一つの事に成功した時にも同じようなことがいえる。
一つ成功すると何をやってもうまくゆくように思って手を広げる。
最近の倒産劇には、手を広げすぎてトガメを受けた例が多いようだが〝一人一業〟とは、こんな結果になることを戒めた言葉である。
もっとも一業に専念するには忍耐がいる。
器用な人には苦痛がともなうことだろうが、一つの道に専念すると、意外に新しい展望が開けるものだ。
安井正義。
1904年(明治37年)名古屋市熱田区にて6男4女の長男として生まれる。
父兼吉は熱田歩兵工廠に勤務する職工であったが、無類の機械好きで、1908年、27歳の時に、自宅に「安井ミシン商会」の看板を掲げ、ミシンの修理販売業に専念することとなった。
兼吉は体が弱く、そのうえ、腕ひとつで10人の子供たちを養わなければならず家計は楽ではなかった。
1918年に第1次世界大戦が終わると、世界的な不況の波が押し寄せた。安井ミシン商会でも、ほとんど仕事がない日々が続いていた。
1921年、17歳の正義は、大阪でミシン修理業を営む松原商会へ修業に出た。
大阪はミシンの本場である。
しかし出回っていたのは95%がアメリカのシンガーミシンで、残りはドイツとイギリスのものだった。
国産ミシンはついぞ見かけることがなかった。
当時、シンガーは訪問販売、月賦販売システム、アフターサービスの良さで他社を駆逐し市場を独占していた。
その支配力をまざまざと見せつけられたのである。
こうして正義は、その一生を決定づける重大な決意を心に期していた。
国産ミシンで「輸入産業を輸出産業にする」という決意である。
ミシンの製造には少なくとも150万円、現在の価値で10億円以上の資金が必要だった。
常識的に考えれば、17歳の少年にとってそれはどう見ても夢物語である。
正義は、資金がないならミシンを作る機械も自作しようと考えた。
しかし、その機械を作るための機械も必要である。
そこで思いついたのが水圧機の製作だった。
安井ミシン商会が修理していたミシンはほとんどが麦藁帽子製造用のカンヌイミシンで、得意先の帽子メーカーでは、ミシン以外に帽子をのばす金型と水圧機が必需品だったのだ。
さっそくなけなしの資金で工作機械を買い独力で据え付けた。
作業は正義が中心となって、次男の種雄が販売を担当し、小学校を出たばかりの四男実一が現場仕事を手伝った。
こうしてミシン国産化をめざして安井兄弟の力が結集されていくこととなった。
安井式水圧機は好評で、資金作りに大いに役立った。
1925年(大正14年)兼吉の死去に伴い安井ミシン商会を継承、安井ミシン兄弟商会に商号を改めミシン製造をはじめる。
1927年、カンヌイミシン国産第1号機が完成し、翌年発売となった。
これは昭和3年に発売されたことから「昭三式ミシン」と命名され、同時に商標として、兄弟が協力した和の成果にちなみ「ブラザー」と名付けられた。
昭三式ミシンはひとたび市場に出ると、外国製ミシンの10倍の耐久力を持つと評判になり注文が殺到した。
四男実一は技術力に秀でていたため、ミシンの心臓部といわれるシャトルフック(中釜)の研究に専念することになった。
シャトルフックはミシンの最も重要な部品で、国産化の重大な鍵を握るものだった。
例によって機械設備まですべて自分たちで作らなければならない。
特に研磨機はまだ希少価値の高いもので、これを設計するために名古屋中を探し回り、ようやく見つけて見よう見まねで作り上げた。
こうして悪戦苦闘の末、1932年春に工場設備が完成し、夏にはシャトルフックの量産化に成功したのである。
そしてその年の暮れ、ついに長年の夢であった家庭用ミシン1号機が完成した。
1934年(昭和9年)には組織変更し、ブラザー工業の前身となる日本ミシン製造株式会社を創立し社長に就任した。
1950年(昭和25年)には会長に就任。
1954年、日本ミシン製造は、自社ブランドを自社の販売網で売るために、海外市場を担当するブラザー・インターナショナル株式会社(BIC東京)を東京の京橋に設立、その2カ月後にはBICニューヨークを設立して、全米をカバーするブラザー製品の販売基盤を確立した。
やがてブラザーミシンはその優れた品質でアメリカでも人気を博し、「輸入産業を輸出産業にする」という正義の夢はひとまず達成された。
1964年(昭和39年)昭和法人会会長。
その後1990年(平成2年)8月23日、86歳で死去。
(舶来品ばかりの)ミシンを国産化したい、輸入産業を輸出産業に変えたい。
平凡な人間には一つのことに成功するのも容易でない。
私は考えたものである。金のある人は、ミシンは儲からないからやらない。となると一体、日本ではいつになったらミシンができるのかと。そこで、どうしてもやる人がいないなら、この俺がやろうという意地っ張りな気持ちが出てきた。そしてこれに当たった。だが、機械や工場設備が必要である。資金も必要である。しかし、当時の私に金を貸してくれる銀行などありはしない。あらゆる問題をかかえて何もかも一人でやらなければならなかった。こうして、国産化ミシンへの私の作戦はスタートしたのである。
舶来品に負けない国産品をいかにつくるか。
不出来な物は壊せ!
委員長 ご苦労さん。XX月分で良いのならそれを了解するよ。ところで委員長、本当にそんな少ないボーナス要求で良いのかね?
なるほどシンガーはずば抜けた巨人だが、販売競争という面から見れば、そのことはかえって私どもに有利ではないのか、図体が大きければ大きいほど、小回りは効かなくなる。小さなメーカーが安い価格を武器に市場に踏み込んでも、シンガーは値下げで対抗するわけにはいかないだろう。わずかな市場を守るために全製品を値下げしたら、それによるマイナスの方が市場を失うことより大きい。シンガー恐るるに足らず。相手が巨大だからこそ負けない。
作り上げた国産品を輸出することで国のために外貨を稼ぐ。
当時もし、あり余るほどの資金に恵まれていたら、私は若さに任せてすぐさまミシン製造に乗り出し、みごと失敗したに相違ない。
勲章はいらない。全く受ける気持ちはありませんから丁重にご辞退申し上げる様に。
儲かるかどうかではない、「日本のために」やらなければならない。
事業でいうならば見込み違いは起きやすいし、情勢の急変もある。もろもろの障害にぶち当たって考え込む。〝隣のムギめし〟という言葉があるが、そんなときは人のやっていることがよく見えて、つい移り気を起こす。ところがやってみると、他人の道にはそれなりに難しさがあり、また目標を変えることになりかねない。
君の意見は?