創薬ベンチャーを立ち上げた背景とは?
中村祐輔/オンコセラピー・サイエンス創業者の一人
がんの治療薬を自らで開発するにはベンチャー企業を立ち上げるしかないと考えた。
そして、2001年、母の死から2年を経てオンコセラピー・サイエンス社を立ち上げるに至ったのである。
これには、CSKベンチャーキャピタルを率いていた青園雅紘氏との偶然の出会いという幸運があった。
彼との出会いがなければ、金策に走り回って、研究そのものが立ち行かなくなっていたかもしれない。
設立した時の会社の目標は、(1)低分子化合物治療薬(分子標的治療薬)、(2)抗体医薬、(3)遺伝子治療、(4)核酸医薬の開発であった。
がんワクチンは、その当時、かけらさえなかったのである。
当然、ベンチャーである以上、希望と不安の中での冒険に満ちた船出であったことは言うまでもない。
中村祐輔(オンコセラピー・サイエンス創業者の一人)とは?
中村祐輔。
1952年12月、大阪府生まれ。
学位は医学博士(大阪大学、1984年)。
東京大学名誉教授、シカゴ大学名誉教授。
専門は遺伝学、腫瘍学。
1971年 大阪府立天王寺高等学校卒業。
大阪大学医学部卒業後、4年間外科医として臨床に従事、その後は研究者として遺伝学、腫瘍学の分野で卓越した業績を残した。
1987年に高度多型性VNTRマーカーを単離。ユタ大学人類遺伝学教室助教授。
1991年にがん抑制遺伝子APCを発見。アメリカ合衆国メリーランド州名誉市民
1992年 高松宮妃癌研究基金学術賞「がん抑制遺伝子の研究」
1995年 東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長・教授
1996年 武田医学賞「ヒト遺伝子多型マーカーの単離とがんを中心とした疾患遺伝子の解析」
2000年 慶應医学賞「ゲノム解析に基づいたヒト諸疾患の病因遺伝子の解明」
2001年に「遺伝情報を網羅的に調べて一塩基多型(single Nucleotide Polymorphism, SNP)と疾病との関係を調べる」というゲノムワイド関連解析(Genome-Wide Association Study, GWAS)の手法を開発し、2002年に同手法で心筋梗塞の感受性と関連するSNPを発見した。
1990年代からオーダーメイド医療の概念を提唱し、患者ひとりひとりの遺伝的差異・多様性に基づいた、個別化医療の推進に尽力した。
2001年に、がん領域において基礎研究から実臨床への橋渡しを推進すべく、オンコセラピー・サイエンスを創設。
2002年 日本癌学会・吉田富三賞
2003年(平成15年)12月8日 東証マザーズ上場。
2004年 紫綬褒章
2005年 理化学研究所ゲノム医科学研究センター長
2006年 ブルガリア科学アカデミー会員
2010年 国立がん研究センター研究所長。ヒトゲノム国際機構・チェン賞(Chen Award for Distinguished Academic Achievement in Human Genetic and Genomic Research)
2011年4月 内閣官房参与・内閣官房医療イノベーション推進室長。ハルビン医科大学名誉教授
2012年4月 シカゴ大学医学部内科・外科教授、個別化医療センター 副センター長
2013年 台北医学大学名誉教授
2016年10月 がん研究会がんプレシジョン医療研究センター所長
2018年4月 内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)プログラムディレクター。
2020年 クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞
中村祐輔(オンコセラピー・サイエンス創業者の一人)の「コトバ」
私は2001年にオンコセラピー社を設立した。正確には、私が立ち上げたというよりも、私の「日の丸」印のがん治療薬を作りたいという夢に賛同する人たちが集まり、CSKベンチャーキャピタルの支援によって活動を始めた。自ら会社を設立するなど、全く縁のない話であると思っていたが、現研究の成果を論文という自己満足で終わらせることなく、社会に還元するというゴールを目指して必要不可欠と考えたからである。
塩野義製薬との提携で、低分子化合物のスクリーニングを始め、有望なものが見つかったが、契約期限内に臨床試験まで進めなかった。しかし、これを通して培った大きな財産が、現在の低分子化合物創薬の進展につながっている。会社からも発表しているが、MELK阻害剤はシカゴ大学で治験が行われており、第2の化合物も順調に進んでいる。現在、キナーゼに次ぐ分子標的として世界で注目を集めている、メチル化転移酵素の阻害剤開発に関しては、オンコセラピー社はその先駆者的存在である。これは10年前、この種の酵素が人のがんで重要な働きをしていることを世界で初めて発見した古川洋一先生(現、東京大学教授)と浜本隆二君(現、シカゴ大学)の奮闘によるものである。フランスで治験をしている抗体医薬品に関しても、道のりは平たんではなかった。現在、がん研究所有明病院で勤務している長山聡君と徳島大学教授の片桐豊雅君が、FDZ10という分子に対する抗体が滑膜肉腫の治療に使えそうなことを見つけたのは2003年(発表は2005年)である。モノクローナル抗体を作り出し、それを患者さんに応用できるようになるまで、論文発表から7年かかった。日本国内で公的支援を求めても「こんな患者数の少ないがんの治療薬を作ってどうする」と言われて、怒り心頭で、頭の血管が切れそうになったことも懐かしい。
オンコセラピー社の財産は、東京大学の私の研究室で昼夜忘れず、「月月火水木金金」と、研究に没頭した数百人の若い研究者たちの血と涙と汗の結晶から生まれている。彼らが、患者さんのためにという必死の思いで築き上げた貴重な知的財産が、会社にとって何にも代えがたい財産である。医師であるかどうかに関わらず、私は自分の「がんという病気を克服したい」という熱き思いを伝えてきた。これを礎にして、「日の丸」印のついた薬を生み出すことが、オンコセラピー社の使命であると、設立者の一人である私は固く信じている。
遺伝性がんの研究を生かして、がんの治療薬開発を目指した研究は1984年に留学してしばらくして始まった。考えていたよりも道は長く、大腸がんに関係する遺伝子であるAPC遺伝子を発見して報告したのは1991年8月となった。その間、ジョンス・ホプキンス大学のボーゲルシュタイン教授との共同研究で、p53遺伝子が人のがん(大腸がん)で異常を起こしていることも世界に先駆けて発見し、報告した。この二つの遺伝子(がん抑制遺伝子)を利用してがんが治療できないかと考えたが、壊れてしまったものを再生するのは簡単ではなかった。いろいろ試行錯誤している間に、がん細胞で働きが過剰となった、がん遺伝子によって作られる分子を標的にして薬を作る方法が成功を収めるようになった。抗体医薬であるハーセプチン(HER2という分子の働きを抑える)や分子標的治療薬のグリベック(BCR―ABLという分子の働きを抑える)などが代表的なものである。最近では、ALKを標的とした肺がん治療薬やBRAFを標的としたメラノーマ治療薬がある。
1998年に私の人生観・価値観を大きく揺るがせる出来事があった。母が進行性大腸がんと診断されたのである。堺市民病院で一緒だった同級生に手術を依頼し、手術室に見学に入った。非常に大きかったので、腹膜内に播種しているのを恐れていたが、開腹した直後にそれは否定されてホッとした。が、次の瞬間、肝臓の表面に転移が見つかった。手術は無事終わったが、がんはあっという間に広がり、数か月後には厳しい腰痛に見舞われた。頻回に見舞いに訪れたのだが、母の状況が厳しくなるに従い、東京と大阪の距離が段々と遠くなるように感じられたものだ。結局、何もできないまま、1年間の闘病の末に母は天に召された。自宅に自分用の白い装束を用意していたことを思い出すたびに、切なくなる。それにも増して私の心に残っているのが、「おまえが研究していた病気なって、恥をかかせて悪い」と私に詫びた一言である。もちろん、返す言葉など見つからず、ポロリと涙が流れただけであった。母の写真を眺めてこの言葉を思い浮かべ、そして、その母が苦しみ、亡くなるまでの1年の間、何もできなかった自分への悔しさが、抗がん剤を開発したいという強い思いを駆り立てたのである。論文を出すことに、人生の意義をあまり見出せなくなったのだが、皮肉なもので、その翌年にNature、Cell、Nature Geneticsといった雑誌に立て続けに論文を発表できた。その後も、論文発表を続けているものの、心は全く満たされない。頭の中は「社会に還元するための研究」に占拠され、「自分が楽しめばいい」と言っている研究者とは完全に一線を画す自分がいるようになった。そして、研究の軸足を、がん抑制遺伝子から、がん細胞の増殖を支配する遺伝子へと移した。ただし、p53遺伝子やそれに関連する細胞死を引き起こす遺伝子を利用する研究は継続していた。研究としてはうまくいっていたと思うが、遺伝子治療というだけで、各段にハードルが高くなる状況や、遺伝子治療を患者さんに応用するには膨大な経費が掛かるために、大学で受け取る公的な研究費では限界があった。今振り返ると、ウイルスなどでがん細胞を殺す遺伝子を運ぶと、ウイルスに由来するタンパク質が患者さんの免疫を高める働きがあるので、がんを殺すと同時に免疫が高まり、マウスでは認められなかった高い効果が認められたのではないかと残念だ。
ゲノムというのは、我々が親から子へ受け継いだり、あるいはそれぞれの細胞の中に含まれている遺伝子の総称を言います。私は、1990年の半ばからオーダーメイド医療という言葉を使っていたんですけれども、病気の性質、ガンの性質は一人一人の患者さんで違うということがわかりました。一人一人の患者さんの性質を見極めた上で、その薬を選んでいくと。プレシジョンっていうのは、正確にっていう意味で今はオーダーメイド医療っていう言葉がプレシジョン医療という言葉に変わって非常に広く使われるようになったんです。やっぱり一人一人にあった治療法を提供するという形で、どのような形で研究し、どのような形で患者さんに還元するのか考えながら研究しています。
日本は、免疫療法に対する物凄く強い負のイメージがあるわけですよね。免疫療法=いかがわしいというようなイメージがかなり定着しているんです。アメリカを見ると全くそんなことは無くて、例えばアメリカの臨床腫瘍学会、血液学会、アメリカの癌学会といっても免疫療法というのは大きなテーマの一つになっていて。どのような形で患者さんの免疫力を高めるのか?そこに非常に大きな注目が集まっているという状況で、かなり日本の現状と温度差があるように思います。
私は「遺伝的多型マーカーの開発と、その応用による先駆的な研究とゲノムワイドな関連研究への貢献により、個別化がん治療の先駆けとなったことに対して」という、少し長いタイトルで賞を授与されました。一言でいえば、個々の患者さんの多様性を考慮したオーダーメイド医療の先駆けとなった研究に対する賞です。私が30年以上研究を続けてきた、遺伝子の多様性とその医療への応用で評価されたもので、光栄に思っています。遺伝子・ゲノム情報に基づくオーダーメイド医療、あるいは、ゲノム医療は、これからの医療の根幹であるにもかかわらず、日本では過小評価され続けた結果、日本は欧米に比して大きく遅れてしまいました。その遅れの象徴が、がん医療分野における過度な標準化医療・マニュアル化医療です。
アメリカと日本と比べて大きな違いというのは、病気の教育だと思うんですよね。例えば、ガンは遺伝子で起こる病気だというのは、ある程度の教育を受けた人間と言うのはアメリカでは高校生くらいでは常識なわけですよね。日本は、やっぱり遺伝子と言うものに対する恐れがあって。なかなか教育の中に遺伝子がどう関わるのかっていうのを教えていないですから。そこから変えていかないと。なかなか向き合うと言ってもちゃんとした情報が無い中で向き合うというのは、かなり患者さんにとっては厳しいモノがあると思います。
世の中というのは、本来、理不尽なものであることを悟って、努力していくしかない。私はできる限り公平な評価に心掛けているが、私の評価の物差しは、「結果」ではなく、「いかに努力したのかというプロセス」にある。私は努力をしない小賢しい人間が大嫌いである。頭のいい研究者が、努力もせずに、80点の成果をあげたとする。能力的に劣っている人が、一生懸命に努力して70点の成果をあげる。私は後者の人間を高く評価する。努力を続けるものは、70を80や90に引き上げる可能性を持っているが、小賢しい者は成長しない。たとえ、どんな環境に置かれていても、努力し続けることのできる人は、周囲の人に対して必ずプラスの効果をもたらすことができる、しかし、小賢しい人間は、まわりのやる気を削いでしまうと考える。また、小賢しい連中は、たいていの場合、上司に取り入るのが上手である。そして、その上司に可愛がられ、その人たちが出世していくと、組織は崩壊し始める。残念ながら、人生の目的が、自分の出世であるタイプには、この小賢しい連中が多い。この小賢しい人種の繁殖が、医学・医療の分野を大きく歪めつつあるように思う。自分の力と、自分の所属している施設の力を勘違いして尊大に振る舞っている人間も多く見かける。こんな腹立たしい人物と話をした後、私は下記の言葉を思い浮かべて、自分の原点を忘れないように言い聞かせて、自分自身を戒め、冷静になるように努める。
きれい事だけでは会社は成り立たないのは十分に分かっている。しかし、私の人生の目標は、「今は治せないがんを治す薬を生み出す」ことにある。もちろん、会社も同じ目標であってほしいと願っている。患者さんの笑顔を取り戻す結果を残さなければ、私の人生は無に帰すといっても過言ではないし、会社はそれができなければ、その先はない。見たことのない、行ったことのない世界への冒険の旅である。その成果が日本の誇りにつながれば、なお、幸いである。十年以上もたつと、設立した頃の精神を忘れ、自分が依って立つ根拠さえ理解していない社員が多数を占め、目先のことに追われがちになる。日本を誇る物つくり企業を見ても、設立時のベンチャー精神、設立者の思いを忘れていない企業は今でも大きく輝いているし、目先の利益に目を奪われた企業は消え去ったか、厳しい時代を迎えている。世界のトヨタも、ホンダも、ソニーも、パナソニックも、かつてはみんなベンチャー企業だった。オンコセラピー社は、私の医師としての、がん患者の息子としてのがんに対する敗北をバネに、日本の誇りをかけて、そして、患者さんとその家族の希望と期待を担ってきた会社である。ゆめゆめ、それを忘れないで欲しい。
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