5つの蓄積を社是として実践している。
「信用」
「資本」
「奉仕」
「人材」
「取引先」
以上5つの蓄積である。
私たちは5つの貯蓄の精神を基盤にしてその実践を身近い現実のものに見て、今日から明日へと自分たちの周りをさらに充実していきたいものである。
早川徳次。家電メーカー・シャープの創業者。
東京出身。
1893年(明治26年)11月、東京市日本橋区久松町42番地(現・東京都中央区日本橋久松町)でちゃぶ台製造販売業の早川政吉、花子の三男として生まれる。
徳次が生まれた頃、早川家は副業のミシン縫製業で繁盛していたが、早川家に出入りしていた肥料屋の出野家へ預けられ、生後1年11か月で正式に出野家の養子となる。
厳しく当たられ、食事も満足に与えられない過酷な幼少期を過ごした。
尋常小学校へ進学するが2年で中退させられ、朝から深夜までマッチ箱張りの内職を手伝わされる日々が続いた。
この状況を不憫に思った近所の盲目の女性・井上せいの世話で、本所区本所北二葉町2番地(現・墨田区石原)の錺屋(かざりや:金属細工業)職人・坂田芳松の店で丁稚奉公することになり、1901年(明治34年)9月15日に出野家を後にした。
奉公先では、仕事に厳しいが情に厚い主人から金属加工に関する技術を身に着けていった。
その後独立し、19歳でシャープの前身となる早川金属工業研究所を設立。
シャープペンシルやバックル「徳尾錠」など革新的な商品を発明した。
しかし、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生。妻・文子と2人の子供を亡くし、工場も全壊。
関東地区で販売を委託していた日本文具製造(後のプラトン文具:1954年廃業)から、特約販売の解消及び「特約契約金1万円と融資金1万円の計2万円」の即時返済を迫られ、事業譲渡。徳次名義の48種類のシャープペンシル関連特許を無償で使用させること等で無理やり合意させられてしまう。
1924年(大正13年)8月、契約を満了して日本文具製造を退社する。
関東大震災から1年後の1924年(大正13年)9月1日、大阪にて、「早川金属工業研究所」を設立。
ラジオ製造を開始し、テレビ事業で成長を遂げる。
1970年(昭和45年)1月1日「シャープ株式会社」へ社名を変更、同年9月15日に会長に退きました。
1980年(昭和55年)6月24日逝去。
ビール箱に腰を下ろして客待ちをしている間、私は学校に通っていなかったため漢字が読めないので字を覚えるためによく書物を開いて見ていた。一晩一字ずつ覚えることに決めて鉛筆で書いてもみた。いつしか、これが評判になって本を読む夜店小僧と言われるようになった。
機を待っていた私であった。準備は万事OK、すかさず本格的な鉱石ラジオセット製作に着手、やがて市販に移した。機敏も商売のコツである。おそろしく売れ、つくってもつくっても需要に追い付かなかった。
私たちの夢に関連のある超短波研究が偶然のようにやってきた。しかし、よく考えてみると決してこれは偶然ではなく、偶然をつくりあげるような下地のある我々のところに偶然やってくるべくしてきたともいえる。この長い月日の技術の蓄積が、やがて他社を抜いていち早く国産テレビの完成となり、そのその量産に向かってスタートできたのである。
関東大震災に出くわしてぺしゃんこになった私は、それまでいい気になって強がっていた鼻っ柱がいっぺんにどこかへ吹っ飛んでいった感じがした。見渡す限りあたりは廃墟である。文明は一瞬のうちに没落したように見えていた。自分の事業復興の目鼻も到底早急には立ちそうもなかった。
私は天災のためとはいえ、一度は東京の事業につまずきもした。また、血涙のにじむような経営苦にあえいだことも一再ならずあった。そして自身は生死の巷(ちまた)をさまよい、肉親の何人かを不慮の厄災に失っている。しかし、現在の私が、広く社会と諸々の人たちから数え切れぬほどの恩恵を受けて事業一筋に生きていける幸福を思うと、ひとしお感謝の念が湧いてくるのである。
もともと私は楽天家の方で、ものごとにあまりいつまでも拘泥してくよくよする性質ではない。忘れっぽいし、いつも明るく笑っていたい人間だ。
人に真似される商品をつくれ。