商売の基本は努力です。
常に問題意識を持って真面目にやるということにつきるということでしょう。
そして成功のコツは、第一に自分を知ること、第二に自分のお客を知ること、第三に謙虚になることです。
商売繁盛の秘訣はお客さまに喜んでいただくこと。
商売ではお客さまが先生、お客さまが教えてくださる。つまり『買わないという事実』で教えてくださる。売れないのはなにかが嫌われているわけです。商品がダメなのか、売り方が悪いのか、いずれにしても嫌われているものは売れない。毎日、答えが出るから弁解できない。
当たり前のことを当たり前に、正攻法でコツコツと続けることがいちばん大切なことです。
売場はお客さまから見ると買場で、買いたくなるような売場がいい売場です。それを自分の都合ばかりを考えて売場をつくるから売れない売場になってしまう。いい売場かどうかは客観的な立場で見ればよく分かるはずです。
商人はお客さまの嫌がることは、たとえどんな小さなことでもしてはいけない。
売れるも売れないも、原因は店づくり、売場づくりにある。売る側は絶えず変化する商品の動きに注意していないといけない。いま売れている商品を徹底的に分析していくと売れるものはヤマほどある。私は次に売れる商品をつかむことについては絶対の自信を持っている。
どこよりも親切に。
私たち商人はお客さまからパンを得ているのです。お客さまからサラリーをいただいているのです。このことをいつも肝に銘じて、細心の注意をもって、お客さまに満足していただけるサービスを実践実行してほしい。これが商人としていちばん大切なことなのです。お客さまに常に感謝し、最高の礼をつくすことが大切なのです。
商売というものは面白いもので、ガメツイ人ほど儲からない。反対に淡々としている人ほど案外と儲ける。
何も宣伝せずともお金をつくれるのは、造幣局くらいなものである。商人ならば、常に腰を低くし頭を下げることだ。商売繁盛の秘訣はお客さまにご満足いただくことに尽きる。
世の中が不況だからといって、自分の店まで不景気にすることはない。真剣に考えたら必ず打開策が出てくる。工夫、努力次第でいくらでも売れる。丸井に不況はない。景気は自らつくるもの─これが私の持論です。
よい品をお安く便利に提供すれば、アメリカさんでも買いに来る。電車に乗ってでも買いに来る。
小売業では販売力イコール集客力です。また集客力を論じる場合、ロケーション(立地、配置)抜きでは考えられない。つまり小売業は立地産業かつ装置産業で、立地のよい所に大型店を出すというのが基本です。
どうせ俺は天涯孤独なんだ。東京であろうとどこであろうと、俺にとっては同じことだ。精一杯頑張ってやろう。そしてそうだ、ひとかどの人物になるんだ。
いまに見ていろ、いずれこの東京を丸井のマークで塗りつぶしてやる。
いつでも、世の中がどんなに不況でも、お客様の立場に立って、よい品を、お安く、便利に提供すれば必ず売れるものです。これが商売の大原則です。私はこの大原則を守って今日までやってきたが、この大原則を守っていくかぎり、丸井は永遠に発展していくと私は確信している。
不況でみんなが伸び悩んでいる時にこそ、業績を伸ばすのが実力のある企業だ。
景気が悪いから売れないというのは責任逃れの言葉だ。不景気でも売れる店があるではないか。景気は自ら作るものであり、工夫、努力でいくらでも売れる。
売り上げ日本一よりもサービス日本一を目指そう。
全て自分の事だと思って全力を尽くす。自分の事と思えば、どんな辛いことでも我慢できる。そして、人の喜びを自分の喜びとする。
青井忠治。
生家は富山県小杉の旧家の分家。
祖父・忠次郎は“伊勢領屋”(地主・農家)六代目で、明治に入って戸長や村会議員、町会議員などを務めた。
父・伊八郎は、農学校で習った酪農経営の新知識をもとに、ホルスタイン種の乳牛を飼育して牛乳を販売するという事業を始めたが、忠治が生まれて一年もたったころには金繰りがつかず倒産。
1904年(明治37年)長男一人息子として生まれる。
父の事業破綻により母と引き離され(離婚)、2歳ではしかのため左眼を失明。
10歳で他家に嫁した母を、11歳で結核を病んで床に臥していた父を失う。
1922年(大正11年)富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高校)を卒業して上京、月賦販売商・丸二商会(家具中心)に入社。
同年10月青井家が火事で全焼。
仕事では瞬く間に頭角を現す。
1923年(大正12年)9月関東大震災後、丸二商会は事務家具が大いに売れ、1924年(大正13年)大塚店長となる。
そろばんや習字、簿記などの基本を習い始めたほか、月賦店の仕事の中で最も大変な集金業務を手伝わせてもらえるように願い出ました。
1925年(大正14年)本店の集金部長、1928年(昭和3年)中野店長、1930年(昭和5年)1月浅草店長、7月九段店長を歴任。
1931年(昭和6年)中野店を譲り受けて独立。
当時、「月賦屋さん」といえば主に家具中心に扱っていたが、忠治は「よい品をお安く便利に」をモットーに、ラジオや洋服、靴など幅広い商品を取り扱った。
そして他社に先がけて現金仕入れをして、顧客のニーズに応えた。
1935年(昭和10年)阿佐ヶ谷に支店を開き、同時に“丸二”の“丸”に“青井”の“井”を合わせて商号を「丸井」に改めた。
1937年(昭和12年)株式会社に改組。
月賦百貨店の草分けとして、中野本店を中心に店舗を展開し始めた矢先、1941年(昭和16年)戦時下の商業活動規制により全5店舗の一時閉鎖を余儀なくされた。
1945年(昭和20年)疎開先の長野県伊奈で終戦を迎えると、すぐに上京して中野に仮店舗を設け、家具の現金販売で営業を再開。
1948年(昭和23年)7月西荻窪店開設。9月新宿駅前店開設。資本金500万円に増資。
1949年(昭和24年)9月下北沢店開設。
1950年(昭和25年)月賦商売を再開。
1952年(昭和27年)1月池袋駅前店開設。6月池袋店および立川店開設。
1953年(昭和28年)11月資本金1000万円に増資。
1954年(昭和29年)10月本店改築一期工事完了。11月 – 丸井労働組合結成。資本金3000万円に増資。
1955年(昭和30年)2月5ヵ月払いを10ヵ月払い方式に変更。6月福徳信用組合理事長に就任。11月自由が丘店開設。
1956年(昭和31年)2月中野区富山県人会会長になる。11月 – 高円寺店開設。
1957年(昭和32年)3月西小山店開設。
1958年(昭和33年)4月新宿西口店開設。10月紺綬褒章を受章。渋谷店開設。
1959年(昭和34年)2月全国月賦百貨店組合連合会会長に就任。2月丸井広告事業社設立。
1960年(昭和35年)には“月賦”を“クレジット”と言い換えて、日本で最初のクレジットカードを発行。
月賦からクレジットへのイメージ転換を図るため、当時としては斬新なテレビコマーシャルを流す広告戦略にも打って出た。
そして若者をターゲットにDCブランドを商品に取り入れ、ファンションの丸井へと発展していく。
1961年(昭和36年)10月豊田店開設。11月所沢店開設。
1962年(昭和37年)6月スーパーまるい設立。9月当時業界最大の新宿店開設。10月成増店開設。
1963年(昭和38年)2月吉祥寺北口店開設。4月東京株式市場第二部に上場。6月荏原店開設。9月浦和店開設。10月玉電大橋店開設。12月高岡工芸高等学校に青井記念館・青井文庫を寄贈。
1964年(昭和39年)3月池袋西口店開設。4月柏店開設。9月千葉店開設。
1965年(昭和40年)東証第一部に昇格。
1966年(昭和41年)2月横須賀店開設。5月丸井花小金井総合グランド完成。9月沼津店開設。10月藍綬褒章を受章。
1967年(昭和42年)3月土浦店開設。5月富山市に青井スポーツハウスを寄贈。9月宇都宮店開設。
1968年(昭和43年)3月小田原店開設。4月前橋店開設。9月蒲田店開設。
1969年(昭和44年)2月清水店開設。8月厚木店開設。9月静岡店開設。
1970年(昭和45年)1月緑屋を年間売上高で抜き月賦業界一位となる。2月熊谷店開設。川越店開設。池袋東口店開設。
1971年(昭和46年)2月八王子店開設。
1972年(昭和47年)会長。
“景気は自らつくるもの”という商売哲学を持ち、同社を月賦百貨店業界のトップ企業に育て上げた。
1959年(昭和34年)全国月賦百貨店組合連合会会長。
1973年(昭和48年)には私財を投じて青井奨学会を設立した。
1975年(昭和50年)8月18日死去。従五位勲三等瑞宝章を授与される。