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株式会社ビザスク創業者:端羽英子、採用において最後に大事にしていることとは?

 

採用において最後に大事にしていることとは?

 

 

端羽英子/ビザスク

 

 

私たちが採用において最後に大事にしているのは「いいやつであること」「チャーミングなポイントがあること」です。

特に、研究機関やR&D室といったところに提案する際は、技術シードの段階だと費用対効果の説明が難しいです。

実用化のネタを探しているような段階なので、どれくらいのリターンがあるかが説明しづらいケースもあるんですね。

その中で、お客様の未来を一緒に描き、ビザスクに期待してもらうときに必要なのは、信頼であったり、人的な魅力だったりします。

お客様に「この人なら信頼できそう」「一緒にがんばってくれそうだから任せてみたい」と思ってもらえるかどうかが大事です。

相手の目線に立った仕事でイノベーション創出に貢献したい、という人は、ぜひ仲間になっていただきたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

端羽英子(ビザスク創業者)とは?

 

1978年熊本県生まれ。

東京大学経済学部卒業後、ゴールドマン・サックス証券に入社も1年で退職。

 

日本ロレアル、米国留学、ユニゾン・キャピタルなどを経て、2012年にビザスクを創業。

社外の人の知見を必要とする企業と、専門的知見や実務ノウハウを持つ個人をマッチングし、1時間という短時間のコンサルティングを提供する「スポットコンサル」を主力とするベンチャー。

2020年3月に東証マザーズに上場。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

端羽英子(ビザスク創業者)の「コトバ」

 

 

 

 

高校を卒業するまで熊本市内で育ちました。ただ、肥後銀行に勤めていた父の転勤に伴い、幼稚園から小学1年の途中までは兵庫県尼崎市で過ごしました。幼い頃から竹を割ったような性格でしっかり者だったようですよ。小学校に入学したときは、母から「子育てが終わった」と、自宅の鍵を渡されました。母は専業主婦だったのに「鍵っ子」だったのです。熊本に戻るときは友人と別れるのがつらくて泣いた記憶があります。ですが、そこは子供。わずか1週間で関西弁から熊本弁に戻りました。実家の周辺は田舎っぽいのんびりとした場所でした。テレビゲームを禁止されていたので、田んぼに基地を作ったり、何時間もかけて犬の散歩をしたりして遊んでいました。勉強が好きで冒険小説を中心に、本もよく読んでいましたね。

 

 

 

 

 

 

3人姉妹の末っ子で、一番上の姉とは10歳離れています。父からは長男のように扱われました。「なぜ銀行が経済に役立つのか」といったお金の流れの仕組みも教えてくれました。そこで得た知識を元に、父親相手の“貸金業”を営んだこともあります。当時は土日に現金を引き出せなかったので、父が週末に現金を必要とした場合、金利付きでお金を貸して月曜日に返してもらっていました(笑い)。父はとにかく仕事に誇りを持っていました。私が大の仕事人間なのも、その影響を強く受けているのでしょうね。中学に進学すると勉強面でのライバルが現れました。負けん気が強かったので競い合いました。彼女は結局、東京の高校に進学しますが、同じ大学で再会します。勉強と並行して熱中したのがソフトボールです。ポジションは捕手。本当は球技が苦手だったのですが、克服するために頑張りました。高校は熊本高校です。自分で言うのも何ですが成績はよく、入学後に行われた在校生向けのあいさつでは代表を務めました。弓道部に所属していたのですが、2年生のときに退部して「小説を書いてみたい」という理由で文芸部に入りました。もっとも受験勉強の合間に読書するといった感じだったので、平岩弓枝や司馬遼太郎の歴史小説が好きでした。そんなこともあって、月に1回のペースで遠出し、田原坂古戦場などを巡ったりしていました。今でいう「歴女」でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

現在、ある程度の英語を話せますが、その基礎も高校時代に築きました。ネーティブティーチャーに英語の日記を毎日持参し、添削してもらっていたのです。自分の思いを赤裸々につづっていたので、今考えると恥ずかしい思い出ですが。大学は京都大学の史学科を希望していました。しかし、父が東京に単身赴任していたのに加え「文学部で食べていけるのか」といった意見も踏まえ、東京大学を受験、合格しました。これを機に母も上京します。すぐ上の姉も東京の大学に通っていたので、家族4人で渋谷に住むことになりました。家の扉を開けると熊本弁が飛び交っていたので、自宅は「リトル熊本」といった感じでした。

 

 

 

 

 

 

私は3姉妹の末っ子なんですが、熊本の長兄の家系で、家族からは今度こそ跡継ぎというか男の子を期待されていたそうです。なのに、また女の子が生まれたため、開き直った母が、私を男女の区別を持たないように育ててくれました。母はもともとウーマンリブ的な性格もあったのだと思います。その影響があってか、私の中に男子と女子の違いとか、女子だからとか、そういう考えはまったくありませんでした。小さいころから考えていたのは、“歴史に名を残したい”ってこと。戦国武将とかをカッコいいと思ってあこがれていました。勉強は好きだったので、東大へ進学しました。ところが、大学3年のときに恋に落ちてしまいます(笑)。恋に夢中になってしまい、もう勉強なんてやってられません。そこで、経産省はあきらめました。彼と結婚することを真剣に考え、そのとき初めて、子どもを産むことを意識し、子育てと仕事の両立しやすいシンクタンクを就職先に考えたりするようになりました。でも、実際には、証券会社に就職しました。でも、恋心は勢いを増し、大学4年の卒業間際のタイミングで彼と結婚しました。うちは母も姉も結婚が早かったので、特に年齢のことは気になりませんでしたし、反対も特にありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

父が地元の地方銀行に勤めていて「お金を貸す銀行が産業をつくっているんだ」という話をよくしてくれていたので、金融は面白い、という思いがありました。都銀ではなく投資銀行だったのは新しい金融の分野にチャレンジしたかったからですね。それに、日本の企業は入社後どの部門に配属されるかわかりませんが、ゴールドマン・サックスは「貴方はこの分野のプロになりなさい」という感じで専門分野を決めて就職できるのがいいなと。自分も「この分野のマーケットを創っていきたい」という思いで入社を決めました。

 

 

 

 

 

 

2001年に新卒でゴールドマン・サックスの投資銀行部門に入社したのがスタートです。噂にたがわぬとても忙しい仕事でしたね。入社後いきなりスターバックスコーヒー・ジャパンのIPO案件に入りまして、夜の12時に帰宅したら「早いね」と言われてしまうような生活でした。仕事は面白かったのですが、当時私は学生結婚をしていて、入社1年弱で子供ができたことをきっかけに「すみません、子育てがしたいです!」と言って退職をしました。でも、働く気はちゃんとありまして(笑)、退職後すぐに米国公認会計士の資格を取り、子供が生後9か月のときに日本ロレアルに入社しました。ロレアルでは「ヘレナ・ルビンスタイン」ブランドの予算作りや管理業務を担当させていただき、とても充実していたのですが、そこで1年半働いたころ今度は夫のボストン留学が決まり帯同すべく退職しました。アメリカでは丁度私もMITスローンスクールに受かりまして、ママさんMBAとして2年間勉強しました。ただ、卒業するころには離婚もしていたのですが(笑)。

 

 

 

 

 

 

卒業後はユニゾン・キャピタルというファンドに入社し、5年間ほど企業投資を経験しました。ワインショップや回転寿司店など、いわゆる「成熟産業」と呼ばれるところに投資をして、再成長を手助けしたのです。そこでしみじみ思ったのが、「銀行は、相手が成熟産業であれば、ちょっとでも芽があると低利でお金を貸してくれる」ということ。また、お金はともかく、人や情報が流れていないのではないか、とも。やがて、そういったサービスを作りたいと考えるようになったんです。たとえば、投資したい企業があり、その業界のことを調べたいと思っても、最適な人を見つけることができない。また、ワインをEコマースで売ろうと思っても、EC業界について知らなければ人を採用することもできない。そうしたときに、人や情報を集めることができれば便利ですよね。「人が持っている情報が動くサービス」を作りたい、と思ったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

会社に入社した直後、私だけ名刺やもろもろの手続き書類なんかが遅れていたのを見て、申し訳ないことをしたな、と思いました。仕事を始めた1年目に妊娠しました。つわりがあまりにひどく退社することに。正直、仕事的にはかなりハードだったので、妊娠がわかったときは「これで辞められる」と思ったぐらいです。退社してからは、産後はスーパー派遣社員になろうと思って、米国公認会計士の資格を取得しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「歴史に名を残すためにはイチビジネスマンでは難しいな」ということです。周囲は官庁を目指す人が多く、まずは経産省を希望するようになりました。外国にも行きたいし、新しいことを生み出すことをしたい、って思うようになっていたので、経産省なら叶いそうだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その資格を持ってロレアルに再就職するのですが、子どももいたので管理部門に配属され、規則正しい時間に帰ってこられたのはありがたかったです。その後、夫が海外でMBA取得のために留学するタイミングで退社し、一緒に渡米しました。自分もMBAを取得するつもりだったので、MITに願書を出しMBAを取得しました。ただ、このアメリカ留学中に、彼とは離婚することになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本に帰国してからは、自分の力で子どもを育てなくちゃ! という思いもあり、投資会社に就職しました。独身だった姉と同居して、子育ては手伝ってはくれないのでシッターさんを雇っていたりしましたが、いてくれるだけで安心という心の支えを得て働いていました。その会社では、私は最年少だったんですが、どうしても自分が正しい評価をされているように感じられず、周りからは「順調じゃん」と言われても信じられず、独立して自分の責任で仕事をしたいと思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

アメリカでは、ゆくゆくは起業をしようと思いビジネススクールに通ったのですが、帰国時にはまだ子供も5歳ということもありまして、起業どころではなかったため、まずは経験を活かしながら、かつ経営層に近い立場に身を置き仕事をしようとユニゾン・キャピタルという投資ファンドに入り5年間働きました。そして2012年に起業したというのがこれまでの流れです。

 

 

 

 

 

 

辞めるときはつわりもひどかったですし、やはり夜の12時まで働いて「早いね」と言われる環境で子育てをしていたら「私だけ早く帰ってごめんなさい」とチームの皆に遠慮しながら働かなければいけません。それより皆8時には帰宅する職場で、過剰な配慮などしてもらう必要なく働けるところがよいと考えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

MBAに提出するエッセーにも「起業したい」と書いたのですが、ビジネススクールに行って痛感したのは「世の中には凄い人が本当にたくさんいる」ということでした。当時のボストンはバイオベンチャーブームで、技術も経営もわかる人たちがどんどん起業プランを練っているような状態で、私の「起業したい」という想いはまだまだ甘い、準備不足だとも感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

社会人1年目で子供をつくり会社を辞めたことでサラリーマン社会の上に登っていく自分の姿がイメージしにくくなりました。既存の会社組織の枠組みの中で、自分がトップになることはないだろうなと。かつ働いている人なら皆、一度は一国一城の主になってみたいものじゃないですか。ですので、トップになるためには絶対に起業は自分の人生のなかで一回はするだろうなと、これはごく自然に思っていましたね。

 

 

 

 

 

 

まず経営に近い仕事をしたいという気持ちがありました。かつ金融の仕事もブランドマネジメントの仕事もとても面白かったので、それらを総合的に実践できる環境としてプライベートエクイティという仕事を選びました。ユニゾン・キャピタルでは投資案件のソーシング、投資スキームの検討、ファイナンスのアレンジ、そして投資した企業に入り込み「一緒に会社を変えていきましょう」と業務改革をプロデュースするような仕事もしていたのですが、とてもエキサイティングで非常に面白かったですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

私はユニゾンのなかでは若手だったんですね。なのでそこから次のステージへ成長するには今の延長線上では難しいかもしれないと思っていました。「与えられた仕事をしっかりこなす人」から「リーダーシップを発揮して案件を引っ張る人」になるには、社内での立場を考えると少し遠慮する部分もありましたし、自分には足りない要素もあるなと感じ始めた時期がありました。 また、実は同じ頃子供から「中学受験をしたい」と相談を受けたんですね。さすがに投資ファンド勤務をしながら子供の受験の準備を手伝うことは難しい。そのとき、これはタイミングだなと感じました。そこで「娘の受験サポートもありますが、いちばんプレッシャーをかけられる状況に自分を置いて、自分を成長させたいんです」といってユニゾンに退職を切り出しました。そのとき、「そんなプレッシャーの高い状況で本当に頑張れるのか?」と周囲からは言っていただいたのですが、「だって、自分のポテンシャルは自分が一番信じてあげないといけませんよね」と啖呵を切ったのは、いまでもよく覚えています(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

まず自分は事業がうまくいくと思っているから起業するわけですし、万が一うまくいかなくても会社勤めでは絶対にできない起業という経験をすることで、数年後の自分の価値は必ず高まります。そう考えるとリスクなんてどこにもありません。不安は正直全くありませんでした。ただ、会社に「辞めます」と言った時点では、ビジネスプランはなかったのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

「個人の知識や経験が世の中ではもっと活かされるべきではないか」というテーマはずっと持っていて、この線でビジネスプランを100個くらいつくりました。しかし、私の周りには起業している方が少なかったので相談する人がおらず、知り合いの伝手をたどってある著名な経営者をご紹介していただきました。その方に自分のビジネスプランをぶつけてみたところ「成功確率ゼロだよ、これ!」とこてんぱんに叩きのめされました。そのとき私はひどく叩きのめされたのにもかかわらず、「これです、これ!」と嬉しくなっちゃいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

いくつかビジネスを考えて、人に相談してというのを繰り返し始めました。私の基準は自分が使いたいと思うサービスであることでした。家事代行サービスや美肌情報なんてものも考えました。あるとき、キュレーション系のECサイトを考えたのですが、専門知識をもった方に相談させてもらうために、何人かの人づてでようやく会えたということがありました。ビジネスとしては、コテンパンにダメ出しされました(笑)。でも、この経験こそが、次のビジネスモデルの基本となったんです。相談された人にとっては日常的に仕事で使っている当たり前の知見や情報だけど、私のようにその世界に疎い人間にはのどから手が出るほど欲しい情報だということです。しかも、その知見を持った人にたどりつくまでに相当の時間がかかったんです。なので、最短で自分が求める情報を持っている人につながれるプラットフォームを作ったら意味があるんじゃないか、と思いつきました。また、当時私がしていた仕事は、新事業を立ち上げようとしている方たちが相手なので、さまざまな知見を求めています。これだ! と思い、独立をしました。

 

 

 

 

 

 

 

実際に自分でビジネスをしているわけではないコンサルタントの方のアドバイスは「本当かな?」と思う部分が正直ありますが、やはり実践している方のアドバイスはスッと腹落ちしたんですね。そして「コンサルタントではなく、それぞれの分野を実際に経験している人からリアリティのあるアドバイスを受けられるサービスはどうでしょう?」とその方に相談したところ、「アメリカには料金の高いサービスだけど、あるよ」と教えてもらいました。調べてみるとアメリカのサービスは一部の凄い専門家と、高いフィーを払える一部の会社をつなぐサービスでした。それを日本向けにアレンジし、一部の著名な専門家だけでなくその分野を実践している人なら誰でもアドバイスでき、一方で大企業だけでなく中小企業も手軽に利用できるサービスをしたいと考え、つくったのがvisasQ(ビザスク)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年の7月から動き始め、いまうちにいるエンジニア2人が他の仕事をやりながら週末に手伝うような形で、最初はゆるゆるとシステムをつくっていきました。そして12月に出したベータ版はいま見るとどうしようもないものだったのですが、多少なりとも人に利用してもらううちにだんだん面白くなっていき、登録者も増えていきました。ただ、本当に気合が入ったのは翌年の5月からですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがたいことに、会社は着々と成長していき、社員の数も増えてきました。そんな中、最初のころのメンバーが辞めることになったときは、本当につらかったですね。最初は少人数でみんながフラットな立場でチームのように働いていて、すべての情報が共有され、みんなで決めていくような状況でした。それがどんどん業務分担され組織になってきました。今までは自分は辞める側の立場だったのが、辞められる側になったことにも気づきました。ビジネスにおける問題点はどれも解決できることだと思うし、社内の問題も解決したいと思っていました。でも、会社全体としての全体最適は、その人にとっては最適ではないかもしれない。仕方ないことではありますが、気持ちはなかなか割り切れませんでした。本人の目標と会社の目指す方向が最初は同じでも、途中で違っていくことは多々あります。それでも、「自分のせいなんじゃないか?」「私は何のために会社を大きくしているんだ?」ということを何度も何度も問いかけていました。自分の中で、会社を続けるための正しい選択をしていると確信し、また、どんなに組織が大きくなってもちゃんと社員ひとりひとりを大切に思う気持ちに変わりはないと、自信をもって言えるようになったとき、そのつらさを乗り越えることができました。もちろん、そういったミスマッチが起きないようにしているので、辞める人はほとんどいないんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンチャーキャピタルからお金を調達しようと思いお話をした方がいたのですが、「よさそうなアイデアだし、コンセプトも、見ている市場も悪くない。でも投資は難しい」と言われたんです。「なぜですか?」と問うと、「チームに気合が足りないからです」と。その時点では手伝ってくれていたエンジニアがまだ他の仕事をやっている状態で、「彼に決意をさせられないあなたのリーダーシップに問題がある」「他のチームよりこのチームが絶対勝つ、という気がしない」とズバリ指摘されて、なるほどと。悔しさと共に自分にスイッチが入った瞬間でした。そこからですね、経済産業省の委託案件が取れたり、エンジニアも当社でフルに働くことを決意してくれるなど色々なことが動き出していきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分一人なら、何かしらで食べていけます。でも実際にビジネスを始め、人をチームに引き入れて初めて「他人の人生を巻き込むリスクがあった」ことに気付きました。いま、うちのチームは「雇う・雇われるの関係ではない」と言ってはいますが、そうは言っても巻き込んでいるのは確かです。襟を正されるような思いがしますし、気合も入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現状は進歩してはいますが、まだやりたいことの1%もできていない感じです。visasQが目指しているのは日本で働く人がみんな登録していて、自分の知識を活かしたい、その分野のプロのアドバイスが欲しい、あるいは商談で会う相手について「どんな人だろう」と調べたいときにアクセスするデータベースになりたいと思っています。東京の企業に勤める人の知識は地方の企業にも役立ちますし、日本企業に勤める人の知識は世界の企業にも役立ちます。その逆もまた然りで、たとえば日本企業が海外進出するときに現地の人の知識を活かせるような、そんな仕事に関する知識と経験のデータベースにしていきたいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

ビジョンや、世界をどう変えたいのかについて漠然と考えてはいたのですが、「それを言葉に出さない限り、あなたには誰もついてこない」と言われて、確かにそうだと思いました。本当に、皆さんあっての私だと思います。私のビジネス人生は、就職、退職、留学、転職、起業とキャリアとライフイベントが密接に絡み合っています。ただ、常に「自分は成功できるはず」、と自分のポテンシャルを強く信じて決断行動するようにしています。その結果、有難いことにこんな自分を応援してくれたり、指摘していただける方々にたくさん出会えている気がしています。本当に感謝の気持ちで一杯です。

 

 

 

 

 

 

 

40歳の誕生日、会社でお祝いをしてもらったとき「40代はどうなりたい?」と社員に聞かれました。そのときふと出てきた言葉が「穏やかになりたい」でした。30代は自分が自分がという一生懸命さと焦りがあってとがっていたけれど、今は会社も大きくなってきたので、私は穏やかになって、社員みんなが輝ける場を作りたいと思っているんです。でもそれは決して社員のためだけじゃなくて、みんなが前向きにキラキラと仕事に取り組むことが、会社の理念をかなえたり、私自身もやりたい仕事をすることにつながるから。翻って「自分だけではなくチームがハッピーなほうが、私のやりたいことがやれるな」と気づいてくれる20代、30代が増えるといいなと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起業したときは自由で開放された気持ちだったんです。新しいビジネスだったので、誰かと競争するということもなくて。実績もなければ失敗もない。最初は何をやっても「新しいね! 面白いね!」と褒めてもらえることが多くて、自由かつ「初めてなのに焦るなんておこがましい」という謙虚な気持ちしかありませんでした。なので、いろいろな人に話を聞きにいったり、教えてもらったりしたんです。それは今の事業の形にもつながっています。最初の時期が過ぎると、ちゃんとビジネスにしていかなきゃという焦りはもちろん生まれましたけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分がキャリアを転々としていたので、自分なりの「強みの作り方」ということに関しては、大事なテーマだと思っていたのです。大企業に守られているわけではなかったので。弊社のサービスは、情報の販売とキャリアの発見という両方を満たせるサービスだと思っています。アドバイザーさんにとってみると、自分の強みの再発見になりますし、何かに挑戦したい企業にとっては課題の解決になる。それが今まででは、転職や独立してフリーランスという形でしかマッチングできていなかった。そこで、もっと気軽にチャレンジできるようになれば、と。そういった思いがサービスの根底にあります。だからこそ私たちは有料にこだわっているのです。自分の価値を再発見するためには、そのスキルに対してどのくらいの値段をつけた人がいたか、ということを知る必要があります。たとえ(副業禁止規定などで)お金を受け取れなくても、そのスキルがいくらだったのかを知ってほしい。だからこそ“有料”サービスなんですね。実際問題、必ずしもみんなが転職する必要はないと思っていますし、仕事が楽しい人も多いでしょう。ですので、自分のスキルに対してニーズがあると気づいてもらえるだけでもいい。過去の経験が良い経験だったと再発見してもらうだけでも構わないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年の7月に会社を辞め、12月にビザスクのサービスをベータ版としてリリースしたとき、フルタイムで働いていたのは私だけでした。エンジニア二人が土日にタダで手伝ってくれているという状態で。勉強しながらやっていたので、最初の一年はこれが本当にものになるのかと思いながらやっていました。それこそ、いろんな人にアドバイスを求めに行きましたね。そこでダメ出しされて改良するというくり返しで。一度、子どもに「またダメ出しされちゃったよ」と言ったら、「大丈夫だよママ! ダメ出しされたということは、もっと良くなるということだから!」と励まされました。ちょうど一年後ぐらいですかね。2013年の7月に経産省からお金をもらって、そこでチームがフルタイムになってくれて。それからようやく、事業がまわり始めました。それまでは、やると決めたけどどうすれば良いのか、という感じで大変でした。その後の一年はまた別の意味で大変で、説明しなければならないことも多くなって。「本当にユーザーは伸びるのか」とか、「仮説は正しいのか」とか。五里霧中だった時と、数字を伸ばさなければならない時。今思えば、そのどちらも大変でしたね。最初の一年ぐらいは、みんなに「いつ辞めるの?」と言われました。スタートアップに挑戦した気概は買ってもらえましたけど。ちょっと大きくなったスタートアップに「うちにジョインしなよ」みたいなことも言われました。昔「ソーシャルランチ」というサービスがあったのを覚えてますか? そこで「こんなサービスをやってみようと思っているのですが、意見くれる人募集」というようなことをしていたんです。やっぱり、出会うとつながります。なかには「立ち上がらないと思うよ」とおっしゃる方もいましたが、なんとか立ち上がりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オープンイノベーションのための環境を作りたい、それを通して会社を元気にしたい、知見のある個人が活躍できる社会にしたい、プラットフォームを作ることが面白い、ビザスクのカルチャーが面白い、本当にバラバラです。ただ、そんな多様な人が集まっても、楽しくディスカッションできる環境を作ることは大切にしています。だから、さっきもお話ししたように「いいやつ」であることは大事にしていますし、実際「いいやつ」が多いですね(笑)。具体的に言うと、「エゴでものをネガティブに判断してしまう批評家タイプ」は、ビザスクにはいないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、新プロダクトを考えることは、全員がやればいいと思っています。その中で、よい提案があり、トライしてみて形になるようなら、専任をつけて本腰を入れてやればいいという考えです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

データベース業の一つのあり方として、クックパッドさんのような在り方は一つ参考にしています。大量のデータを蓄積することで、それを元に有料課金をしたり、商材展開をしたりすることができますよね。ビザスクだと、日本をはじめとした世界中の知見・情報が集まるデータベースがあります。これを使って、どう商材開発していくか、ということが試される段階に来ているのかな、と思います。

 

 

 

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