人生を幸福にする3つのスパイス
人生は血と汗と涙でつづるもの。
血はファイト、汗は努力、涙はこころ。
この三つがバランスよく発揮できる人生は幸せだし、それは仕事も同じである。
味の素の創設者。神奈川県出身。
1868年1月、相模国三浦郡堀内村(現在の神奈川県三浦郡葉山町)の商家、父・三郎助(初代)、母・なか、の長男として生まれる。
初代三郎助はもともと忠七といい、公郷村(現・横須賀市)の豪商「滝の崎」に奉公に出て手腕を認められ、慶応2年(1866年)に妻帯・独立して「滝屋」を称していた。
しかし明治18年(1885年)に腸チフスにより35歳で他界したため、泰助はわずか9歳で家督を継ぐことになった。
泰助は11歳で尋常小学校を出て高座郡羽島村(現・藤沢市)の耕余塾に預けられたが、明治13年(1880年)にこれをやめて浦賀町(現・横須賀市)の米穀商加藤小兵衛商店で住み込みの見習いとなり、明治17年(1884年)18歳で自家へ戻って2代目三郎助を襲名する。
三郎助の商売は当初は順調であったが、この頃には資金繰りに躓き、それを埋めるために米相場に手を染めていた。
明治23年(1890年)には、三郎助は家財のほとんどを米相場につぎ込んだ挙げ句ほとんど無一文となって葉山へ戻り、母と妻が始めた沃度灰事業を手伝うこととなる。
沃度灰事業とは、海草の搗布(かじめ)を海から引き上げて乾燥させ、あぶり焼きにして沃度灰を作る作業。沃度灰のなかからヨードを抽出し、薬品を作るのが目的。
沃度灰事業は順調に進展し、三郎助は三重から房総に至るまでカジメを買い付けて廻り、戻るとかじめ焼きをこなした。
明治37年(1904年)には日露戦争に伴う需要増により莫大な利益を上げた。
明治41年(1908年)、東京帝国大学の池田菊苗がグルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許が認められた。鈴木は知己を通じて開発中から池田博士と面談しており、この特許の実施契約を得た。
大正6年(1917年)には株式会社鈴木商店(のちの味の素)を設立し、鈴木三郎助が社長に就任している。
PRとは結局、人に奉仕する真心である。ただ宣伝したのでは、商品も売れなければ、宣伝効果も上がらない。人間の誠意がこもった商品でないといけない。
うんと学び続け、お客様にその報告にうかがうことは、実に楽しいことだった。私にとっては、そのことで心豊かになり、充実感に充たされる焔の時だった。
「若いときの苦労は買ってでもせよ」といわれるが、苦労を避けたり、恐れたりしては誰も一人前にはなれない。 苦労とはすなわち努力するということで、苦労をしない人間は取りも直さず努力しない。人間ということになる。私はこの五十年間、人間、どこまでも苦労しなければならぬというタテマエで働き抜いてきた。 多くの苦労や努力を重ねたかの違いで、成功、不成功の道が分かれる。人並みの人間が人並みの働きで終わっておれば、人並み以上にはなれない。人並み以上といっても、人よりもほんの少しの多くの努力、苦労で結果は大きく違ってくる。われわれ平凡人はこれでやっていくしかない。要するに、苦労をいとわず、苦労に勇敢に突き進んで行くことは何より一番の学校である。“苦労学校”の出身者には、どんなことにも決してヘコタレるということがない。
わが社が上下をあげて、たえず品質の改善向上、コストの低下その他を研究し、その消費量の増加を促進しようとしているのは、かならずしも、単に社の繁栄ばかりではありません。それがひいて、いかに国利民福に重大な関連性をもっているかということを痛感しているからです
味覚に国境なし
人よりほんの少し多くの苦労、人よりほんの少し多くの努力で、その結果は大きく違ってくる。
「アンテナは高く、頭は低く」世の中の変化や技術革新に乗り遅れないために、政治家でもなく、評論家でもなく、常に商人のセンスで情報をできるだけ収集せよ。