経済の流動変化に対応する唯一の策は過去の固定観念の50%を切り捨てて新しいものに換えていく勇気である。
山本猛夫。
福井県丹生郡三方村(後に清水町を経て、福井市の一部)に生まれる。
1935年、大阪に出て、前田軍治商店(後の前田金属工業?TONE)の丁稚奉公に入り、働きながら夜間の大阪市立第二商業学校(後の大阪市立市岡商業高等学校、大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校の前身のひとつ)に学んで1940年に卒業する。
1941年に前田金属工業の取締役となるが、1943年には独立して前田金属工業を離れ、1947年に山善工具製販(後の山善機械器具?山善)を創業して社長となる。
しかし半年後に召集を受けて休業。
1947年(昭和22年)5月復員し事業を再開、福井県福井市において工具等(現・機械工具部門)の販売を目的とする山善工具製販株式会社を設立。
1951年(昭和26年)9月本店を福井市より現大阪本社に移転。
以降、個性的な経営手腕を発揮して「モーやん」の愛称で知られ、一代で山善を有力な機械商社に成長させた。
1962年(昭和37年)10月大阪証券取引所市場第二部に上場。
1970年(昭和45年)2月大阪・東京両証券取引所市場第一部に上場。
1991年には社長の座を次男の山本雅俊に譲り、会長となったが、程なくして死去。
花登筺の小説で、後にテレビドラマ化された『どてらい男』の主人公「山下猛造」は、山本をモデルとしている。
世の中はいま円高で混乱し、対応に苦慮しているが、私はむしろ、円高歓迎の心がまえでいる。というのも、これをきっかけに今後の経済の流れが大きく変わっていき、それに便乗して新たな発展が見込まれるからである。
やったものがやっただけ報われる やらなかったら それだけ報われない。
私は、いつも自分の脳みそ100パーセント使います。だから死ぬときには、ゼロになっていますよ。私などは小学校しか出ていないし、学問も能力もないですが、経験のなかから編み出した学問ちゅうのは、そこらへんの大学の経済学の先生が束になってかかってきても、そりゃ私の方がうまいと思います。
自分を谷底へ突き落とせ、そして自分で這い上がれ。
青春とは肉体ではない。
わしは自分であみ出した経営学であり、経営哲学であるから死ぬまでに全部使ってカラになってしまいます。
点数を取るための勉強じゃなくて、自分自身が逞しく生きていくための勉強をし、激しい経済活動に耐えるだけの体力を自ら作り、そして現状に甘んずることなく明日のために努力していくこと。
自主独立ですからね、われわれの考え方は、他の協力は求めても、いっさい依存はしません。社員にも言っています。君たちの協力は求めるが依存しないと。山善の社員一人一人も自分の将来というものは会社に依存するな、将来は自分自身で築き上げていくものだ。
他人から自分の悪いところを指摘されたら礼を言え。
にあにごとも善循環させていくことだ。
時間を過ごすのと時間を充実させるのとは大きく異なり、人間の生き方を変える。
肉体の使用には限界があるが、頭の使用は無限である。
上司や同僚に気を使うために会社へ来るな。
商売における共存共栄は対等の立場で堂々と取引することから始まる。
会社や人にとって重要なのは現在と未来をどう生きるかである。
これからの会社は資本・経営・労働の三者共存共栄の運営を進めるべきである。
人権の平等は、良くやった者が、それに相当する報酬を受けることである。
商売は理論と行動の調和である。
今日という日は昨日の続きではない。今日は明日の前日である。
麦は踏まれて強くなる。人は苦難に打ち勝ってこそ新しい能力が出るものである。
人の価値はどう育ったではない。どう生き抜いたかである。
苦楽は人生行路の偉大なる学習である。自習自得を繰り返し、その中に本当の生き方を求めよう。ライバルを求め、モデルを求め、自分のものにしてゆくことがプロの途(みち)である。