苦労や失敗とは?
木村佳司/メディネット
当社を立ち上げたときも、免疫の領域で新しい事業を始めたいという思いがありました。
起業するまでに、いろいろな会社で経験を積みました。
でも、振り返ると無駄なことは一つもありませんでした
ぜん息になったことで「免疫療法」を知った。
染物屋では「研究方法」を知り、金属会社では「(細胞培養加工施設の参考になる)クリーンルーム」を知る。
HOYAでは「医療ビジネス」を知り、赤字会社の立て直しでは「経営」について学ぶことができました。
いろいろと苦労をしてきましたが、逆にそれが良かったと思っています。
苦労や失敗をしたときの方が真剣に考えますので、そのときの経験が役立っているからです。
木村佳司(メディネット創業者)とは?
木村佳司。
1952年、京都府生まれ
京都府立嵯峨野高等学校卒業
1992年9月HOYA(株)本社市場開発促進部 課長
1994年10月(株)コアメディカル 専務取締役
1995年10月メディネットを設立し代表取締役社長に就任。
2003年10月東証マザーズ上場。
木村佳司(メディネット創業者)の「コトバ」
私は、幼稚園に入る前からひどい小児ぜん息を患い、小学校も中学校も休んでばかり。学校行事もほとんど不参加。体も痩せていて「こんな状態で大きくなれるのかな?」と不安だらけでした。転機となったのは高校で剣道部に入ったこと。当初はランニングをしても、みんなの1/3くらいしか走れませんでしたが、2年になると一番早く走れるようになり、剣道でも初段をとるまでになりました。すると、驚いたことに、これまでどんな病院にかかっても治らなかったぜん息が完全に治ったのです。そのとき「病気って自分の身体が持っている治癒力が治すんだ!」と気づきました。高校は進学校で成績も悪くなかったのですが、大学へは行かずに就職しました。中学生のとき父を亡くしたため、「母の負担を減らしたい」と考えたからです。就職先は姉の嫁ぎ先が経営する染物屋。ただ、この染物屋は少し変わっていて、昼は通常の営業をしていますが、夜は染料の研究をしていたんです。しかも、本場ドイツで研究をしていた方を技術顧問に招き、最先端の研究をしていました。「この染料と別の染料を混ぜるとどうなるか?」このような研究が面白くてたまらない。時間を忘れて没頭したことで、研究の何たるかを自分なりに知ることができました。ただ、私は色弱だったので色の追求には限界がある。それにビジネスや研究方法を一通り理解したこともあり、会社を辞めることにしました。その後、金属会社に入社、営業担当となりました。顧客のメーカーが半導体工場を持っていて、そこにクリーンルームがありました。そこで、クリーンルームのことを徹底的に調べましたが、その知識が後々役立つことになります。この頃は、朝から晩まで働きづめで平均の睡眠時間は3時間ほど。家庭を顧みなかったこともあり、妻が実家に帰ってしまいました。見かねた仲人の方から「仕事を変えなさい」と言われ、一年ほどでこの会社も辞めることにしました。
次に入社したのは株式会社保谷レンズ(現HOYA株式会社)。そこではコンタクトレンズや医療機器の販売を担当。営業先は眼科。ここで初めて医療ビジネスに接することになり必死に勉強しました。法律、税制、営利・非営利の違いなどなど。営業成績はトップクラスだったので大阪の営業所長を務めたりもしました。あるとき、本社から「買収した赤字会社の再建をして欲しい」と言われ、会長室長としてその会社の立て直しに着手。ただ、周りは全員が敵。「片道切符で来た」と言っても信じてもらえない。相当な苦労をしましたが、2年で黒字化を達成。ここで経営の何たるかを知ることができました。その後、株式会社メディネットを創業しました。メディネットは、主にがんの免疫細胞治療の開発・実用化に取り組む会社です。当社は創業以来、免疫細胞治療にフォーカスして事業を進めてきましたが、それは幼い頃に小児ぜん息だった体験が背景にあります。「ぜん息を治したい。健康になりたい」とずっと思っていました。それに、ぜん息は免疫疾患で、薬では根治が難しく、体の免疫力をのバランスを整えることで快方に向かう病気です。そのため、当社を立ち上げたときも、免疫の領域で新しい事業を始めたいという思いがありました。起業するまでに、いろいろな会社で経験を積みました。でも、振り返ると無駄なことは一つもありませんでした。ぜん息になったことで「免疫療法」を知った。染物屋では「研究方法」を知り、金属会社では「(細胞培養加工施設の参考になる)クリーンルーム」を知る。HOYAでは「医療ビジネス」を知り、赤字会社の立て直しでは「経営」について学ぶことができました。いろいろと苦労をしてきましたが、逆にそれが良かったと思っています。苦労や失敗をしたときの方が真剣に考えますので、そのときの経験が役立っているからです。
私は、ぜん息を治して健康になった経験があるので「小さくてもいいから何か世の中に恩返しをしたい」と思っていました。そこで会社を辞めて43歳のとき起業しました。自分の経験から「免疫のビジネスをやろう!医療・健康にかかわる分野で全く新しいことをやりたい!」そんな気持ちでいました。でも、免疫のビジネスといっても、どこから手をつけたらいいかわからない。試行錯誤を続けていたとき、分子免疫学の基礎医学者であった東京大学名誉教授の故・江川滉二さんを紹介され、会うことになりました。当時、江川さんは東大の教授を辞任され、ある財団で研究等を行っていました。そして、免疫細胞治療を受けたいという人がいたら、ボランティアで治療をされていたのです。江川さんと話をしていたとき「治療の副作用から多くの患者さんを救うにはこの治療しかない」と大きな可能性を感じました。でも、現実は江川さんの知り合いしか治療が受けられない状態。そこで、「もっと多くの人が受けられるように免疫医療を事業化しませんか?」と提案しました。すると江川さんから「じゃあ一緒にやりましょう」と言われ、ビジネスの方向性が決まりました。
当時、再生・細胞医療は今ほど認知されていませんでした。免疫細胞治療についていえば、有効性を示すデータは出ていましたが、事業として成立させるのは無理だと言われていました。いろいろと病院を周りましたが、どこも反応はイマイチ。「免疫細胞を用いたがん治療をしませんか?」と言っても呆れられるだけ。でも、患者さんのためにこの新しい治療法を普及させることは意義があると考え、「誰もやらないなら自分たちでやるしかない」と思い、「免疫細胞療法総合支援サービス」という全く新しい事業モデルをつくり、事業化することにしました。そして起業から4年後、江川さんが世界初のがん免疫細胞治療の専門施設である瀬田クリニックを開設し、メディネットが「免疫細胞療法総合支援サービス」を通じて、細胞加工と研究開発を担うことになりました支援。当初は月に3~4人くらいしか患者さんが来なくて開店休業のような状態。ただ、地道に運営を続けていく内に患者さんからの口コミが広がり、徐々に来院数が増えていきました。それまで症例数は年間で数10例ほどしかありませんでしたが、開院してからこれまで積み上げてきた免疫細胞治療の治療患者数は19,000人、細胞製造数は17万件を超え(2016年9月末現在)、国内最大であると共に世界最大級でもあります。また、当社と契約・提携する病院も増え、現在、拠点は連携医療機関を含めると全国約50ヶ所超までに拡大しています。
再生・細胞医療は、ノーベル賞を受賞された山中伸弥先生の功績もあり、今でこそ注目され、多くの方々がビジネスに興味を持ちだしました。ただ、私たちが始めたときは全くの未開拓の領域でした。新しい分野なので見本がない。まさに馬車道に自動車を走らせるためのインフラをつくるような作業が必要でした。それこそ自動車をつくり、道路をつくり、舗装をし、信号をつくり、標識をつくり、交通ルールをつくる。そんなことをしてきました。大変な労力と時間がかかりましたが、それが、いまの当社の体力になっています。また、新しいことをするときは風当たりが強いものです。周りからはいろいろなことを言われました。ただ、新しい価値や常識をつくるときは周りに迎合してはダメだと思っています。聞く耳は持ちますが、何よりも自分のことを信じることが大事ですし、自分の想いを貫くことが大切です。「免疫細胞治療を世の中に広めなければならない」私たちはこの想いを強く持つことで、ここまで来ることができました。でも、しなやかでいることも大事だと思っています。50キロで走ると50キロの向かい風が来ます。それに真っ向から立ち向かうと折れてしまうからです。
私の父親は警察官をしていました。本当に円満な人で怒った顔を見たことがないし、私心が全くないんです。弱い立場の人や困っている人を見たら放っておくことができずに救いの手を差し伸べる。だまされたことがある人に対しても、その人が窮地にいると助けることをしていました。つくづく「自分を超えてできる人」だったと思います。私もそんな父の影響を受けて育ったこともあり、あまり私欲がないんです。もちろん人並みにはありますが、それよりも社会全体の損得を考えて行動する方により大きな満足を感じます。人のやっていないことや新しいことをやるのが何よりも好きです。その意味では仕事より面白いものはないと思っています。先が見えないところにワクワク感を覚えるタイプなのかもしれません。それに新しいことを始めると、もちろん大きな反対もありますが、必ず応援もあります。江川さんをはじめ素晴らしい人と出会うチャンスも訪れます。それは当社の社員もそうです。社員にはいろいろと迷惑をかけているので、「この会社で働いて良かった」と思われる会社にしていきたい。ただ、いい人材を集めるには時間かかります。当社の事業領域は新しい分野ですので、すぐ環境も変わります。次のステージに移ると異なる能力の人材が必要になります。環境の変化に合わせて、いかに優秀な人材を集めていくかが今後の課題です。
当社は、創業から21年が経ちました。「先進医療がいつでもどこでも希望すれば誰もが受けられる社会を創りたい」「病で苦しむ患者さんの希望を創る会社であり続けたい」その実現に向けて挑戦を続けてきました。その思いが、がんの免疫細胞治療を中心とする画期的なビジネスモデルを創り、多くの医療機関に革新的な技術・サービスを提供し、多くの患者さんに新しい医療を届けることにつながったと思っています。出身地の京都に哲学の道があります。「ただただ真理のみを追求しよう」との姿勢を大事にしています。そう考えていると周りからの批判が気にならなくなります。それが新しい分野を開拓してきた秘訣だと思います。当社では「Think Global, Act Local」を掲げ、これまでにやったきたことをグローバルに展開していくつもりです。再生・細胞医療は、日本が世界でトップになる可能性をもつ数少ない分野です。その中で、がんの免疫細胞治療については、当社が世界のトップグループを走っています。これからも、患者さんにとって、常に最新で最善で最良の医療を提供すべく挑戦を続けていきます。そして、当社を社会になくてはならない会社、社会から必要とされる会社にしていきたいと考えています。
これまでは通常、薬は基礎研究から始まり、第1相、第2相、第3相と十数年の時を経て、ようやく患者さんのもとに届けられてきました。ところが再生細胞医療の場合は、全く違う考え方で成立します。再生医療では少数例での治療結果をもとに、安全性が分かり有効性が見込まれれば、そこで早期承認しようという考え方です。この考え方だと、目の前の患者さんを救済するだけではなく、再生細胞医療産業の育成も両立することができるのです。要するに企業は多額の負担、患者さんは治療を受けられるまでに長い時間がかかっていたことから解放される可能性がでてきたということです。すると今までの医療業界のように、長い期間と多額の費用をかけて医薬品がつくられる、という構造は全く変わっていきます。これまでは、百人のうちの何人に効く薬が創れるか、という価値観でしたが、これからは「この患者さんにとって最適な薬を開発していく」という流れになる。遺伝子検査し、一人ひとりの患者さんに最適な治療を選択する個別化医療にシフトしてきているのです。今後は再生細胞医療分野に関わらず、個別化医療という考え方が主流になっていくことでしょう。
iPS細胞は世界の技術ですし、現在の知見にも役立ちます。何よりもこれまで治せなかった患者さんに、新たな治療価値を提供することができる。これは大きいです。待ち望んでいる患者さんにとっても一歩前進です。国も規制当局も、再生細胞医療を日本から発信していく次世代技術・産業として育成しようとしていますし、経済産業省などもアクセルを踏み込んでいます。うまくいけば、日本が再生細胞医療の開発拠点・発信拠点となり、世界と戦える新産業分野になるでしょう。欧米各国でも現在は、基本的には薬は早期承認という流れになりつつあります。しかし実際は、患者救済と産業化によって迅速に製品化するという、両方を実現する仕組みは出来ていません。それを日本が実現できれば、再生細胞医療の分野で、世界に先駆けて新たな承認基準を生み出すことができるはずです。現在日本はこの分野で世界のトップランナーの立場にいると言っても過言ではないのですから。
われわれは14~15年前から他社に先駆けて、細胞を加工するということについての品質基準や管理体制など、いろいろなノウハウを培ってきました。臨床に携わってきた数は、私が知る限り世界最大級です。細胞加工を受託するということは、こういう蓄積とノウハウがなければ出来ません。どういう場合にどういう失敗が起こるかといったことは、今までの経験をすべて生かせるわけです。そういう経験を積んできた企業はグローバルに見てもありません。この再生医療新法に則って、いざ細胞加工をしようとした時、安全性を担保して正確に行うためには、我々と同じだけの経験値が必要です。そうでないと、どこに問題点があるかも分からない。その意味でもこの法律のおかげで、メディネットもさらに大きな一歩を踏みだせるチャンスが来た、これまでの投資が生かせる時期が来たとは言えるでしょう。再生細胞医療は日進月歩で進化する技術を迅速に取り込み、常に最新で最善な医療を患者さんに提供できなければなりません。最近は、科学の進歩のリズムと薬事開発の進歩が合わなくなってきました。ここをうまく合わせて、患者さんにとっては安価、企業にとっては低いコストでできる医療システムを実現することが望まれているのです。これを出来るだけ早く日本で実現することが、再生細胞医療に限らず、医薬品等においても期待されるところです。現在、新薬開発では欧米が大きな力を持っていますが、アジアでは日本の独壇場です。ですから今後、拡大するアジア市場で日本のプレゼンスを維持するためにも、再生細胞医療は積極的に推進していかなければならないのです。
再生細胞医療の分野は、今ようやく研究成果の刈り取り時期に入ったところなのです。当社の創業の頃は、再生細胞医療に注目する企業はありませんでした。ですから仕方なく自分たちですべてを投資し、切り拓いてきたのです。その投資したものが今、知財として蓄積されている。研究というものは、当たり外れはあるにしろ、たくさん投資したところに多くの知財が残っているものなのです。この内部留保をうまく生かしていきたいです。再生細胞医療では特許という分かりやすい部分と、ノウハウという時間がかかり分かりにくい部分がありますが、細胞加工ではノウハウの重要度が大きい。つまり我々の蓄積は、確実に競争力になっているのです。また、細胞に遺伝子を導入する「エレクトロポレーション技術」のアジアでの権利を我々が持っているということも大きな力になると思います。私はこの分野は経産省などが予想する市場規模より遥かに拡大するのではないかと考えています。そのためには、今後、再生細胞医療が社会にどのくらい受け入れられるかがポイントでしょう。この分野は世界中で研究され、目に見える結果も出てきていますが、日本が先頭に立って開発しやすい環境を整えれば、各国の企業が日本で開発しようという動きも出てくるはずです。ですからその意味でも、一連の医療制度改革の成否は、日本のこの分野での将来の成長性を左右すると思います。
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