■「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断
海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる
東洋経済 2021/06/08 新晴正
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日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。
信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。
その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。
伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。
秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。
・最初は布教を許していたが…
秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。
布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。
そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。
この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。
その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。
史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。
それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。
しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。
・西洋人が胸に秘めた「日本侵略」の意図
さて、秀吉がなぜこの追放令を出したかだが、その理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。
宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。
このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。
もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。
たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。
日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。
西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。
最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。
秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や宣教師たちの勝手な振る舞いに一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。
さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。
それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。
日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。
九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。
・『九州御動座記』の記録
「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を?ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」
同胞の若者たちが鎖につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ないカルチャーショックだったに違いない。
何とも酷たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。
これはそもそも、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にあるという。
なお、牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ。
ルイス・フロイスも日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。
大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。
するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。
この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。
海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。
彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。
この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。
こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。
そして、こうも付け加えた。
「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。
その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。
こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。
もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。
秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。
・日本史の新視点
慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。
これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。
ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。
それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。
ここまで見てくると、当時の秀吉は日本の為政者として領土や国民の安全を守るために最善の選択をしたように思えてくるのだが……。
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「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断
海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる
東洋経済 2021/06/08 新晴正
https://toyokeizai.net/articles/-/411584
■【戦国こぼれ話】豊臣秀吉が伴天連追放令を発したのは、日本人奴隷の問題だった。その衝撃の真実
Yahoo!ニュース 2021/11/21(日) 渡邊大門 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
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世界的に難民の問題がクローズアップされている。
悲しい現実である。かつてわが国でも、ポルトガル人商人が日本人奴隷を連行するという悲劇があった。
それを知った豊臣秀吉は伴天連追放令を発したのであるが、その真相とは。
・日本人奴隷をめぐる問題
天正15年(1587)4月、九州征伐を終えた秀吉は、意気揚々と博多(福岡市博多区)に凱旋した。
そこで、秀吉が目にしたのは、ポルトガル商人の準備した船に乗せられる日本人奴隷の姿だった。
この直後に発布されたのが、伴天連追放令である(この点は後述)。
翌年6月、秀吉はイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョと口論になった(『イエズス会日本年報』)。
次に、お互いの主張を挙げておこう。
◎秀吉「ポルトガル人が多数の日本人を買い、その国(ポルトガル)に連れて行くのは何故であるか」
◎コエリョ「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレ(司祭職にある者)たちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう」
秀吉が見たのは、日本人が奴隷としてポルトガル商人に買われ、次々と船に載せられる光景であった。
驚いた秀吉は、早速コエリョを詰問したのである。
コエリョが実際にどう思ったのかはわからないが、答えは苦し紛れのものであった。
しかも原因を異教徒の日本人に求めており、売る者が悪いと主張しているのである。
もちろんキリスト教を信仰する日本人は、奴隷売買に関与しなかったということになろう。
・日本人奴隷が売られる惨劇
日本人奴隷が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の右筆・大村由己の手になる『九州動座記』の次の記述である。
日本人を数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。
地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。
近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。
キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。
この前段において、秀吉はキリスト教が広まっていく様子や南蛮貿易の隆盛について感想を述べている。
そして、人身売買の様相に危惧しているのである。
秀吉は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買され、家畜のように扱われていることに激怒した。
奴隷たちは、すっかり人間性すら失っていたのである。
それどころか、近くの日本人はその様子から学んで、自分の子、親、妻女すらも売りに来るありさまである。
秀吉は、その大きな要因をキリスト教の布教に求めた。
キリスト教自体が悪いというよりも、付随したポルトガル商人や西洋の習慣ということになろう。
イエズス会関係者は、その対応に苦慮したのである。
・伴天連追放令の発布
日本人奴隷がポルトガル商人によって売買される惨劇を目の当たりにした秀吉は、九州征伐直後の天正15年(1587)6月19日に5ヵ条にわたる伴天連追放令を発した。
そのポイントは、次のとおりである。
①日本は仏教国・神国なので、キリスト教の布教は不適当である。
②宣教師は人々にキリスト教への改宗を強要するので、仏法が破滅する。
③宣教師は、20日以内に日本から退去すること。
しかし、秀吉は貿易を禁止したわけではないので、極めて不徹底なものになった。
その後も秀吉は日本人奴隷の売買禁止を求めるが、話は堂々巡りのようなありさまだったのである。
・まとめ
戦国・織豊期において、戦争時に人々が捕らえられ、奴隷になったのは珍しくなかった。
しかし、ポルトガルとの貿易が盛んになると、日本人奴隷も商品として船に乗せられ、海外で売買された。
こういう悲しい現実があったことを知ってほしいものである。
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【戦国こぼれ話】豊臣秀吉が伴天連追放令を発したのは、日本人奴隷の問題だった。その衝撃の真実
Yahoo!ニュース 2021/11/21(日) 渡邊大門 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20211121-00268894
■徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情
日本がスペイン植民地になった可能性もある
東洋経済 2020/09/05 大村大次郎:元国税調査官
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豊臣秀吉の後を継いだ徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。
家康は、征夷大将軍になったとき、イエズス会やキリスト教勢力と和解している。
「秀吉が壊した外交関係は一旦、修復させてみる」というのが家康の方針だったようだ。
が、あるときを境に、キリスト教を全面的に禁止することになる。
しかも、それは秀吉のときの「バテレン追放令」のように「自発的にキリスト教を信仰する分には構わない」というような緩いものではなく、キリスト教を完全に禁教にしてしまうのだ。
・家康がキリスト教を「禁教」にした理由
家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。
日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。
その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。
この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。
この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。
しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。
戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。
キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。
当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2?4%がキリスト教徒だったことになる。
長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100?200人程度いて、教会は200か所あった。
長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。
このキリスト教の広がりは、じつは大きな利権が絡んでいた。
天下人や戦国武将たちにとって、ポルトガルやスペインとの交易は、大きな旨みをもたらしていた。
が、それには必ずキリスト教の布教が付随していたのである。
15世紀から16世紀にかけ、ポルトガルとスペインは、世界各地への航路を開拓し、手広く貿易をおこなったが、この貿易には、キリスト教の布教がセットになっていた。
・なぜキリスト教が世界を席巻したか?
ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。
この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負ったのである。
ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師も乗っており、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみと、交易を開始したのである。
彼らが日本に来たときも、取引をおこなう条件として、キリスト教の布教許可を求めた。
諸大名たちは、南蛮船と交易をするために、キリスト教の布教を認めた。
そのため、戦国時代にキリスト教が爆発的に広がるのである。
当時の南蛮貿易は、西洋の珍しい文物を運んでくるだけのものではなかった。
というのも、日本に来る南蛮船のほとんどは、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきていたからだ。
すでに鉄砲の製造は日本でもおこなわれていたが、鉄砲の弾丸に使われる鉛や、弾薬の原料となる硝石などは、当時の日本では生産できず、海外からの輸入に頼るしかなかった。
南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾薬や火薬の原料などは手に入らなかったのだ。
つまり、南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあったのだ。
家康は、天下人になって以降、諸大名の軍事力を削減させようとしてきた。
築城や城の改築などは原則禁止で、特別な理由があるときだけ幕府が許可した。
また、慶長14(1609)年には、500石積以上の大船建造が禁止され、諸藩が所有している大船は没収された。
このように、諸藩の軍事力を削減させようとしているなか、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は害が大きかった。
しかも、ポルトガルやスペインは、軍事的にも不穏な動きがあった。
長崎はイエズス会の領地のようになってしまっていた。
またキリスト教徒たちが、日本各地の寺社を破壊することもたびたび起こっていたのである。
スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった。
当時の日本は戦国時代で、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念しただけだったのだ。
もし、日本が戦国時代ではなかったら、ほかの東南アジア諸国のように、ポルトガルやスペインから侵攻されていた可能性もあるのだ。
それらのことを総合的に判断し、キリスト教全面禁止に踏み切ったものと考えられる。
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徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情
日本がスペイン植民地になった可能性もある
東洋経済 2020/09/05 大村 大次郎 : 元国税調査官
https://toyokeizai.net/articles/-/355272
■門田隆将x高山正之対談:キリスト教はなぜ「狭量」で日本人はなぜ「寛容」なのか
ビジネス+IT 2022/02/05 FinTech Journal
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高山氏:よその国の人間と日本人のどこがちがうのか。
それを今の日本人と過去の日本人とを踏まえて考えていく時、キリスト教の問題などはいい例になると思う。
キリスト教は、どんな国も受け入れ、受容する宗教のようにいわれている。
ガリラヤ湖のほとりから出てシリアで布教され、ついにはローマに入ったと。
しかし、ローマも最初は、キリスト教の受け入れを渋っていた。
ローマはもともとギリシャの神々を仰ぐ多神教国家で、ジュリアス・シーザー(紀元前100~紀元前44年)も、自らを女神アフロディテ(ヴィーナス)の子でローマを建国したアエネアスの末裔(まつえい)と言っている。
ギリシャの神々がそのままローマに根づいていた。
おまけにローマ人はギリシャ人より精力的で、シーザーがガリヤに遠征したように海外にも盛んに出かけていって、外地で気に入った神様がいるとローマに連れて帰った。
エジプトのイシス神や、ゾロアスターにも近いミトラ神といった中東の神様だとか、いろんな神様を祀(まつ)っていた。結構信者もいたらしい。
信仰は自由というのが、ローマのいいところだった。
当初、キリスト教がなぜ嫌われたのかというと、母体のユダヤ教の神ヤハウェが「オレ以外の神を祈るな」と言ったから。
そういう狭量さがイエスの時代になっても残っていて、他の神々の存在を許さなかった。
寛容さがなかった。
それがローマ市民、特に皇帝の気に召さなかった。
第五代皇帝のネロ(37~68年)がキリスト教徒を迫害したのも、その狭量さを嫌ったからだろう。
十二使徒のペテロとパウロまで処刑したことは、のちのキリスト教専制の世の中になっても、さんざん悪くいわれてきた。
そういうところも、キリスト教の狭量さの表れみたいにも見える。
ローマ帝国がネロから300年、キリスト教を受け入れなかったのには、そういう背景があった。
キリスト教信者は狭量に増して、しつこさもすごかった。
結局、コンスタンティヌス帝の時に皇帝も根負けして多神教のローマで布教を認められた。
そして392年、テオドシウス帝に働きかけて、とうとうローマの国教にさせてしまう。
国教になった途端にキリスト教徒が何をやったかというと、イシスやミトラなど、すべての他の神々の神殿をぶち壊し、その信仰を禁じた。
ローマの礎だったギリシャの神々もすべて追放しただけでなく、テオドシウスの時には、ギリシャ時代からのギリシャの神々の聖地だったデルフォイも潰させて、その跡地にキリスト教の教会まで建てた。
ローマ時代には、自由な宗教、自由な学問というものが連綿とギリシャから生き続けていた。
たとえば、エジプトのアレクサンドリアという都市は、壮大な図書館であり、研究所だった。
そこで天文学を教えるヒュパティアという美人の学者がいた。
ヒュパティアは、キリスト教の祭司が「イエスが湖の上を歩いてきた」と説教するのを聞いて「非科学的な奇跡を売り物にするのはいかがなものか」と批判した。
そしたら、狭量なキリスト教徒たちが彼女を襲って、裸にひんむいて、牡蠣の貝殻で肉をそいで殺してしまった。
ついでに、アレクサンドリアに伝わっていた、いわゆるギリシャ哲学から何から全部、ぶち壊した。
その残りは、7世紀以降、イスラム勢力の統治になってからイスラム教徒が大切に保存し研究も重ねた。
ペルシャでは、イブン・シーナなんて学者も出た。
・キリスト教の不寛容は身内に向けられた
高山氏:一方のキリスト教世界は以後、蒙昧(もうまい)な迷信の世界に落ちていく。
唯一の研究は聖書の解釈で、ミサの時のパンは種無しパンだ、いやパンならなんでもいいんだ、といったアホな論争を繰り返して、ついにはローマ教会は西のカトリックと東の東方正教会に分裂している。
以降、キリスト教の不寛容は、身内に向けられ、身内の中に異端を探して宗教裁判にかけた。
「教会は要らない」「聖書に帰れ」と言ったフスは火あぶりにあった。
同じく「聖書だけでいい」と言ったアーミッシュも見つかり次第に殺された。
門田氏:不寛容というか、ものすごい攻撃性ですよね。
11世紀に始まるエルサレムをめぐるイスラムとの戦いなんて、キリスト教徒のほうがはるかに残虐ですよね。
たとえばサラディンとの戦いにしても、十字軍のほうが圧倒的に残虐です。
高山氏:十字軍には、中東の子どもたちがいちばん柔らかくて美味いからって、手足をもいで焼いたり煮たりして食ったという記録があるという。
キリスト教は、一見するとよさそうなので、みんなが騙された。
あんなに抵抗していたローマですらついに騙されてしまった。
みんな心の中ではひどいなと思ってはいた。
そういうイエス・キリストの愛と慈悲を日本にもと、16世紀に宣教師がやってきた。
・世界のどの国も成し遂げられなかったキリスト教の追放
高山氏:しかし日本人はその性悪さをすぐ見抜いた。
中国地方の大内義隆は最初にフランシスコ・ザビエルに会った大名だが、ザビエルは手土産もなく、義隆の男色を偉そうに戒めた。
LGBT先進国の日本に来てその文化も知らず、なんという言い草だと、義隆はザビエルを放り出している。
ほんとに礼をわきまえない連中だった。
それでも宣教師どもは九州の大名に取り入って、まずは近隣諸国と戦争をさせた。
それで日本人に初めて敵を捕虜に取ることを教えた。
捕虜は売れることも教えた。
売買は宣教師どもがやった。
そういうキリスト教の性悪さを、豊臣秀吉は非難し、伴天連(バテレン)追放令を出して、「日本人を海外に売るな」「今、手持ちの日本人がいるなら俺が買い取る」と言った。
奴隷商売を続けるなら、この国からたたき出すと勧告した。
それを政敵だった徳川家康が引き継いで、禁教令を出した。
キリシタン大名の高山右近は、高槻城下の神社仏閣を片っ端からぶっ壊し、坊主たちを殺して、その後に教会を建てたという。
それで家康はキリスト教の狭量に完全に染まり切っていた右近を、日本から追い出した。
イエスの加護でマニラに無事に着いたけれど、水が合わなかったのか到着してすぐに死んだ。
日本の神様のバチが当たったんだろう。
世界のどの国も成し遂げられなかったキリスト教の追放は、徳川三代目の家光までかかった。
キリスト教徒の最後のあがきが島原の乱だった。
天草四郎時貞の配下には小西行長や有馬晴信などキリシタン大名の遺臣も加わっていた。
ただの狂信者集団ではなかった。
徳川方も落とすのに苦労したけれど、最後はキリスト教の狭量性に目をつけて、それを巧みに利用して落城させた。
日本人の知恵で勝ったようなものだ。
というのは天草四郎はポルトガル系のカトリックの信者。
日本にはこのときポルトガルに代わって日本との交易を望んだオランダ船が出入りしていた。
彼らはカルヴァン派で、旧教では禁止されていた利息を含めた商取引行為を認めるプロテスタントだった。
それで徳川側は、「島原の原城には旧教系のキリスト教徒もこもっているけれど、お前らの軍艦の大砲で海に臨む原城を砲撃してくれないか」と頼んだ。
同じキリスト教徒だから難しいかなと思ったが、オランダは日本との交易ができるならと二つ返事で引き受け、海上から二日二晩にわたって砲撃を加えた。
宗派が違ったらもう虫ケラ扱い、キリスト教の狭量さが、このときは大いに役立った。
同時にキリスト教の心根の狭さ、宗教観に日本人はホントにあきれ返った。
キリスト教のいやらしさをはっきり見せつけた事件だったんじゃないかな。
いずれにせよ、天草四郎には大きな痛手を負わせ、落城に繋がった。
面白いことにこの原城の最後は実に正確に後世に伝えられた。
それは四郎時貞を裏切って土牢に閉じ込められていた山田右衛門作(えもさく)が唯一の生き残りとして保護されたからだ。
彼は落城が迫る中で、叛乱将兵はともかく、それについてきた女や子どもだけでも救うために降伏を考え、四郎時貞にも説いたが、狂信者たちは聞く耳を持たなかった。
女、子どももみんな一緒に神の御許に行くのだ、の一点張りだった。
仕方がないから包囲する幕府軍と通じて、開城の手はずを決めた。
それがばれて右衛門作は四郎時貞の前に据えられ、裏切りの罰として何の罪もない彼の妻子は、目の前で殺された。
右衛門作は土牢に戻され、最後の決戦で血祭りにあげられる前に、幕府軍の攻勢で城は落ちた。
この話も慈悲と寛容からいちばん遠い、キリスト教の姿を世間に広める結果になった。
その後も、幕府は危険思想団体キリスト教徒の取り締まりを続けた。
わずかに隠れキリシタンがひっそり、信仰に生きてきた。
それが明治を前に、長崎の教会に現れた。
「信徒発見」とバチカンは大騒ぎになったが、この扱いにもキリスト教の狭量さが出て、現代の日本人をずいぶん鼻白ませた。
というのは、隠れキリシタンのうち、半分は教会に戻ってミサにも出るようになった。
でも残りの半分は江戸時代と同じくひっそり自分の家で信仰していくと言った。
信者が教会に来て献金することでバチカンは成り立っている。
フスやアーミッシュのように、「教会には行かない」などと戯言を言う者は一切、相手にしないとキリスト教会の団体が言い出した。
それで教会に戻って献金する者を「潜伏キリシタン」と称してバチカンで顕彰する一方で、来ないほうの「隠れキリシタン」は相手にもしなくなった。
どうです、この狭量、せせこましさ。
・日本がキリスト教化しなかったのは日本の武士たちのおかげ
門田氏:日本がキリスト教化しなかったのは、当時世界ナンバーワンの強さを誇った日本の武士たちのおかげですよね。
外国から見たら、恐ろしいほどの戦闘力を持った一種の“首狩り族”ですよ(笑)。
とても太刀打ちできません。
宣教師たちが日本の戦(いくさ)を見て、軍事的な制圧を諦めた理由がよくわかります。
肉体的なパワーだけでなく、技術力もそうです。
たとえば鉄砲。
伝来した鉄砲を、日本人は分解して徹底的に研究し、改良に改良を重ねて、独自に性能を発達させていきました。
一時期、世界の鉄砲の7割以上が日本にあったといいますからね。
恐ろしく強い首狩り族です。
しかも技術力も持った、教養のある戦士ですからね。
高山氏:慈悲も知ってる。
寛容さも知ってる。
だから、秀吉から家光までかかって、彼らを日本に入れちゃいけないと頑張った。
そしてキリスト教を禁教にして邪宗にした。
これはね、ホントに世界で日本だけですよ。
門田氏:軍事力がすべてでしょう。
スペインでも、とても歯が立ちません。
実際にそういう報告が本国に上がっていますからね。
高山氏:それがあっての禁教だったのだ。
その精神は、明治政府も引き継いだ。
民衆に最初に出した「五榜の掲示」というのがある。
五カ条の禁止令で、立て札みたいなものだけど、その第三札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」とある。キリスト教をやっぱり禁じていた。
門田氏:16世紀から17世紀あたりでも、日本は情報を持っているわけですよ。
スペインはポルトガルのことを、またポルトガルはスペインのことを、お互いに「こいつらが世界中で何をやっているか」という情報を暴露し合っているわけです。
その後も、鎖国している割には、ちゃんと情報を持っていた。
高山氏:1775年、アメリカが独立する直前、スウェーデンの学者ツュンベリーがオランダ人を装って長崎に来た。
江戸参府もやって日本を見聞しているけれど、体験記の中で「日本人はオランダ人が黒人奴隷を苛(いじ)め、酷使するのを本気で怒っていた」と書いている。
そういう人でなしのオランダ人を嫌い、彼らが風呂に入らずに、体臭を漂わせるのを「登城する紅毛に蠅のついていき」と川柳にも詠んでいる。
だから、明治になってもキリスト教を禁止したわけだ。
横浜にも、五榜の掲示の立て札が出る。
西洋人が「なんだ、失礼だろう」と抗議したけれど、「キリスト教は悪い宗教だから日本人には信仰を禁じている」と説明している。
最終的に、日本は1889年の大日本帝国憲法の発布で、宗教の自由を認める。
なぜ認めたかというと、西洋の中で最も遅くまで奴隷売買をやっていたアメリカ人が、もうやっていないと申告し、それを確認したからといわれている。
日本人は、キリスト教がどんなに勢力を持とうが、欧米列強が何を言おうが、全然、それに動じない。
これは、日本の特筆すべき民族性。
かなり重要な、日本人を解明するひとつのポイントだと思うね。
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門田隆将x高山正之対談:キリスト教はなぜ「狭量」で日本人はなぜ「寛容」なのか
ビジネス+IT 2022/02/05 FinTech Journal
https://www.sbbit.jp/article/cont1/79074
■豊臣秀吉とは何者だったのか?
三橋貴明
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なぜ、織田信長が全面的に認めていたはずのキリスト教を、秀吉は弾圧したのか?
実はあまり知られていませんが(戦前の教科書には載っていましたが)、キリスト教規制の理由の1つは、奴隷として海外に売り渡されていく日本人の存在にありました。
「え、日本で奴隷売買があったのか?」と驚くかもしれませんが、これは事実です。
ローマに派遣された4人の少年も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃し、こう語ったと記録が残っています。
”我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。”
” 全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。”(使節団一行が日本人奴隷を目撃した際の記録より)
一方、秀吉は「奴隷交易禁止などを要求する手紙」を、イエズス会の準管区長ガスパール・コエリョに送りつけ、憤りを露わにしています。
”予(秀吉)は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人(タイ人)、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。”(信長や秀吉らと会見した宣教師ルイス・フロイスの歴史書「日本史」)
さらには、「売られていった日本人を連れもどせ、それが無理ならまだ助けられる人だけでも買い戻す」といった主旨の内容を伝えています。
また、キリシタンを弾圧したとも言われる、秀吉の厳しい態度には、別の意味もありました。
実は、キリスト教の布教活動は西欧諸国の植民地政策と結びついていたのです。
手始めに宣教師を送り込んで、その国をキリスト教化し、文化的支配によって逆らいにくくする、という狡猾な戦略は西欧諸国の常套手段でした。
フランシスコ・ザビエルを中心にイエズス会が発足され、ルイス・フロイスらによって熱心な布教が行われた結果、1582年時点で日本人キリシタンはすでに15万人に達していたと言われています。
当時の京都の人口が20-50万ほどだったことを考えると、15万人という数は十分な脅威だったのではないでしょうか?
・世界のルール
宗教による文化的侵略、そして奴隷交易。
「なんて酷いんだ」と思うかもしれませんが、これは当時の強国からするといたって普通のことでした。
自己利益のためなら何でもありというのが、世界のルールでした。
例えば、アメリカ大陸にたどり着いたコロンブス一行は、今の価値観からすると、とても残虐でした。
航海に同行したカトリック教・宣教師のバルトロメ・デ・ラス・カサスの日誌には、「一人でもインディアンが森にいたら、すぐに一隊を編成し、それを追いました。柵囲いのなかの羊のように、情け容赦なく彼らを虐殺しました。」「残虐であるということは、スペイン人にとって当たり前の規則であって、それは単に残虐だけなのです。」「しかしそのように途方もなく残虐な取扱いは、インディアンに対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金輪際思わないよう、それを防ぐ方法になるでしょう。」などの記述がありますし、コロンブス一行は、原住民から略奪した金銀、宝石などを戦利品としてスペインに持ち帰ったので、一躍英雄になりました、、、
どう思いましたか?
ーもし、秀吉がバテレン追放令を出していなかったら、今頃、日本人奴隷の子孫が世界中にいたかもしれません…
ーもし、秀吉が天下統一していなかったら、九州から文化的侵略が進み、日本は好き放題やられてしまったかもしれません…
ーもし秀吉が、キリスト教の独善性と宣教師の野望に気付いていなかったら、日本はポルトガルやスペインの植民地になり、独立を維持できなかったかもしれません…
キリシタン弾圧によって悪者として描かれることも多い秀吉ですが、見方を変えれば、実は西欧諸国の脅威から日本を守った英雄だったと言えるのではないでしょうか?
・疑いたくなる事実
しかし、ポルトガル人による奴隷交易や、日本を守った秀吉の本当の姿は教科書には載っていませんし、知っている人も多くはいないはずです。
奴隷交易があったと聞いても、疑いたくなってしまうでしょう。
知らない話であれば当然のことです。
それって実は、ある意味、とても恐ろしいことではないでしょうか?
なぜなら、私たちは自分で考える力を奪われているかもしれないからです。
私たちはいつの間にか、西洋の歴史観や価値観で考えることに慣らされています。
だから、”自分の頭でちゃんと考えている”思い込んでいるだけで、実際は、他者から押し付けられた考え方をなぞっているに過ぎないかもしれません。
その上、事実を知るチャンスがなければ、自分の考え方を疑う機会もありません。
機会がなければ、ただ与えられたイメージに流されるばかりで、平和ボケしてしまうでしょう。
例えば、ポルトガル商人によって奴隷売買が行われたという事実を知らなければ、「キリスト教を弾圧した」というイメージだけが一人歩きし、日本を守ろうとした秀吉の意図はわからないままです。
例えば、自己利益のためなら虐殺や略奪、奴隷売買、宗教の利用など何でもやる人々がいることを知らなければ、種子島は単なる「鉄砲伝来」というイメージで、なぜポルトガル人が遥か遠くの極東まで来ていたのか分からないままです。
例えば、グローバリズムの本質を知らなければ、「明治維新は若い志士たちによる偉業」のイメージばかり強くなり、経済政策的には敗北だったという見方はされないままです。
思考する機会、思考する力を奪われるのは、とても恐ろしいことです。
500年前から日本は、利益のためなら何でもありの、殴り合いの、無秩序なグローバリズムの世界に巻き込まれているのに、危機感を抱いていない…。
今こそ日本人は、歴史から学び、考える力を取り戻さなければならない…。
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豊臣秀吉とは何者だったのか?
キリシタン弾圧とローマに渡った4人の少年の苦悩
三橋貴明
http://www.38news.jp/sp/CPM_38KZAI5_S_D_59800_KZ4/index.php
■信長の婿と孫も…キリシタン武将列伝
PHPオンライン衆知 歴史街道 2019年05月29日
■第六天魔王信長―消されたキリシタン王国
紀伊國屋書店ウェブストア 加治将一【著】 祥伝社文庫
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