合連続ゴールを決めた。

7月23日のJリーグオールスターサッカーに先発フル出場したのを最後に、ブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。

また、プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップでは1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。

1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。

以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。

1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、FIFAワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。

2002 FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日に日本代表監督に就任。

ジーコはAFCアジアカップ2004に優勝。

FIFAコンフェデレーションズカップ2005では初戦のメキシコには敗れたもののギリシャに勝利し、ブラジルとは2 – 2で引き分けた。

日本代表監督での国際Aマッチ指揮試合(71試合)と勝利数(38勝)はいずれも歴代1位の記録であり、日本サッカー史において4年間通じて指揮を執りプレーオフも無くW杯地区予選突破を果たした最初の監督になった。

2002年中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人を初めて同時に起用し(黄金のカルテット)話題を呼んだ。

2004年7月、中国で行われたAFCアジアカップ2004で優勝。大会2連覇を達成した。

10月、W杯大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で勝利、1次予選の突破を全試合勝利で決める。

2005年W杯ドイツ大会最終予選において、テヘランでイランに敗れた試合以外は全勝。

1次予選との通算成績で11勝1敗で終え、B組1位通過を果たした。

この結果により、世界最速で予選を突破し本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。

2005年東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で敗戦。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で勝して、2位という結果で終えた。

2006年親善試合を消化。W杯メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。

6月12日、W杯本大会初戦のオーストラリア戦では残り15分で3失点を喫し1-3の逆転負け。

続くクロアチア戦は0-0で引き分け、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転負け。

2敗1分でグループリーグ最下位で敗退した。

2006 FIFAワールドカップ終了後、日本代表監督を契約満了により退任。

その後、トルコ・シュペルリガのフェネルバフチェの監督、ウズベキスタンの強豪チームブニョドコル監督、CSKAモスクワの監督、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスの監督、イラク代表監督、カタールのアル・ガラファの監督、インディアン・スーパーリーグのFCゴアの監督などに就任。

2016年8月、日本サッカー殿堂顕彰が日本サッカー協会より発表。

2018年7月、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任すると発表され、8月にはコーチとして役員登録された。

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