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西武グループ創業者、堤康次郎:西武鉄道でストがない理由とは?

 

西武鉄道でストがない理由とは?

 

堤康次郎/西武グループ創業者

 

 

私鉄でストがないのは西武ぐらいなもので、なぜストがないのかといって聞かれることもたびたびである。

別に大した理由はない。

私が西武鉄道から財産をつくっていないということ。

人事に公平だということ。

従業員と一緒に仕事をしているという気持ち。

そんなことがあげられるのではなかろうか。

 

 

 

 

 

堤康次郎(西武グループ創業者)とは?

 

 

堤康次郎。

1889年(明治22年)生まれ。

 

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)に農業兼麻仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。

4歳で父を腸チフスで失い、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

 

1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し彦根中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配したことから進学を断念して農業に従事する。

 

1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。

翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出す。

 

1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。

同年に祖父が死去。

 

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。

早大では弁論部と柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた。

 

また政治活動にも熱中し、中橋徳五郎の応援演説に大阪まで出張ったこともある。

このように、大学時代に経済活動、政治活動において経験を積んだ。

 

1913年(大正2年)3月に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業(政治学士号を取得)すると、大隈重信が主宰し主筆に永井柳太郎を据えた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に社長として経営に携わった。

 

首相桂太郎による立憲同志会の結成計画に永井らも参加すると、これを追って創立委員に名を連ね、桂を介して後藤新平を、更に財界の大物だった藤田謙一を紹介される。

だが名士とお近づきになるのとは裏腹に『新日本』を含めて康次郎の事業は何れも巧くいかず、不調を挽回しようと手を出した真珠の養殖も失敗。

 

結局、最後の望みを不動産事業に託し、『感謝と奉仕』を生活信条とする。

康次郎が最初に不動産事業に着手したのは、沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)の別荘地開発だった。

 

1917年(大正6年)12月の区民総会での了承を経て60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で売却し、50軒の別荘を分譲することを条件として契約が成立した。

 

千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。

沓掛の土地を一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始め、その収益を基に1919年(大正8年)箱根の強羅に10万坪の土地を買収した。

 

翌1920年(大正9年)には千ヶ滝遊園地を清算し、同じく藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立。

更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収したり、1923年(大正12年)には駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握していった。

 

関東大震災後には都内皇族・華族の大邸宅を買収し、目白文化村など住宅地として分譲した。

1924年(大正13年)の総選挙に滋賀5区(当時)から衆議院議員に立候補する。

 

以後、途中の断続を経て衆議院議員には計13回当選。

当選後は立憲民政党に所属し、1932年(昭和7年)6月斎藤実内閣で拓務政務次官に就任した。

 

政界進出後も事業欲は衰えを見せず、大泉学園や国立・小平学園都市開発に着手し、東京商科大学の誘致に成功すると共にアクセス鉄道として多摩湖鉄道を開通。

大泉学園開発では沿線を走る武蔵野鉄道との関わりが出来、1940年(昭和15年)には大株主の浅野財閥からの株式を買収して多摩湖鉄道をこれに合併させた。

 

太平洋戦争中は武蔵野鉄道に加え(旧)西武鉄道の経営に参画すると共に、都内の糞尿処理対策や流木対策として糞尿運搬や木工業、更には合成ゴム・化学肥料製造、果ては銀行業(高田農商銀行)にまで事業の手を広げた。

 

戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担で困窮した旧宮家や華族が都心部に所有していた邸宅地を買い取り、華族やその関係者をグループで雇用して生活の安定に寄与するとともに、邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。

 

1953年5月18日、衆議院議長に就任。

大津市の米軍キャンプ地返還や膳所刑務所移転等、今日の大津市の基盤づくりに大きく貢献したため、1957年(昭和32年)に大津市初の名誉市民の称号を受賞した。

 

康次郎は、1963年(昭和38年)の総選挙で13回目の当選を果たすが、この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。

 

池田勇人と仲が良く、派閥の色分けで言うと宏池会に属す。

1964年(昭和39年)4月、国鉄東京駅の地下道で昏倒し緊急入院。

 

4月26日に心筋梗塞で死去。

 

 

 

 

 

厳選!堤康次郎(西武グループ創業者)の珠玉名言

 

 

 

 

景気の良い時は抑えろ、不景気の時に動け。

 

 

 

全員が賛成したら、その計画は危ない。

 

 

 

日本が発展すれば中産階級が台頭し、リゾート地の需要が大きく高まる。だから中産階級が使えるリゾート地を開発することは、国のためになるのだ。

 

 

 

「みながやるから自分もやる」ということで、無理をしてまで仕事をしようとするな。

 

 

 

 

人のやらぬこと、人のやれぬこと、やはりそれを自分自身の頭で考え出してやらねばウソだ。しかも、それが金儲けのための金儲けでは、決してモノにならない。

 

 

 

私は三十歳になるまで、百事百敗、何をやっても大した成功はおさめなかった。だます人間をあまりにたくさん相手にしたからである。しかし、今になると、これが私のたいへんな得になった。だますことは一ペンコッキリだ。あとが絶対通用しない。そのうえ、十を得たところで百を失い、千を失う。元も子もなくす損な生き方だ。そこへいくと、だまされるのは生来の馬鹿でないかぎり、それによってたいへん知恵がつき、用心深くなる。二度と再び失敗せぬように警戒する。それがあとでどれだけの得になるか、測り知れない。

 

 

 

 

私は20歳代の時には、儲かりそうな仕事に見境なく飛びついた。そしてことごとく失敗した。30歳代に入ってようやく目は覚め、今度は人のやらぬこと、人のやれぬことのみをやった。

 

 

 

相手を騙す気が無くても、騙されたと思わせるような曖昧な態度だけは、断じて取ってはならない。

 

 

 

ごまかし、曖昧さ、嘘というものは、一度は通じても二度三度は通じない。

 

 

 

すべて成功するには、失敗の原因を外に求めず、己れに求めることが大切である。

 

 

 

それまでに経験した失敗は、人生観を見出すための月謝と思えば安いものだ。

 

 

 

自分は生きている値打ちのない人間だとまで思った。思い悩んだ末に考え付いたのが「儲けようと考えたのがいけない」ということだった。自分は儲けなくてもいいから、この世のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。

 

 

 

 

 

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