間違えたっていいじゃない。機械じゃないんだから。
どんなことも、あきらめなければ必ず道は開けてくる。そう思った。
日本では「異人」といじめられ、生まれたドイツでは「東洋人」と見られ、日本人の留学生からは「よそ者」とされて仲間に入れてもらえない・・・。「どうして?私の故郷はどこ?」抱いていた夢が消えそうだった。
愛情の豊かな人でなければ美しい仕事はできない。
チャンスというものは、掴み取るだけで成功とは限りません。私はチャンスを失ってどん底を知り、回り道をしたおかげで人間的に成長できたように思います。
死に物狂いになったら、なんでもできる。
人間はなんのために生きるのかって考えてみると、苦難を乗り越えていくために生きるのだと思う。なにもしないで、生きていこうなんて生き方はだめよ。
どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから。
人生に無駄なことなんか、ひとつもない。生きるってことは、いろいろ経験すること。その時は、自分とはまったく関係のないことのようでも、その経験が大切に思える時がきっとくる。
人生が、予定通り順調にうまくいくことなんて絶対にないの。ありえないことよ。そうならないように頑張るでしょ。だから人生がおもしろくなるんじゃない。
フジコ・ヘミング、本名ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjkoは、日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニスト。
聴力を失う悲劇に見舞われ、どん底から這い上がったピアニスト。「魂のピアニスト」と呼ばれている。
ベルリンで生まれる。スウェーデン国籍。
俳優の大月ウルフは実弟。歌手の橋本潮は従姪にあたる。
父親がロシア系スウェーデン人(画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング(Gösta Georgii-Hemming))で母親が日本人(ピアニストの大月投網子)。
幼少期に日本に移住したが、父は日本に馴染めず、家族3人を残し一人スウェーデンに帰国してしまう。
以来、母と弟と共に東京で暮らし、母・投網子の手ほどきでピアノを始める。
また10歳から、父の友人であり、ドイツで母がピアノを師事したロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事。
以後、芸大在学時を含め、長年の間クロイツァーの薫陶を受ける。
青山学院緑岡尋常小学校(現・青山学院初等部)3年生の時にラジオに生出演。
1945年2月、家族と共に岡山に疎開。
同年4月、岡山県の高等女学校に入学し、そのまま学徒動員。
終戦後、青山学院高等女学部(現・青山学院中等部)に転校。
青山高女5年修了で、新制・青山学院高等部3年に進級。
高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。
東京芸術大学音楽学部在学中の1953年には新人音楽家の登竜門である、第22回NHK毎日コンクールに入選をはたし、さらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞。
東京藝術大学卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演。
かねてよりピアノ留学を望んでいたフジコだったが、パスポート申請時に無国籍であったことが発覚する。
フジコ・ヘミングは父の祖国、スウェーデンの国籍を持っていましたが、生まれてから一度も訪れたことがなく、当時の規則で国籍が抹消。
日本国籍をと何度も役所に掛け合いましたが、それもかなわず、1961年に、駐日ドイツ大使の助力により、赤十字に認定された難民として、ようやく国立ベルリン音楽大学(現・ベルリン芸術大学)へ留学。
卒業後、ヨーロッパに残って各地で音楽活動を行うも、生活面では母からのわずかな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。
時には一週間砂糖水だけで過ごすこともあった。
その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダに師事。
また、35歳の時に、フジコ・ヘミングは世界に名をはせていた指揮者、レナード・バーンスタインに認められ、彼のソリストとして契約。
栄光を掴みかけたものの、リサイタルの直前に聴力を失うという、悲劇にも見舞われます。
リサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目を見た。
既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時に左耳の聴力も失ってしまい、フジコは演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなる。
失意の中、フジコはストックホルムに移住。
耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。現在、左耳は40%回復している。
母の死後、1995年に日本へ帰国し、母校東京芸大の旧奏楽堂などでコンサート活動を行う。
1999年2月にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼んだ。
その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒット。
第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞した。
やがて、1999年10月の東京オペラシティ大ホールでの復活リサイタルを皮切りに、本格的な音楽活動を再開し、国内外で活躍することとなる。
2001年6月にはカーネギー・ホールでのリサイタルを披露。
現在、ソロ活動に加え、海外の有名オーケストラ、楽奏者との共演と活躍。