他人と比較しない。世間と比較しないこと。比較すると這い上がれないので。挫折するので。
人間を演じていくと言う意味では、今ごろになって、ああいい仕事に就いたなあと。本当にシワになって白髪になってたるんできて、それで商売になるんですからね。
まずは人間として自分がどう生きるかということが、大切だと思ってますよね。こういう環境のこういう人だったら、そこでそういうふうにして生きていくのかな、って分かるようになります。なので、演技を見つけていくんじゃなくて、まずは人としてどう生きるか。そういうふうに思って役作りをしてるんですね。
嫌な話になったとしても、顔だけは笑うようにしているのよ。井戸のポンプでも、動かしていれば、そのうち水が出てくるでしょう。同じように、面白くなくても、にっこり笑っていると、だんだん嬉しい感情が湧いてくるのよ。
病気をしてから、いつ逝ってもいいように、自分の周りを身軽にしておきたいという思いが強くなったのはあるわね。朝はひとしきり掃除することから始まる。ぐちゃぐちゃしているのを見るのが好きでないの。でも、ものがなければ簡単よ。
面白いわよねぇ、世の中って。「老後がどう」「死はどう」って、頭の中でこねくりまわす世界よりもはるかに大きくて。予想外の連続よね。楽しむのではなくて、面白がることよ。楽しむというのは客観的でしょう。中に入って面白がるの。面白がらなきゃ、やってけないもの、この世の中。
セリフがあまりない役をずーっとやってきたから、自分で存在感を示していくしかなかった。芝居はそういうものだと思ってきていたから。セリフがたくさんある役をやると、それがとても邪魔するわけ。自分で作っていかないと成り立たない人生を送ってきたから。
自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。
靴下でもシャツでも最後は掃除道具として、最後まで使い切る。人間も、十分生きて自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるということだと思う。自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末することが最終目標。
どの場面にも善と悪があることを受け入れることから、本当の意味で人間がたくましくなっていく。病というものを駄目として、健康であることをいいとするだけなら、こんなつまらない人生はない。
どれだけ人間が生まれて、合わない環境であっても、そこで出会うものがすべて必然なんだと思って、受け取り方を変えていく。そうすると成熟していくような気がするのよね。それで死に向かっていくのだろうと思う。でも人間ってだらしないから、あんまりいい奥さん、あんまりいい旦那さん、いい子供で楽だと、成熟する暇がないっていうかね。
でもね、それでいいの。こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。若くても不自由なことはたくさんあると思います。それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。
今日、用事があることを『今日用』(きょうよう)と言っているんだけど、神さまがお与えくださった『今日用』に向き合うことが毎日の幸せなのよね。『今日用』をこなす事が、人生を使い切ったという安堵につながるんじゃない?
がんはありがたい病気。周囲の相手が自分と真剣に向き合ってくれますから。ひょっとしたら、この人は来年はいないかもしれないと思ったら、その人との時間は大事でしょう? そういう意味で、がんは面白いのよ。
私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。
愛というより、私には内田さんが必要だったということですね。ただ向うは迷惑だっただろうなというのはよく分かる。今は『どうもありがとうね。大変だったわね』と言うと、『そんなことネェー』と言いますがね(笑)。来世で出会わないために、今完璧に付き合っているのよ。
ガンになって死ぬのが一番幸せだと思います。畳の上で死ねるし、用意ができます。片付けしてその準備ができるのは最高だと思っています。内田に言われました。『全身ガンで明日にでも死ぬのかと思っていたら、やたら元気でいろいろなところに顔を出すので、あれはガンガン詐欺(笑)だと思われているよ』って。
人間はあした地球が滅ぶとわかっていても、きょうリンゴの木を植えなきゃならないものなのよ。そういうふうに考えて生きていきましょうよ。
代表作?ないのよ。助演どころか、チョイ役チョイ役って渡り歩く、チョイ演女優なの。
自分は社会でなにができるか、と適性をさぐる謙虚さが、女性を綺麗にしていくと思います。
全体をパット見てつかむ、俯瞰でものを見る癖は普段からついているわね。それがないと役を演じられないのよ。
おばあさん役をやったのは31歳のときだったわけ。外見は老人を真似たけれど、心の中は30代のまま演じた。実際に70代になってみてどうかっていうと、全く同じ。何も変わらない。精神的な成熟なんてないわね。
私は美人女優の系列に一度も入ったことがなくて、ブスの代名詞みたいな感じ。だから人に見られるという感覚も一切なかった。
いまの世の中って、ひとつ問題が起きると、みんなで徹底的にやっつけるじゃない。だから怖いの。自分が当事者になることなんて、だれも考えていないんでしょうね。
老いるということは、しわも増える、目も悪くなる、歯も抜ける。腰も曲がるのよ。頭もボケるのよ。それで、ちゃんと死んでいくのよ。ねぇ…何が不満なの?どうしたいの?
日本には「水に流す」という言葉があるけど、桜の花は「水に流す」といったことを表しているなと思うの。何もなかったように散って、また春が来ると咲き誇る。桜が毎年咲き誇るうちに、「水に流す」という考えかたを、もう一度日本人は見直すべきなんじゃないかしら。
家族に囲まれて、こんなに平穏無事な晩年を送ることができるとは夢にも思ってなかった。私は自分の人生、『上出来』だと思っていますよ。
手土産は絶対に持ってこないでって、言ったけれど、それも毎回必死よ。「くれないで」って。だってお菓子を持ってこられたら、放送しを開いて、箱を開けて、それをまた畳んで資源ごみに出してって。すごく手間じゃない。私は自分が食べたいケーキがあったら買いに行って、「箱はいりません」ってティッシュに包んで帰るの。
仕事で一番好きな瞬間はどんなときかって?ギャラの交渉をしているときよ。女優本人に直接金額を言わないといけないもんだから、みんな困っちゃうの。面白いわよぉ。
小さなことの積み重ねが、映画のなかの「日常」にリアリティを加えていく。でも、それは普段からいろいろ見ていないとできない。現場でいきなり思いつくものでないのよ。役者は当たり前の生活をし、当たり前の人たちと付き合い、普通にいることが基本。私は普通に電車に乗るし、Suicaも持ってますよ。
かっこいいと思う物しか周りに置かない。
あのね、年をとるっていうのは本当におもしろいもの。年をとるっていうのは絶対におもしろい現象がいっぱいあるのよ。だから、若い時には当たり前にできていたものが、できなくなること、ひとつずつをおもしろがってほしいのよ。
おごらず、人と比べず、面白がって平気に生きればいい。
演技をやるために役者を生きているんじゃなくて、人間をやるために生きているんです。
“言わなくていいこと”は、ないと思う。やっぱり言ったほうがいいのよ。
いまなら自信を持ってこう言えます。今日までの人生、上出来でございました。これにて、おいとまいたします。
樹木 希林。
戸籍名、内田 啓子、旧姓:中谷。
また、旧芸名は悠木 千帆(ゆうき ちほ)。
東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。
夫はロック歌手の内田裕也。
娘は内田也哉子さんで、夫は俳優の本木雅弘さん。
夫の内田とは長く別居を続けていた。
父は薩摩琵琶奏者・錦心流の中谷襄水(辰治)。
妹も薩摩琵琶奏者の荒井姿水(昌子)。
その息子も薩摩琵琶奏者の荒井靖水で、妻の荒井美帆(箏・二十五絃箏奏者)とDuoで活動している。
父が薩摩琵琶奏者というのは趣味の話で、収入はないため、若い頃は警察官で、希林が幼稚園の頃は会社勤めをしていた。
警察官時代は神田界隈を管轄としていて、その時、神田神保町でカフェ「東宝」を経営していた母と知り合い結婚し、カフェの主人になった。
母は父より7歳上で、既に二人の子があった。
市ヶ谷にある千代田女学園に入学後、演劇部に在籍し、その傍ら薬剤師を目指していたが、大学受験直前にスキーで足を怪我したため、大学進学を断念した。
戦後初めて三大劇団が研究生を募集。
文学座、俳優座、民藝の順番で試験があり、一番早かった文学座の試験を受け、一次試験は約千人いたが、二次も通り、1961年に文学座一期生として付属演劇研究所に入る。
「悠木千帆」名義で女優活動をスタート。
1964年に森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、一躍人気を獲得した。
1970年からレギュラー放送が始まった水曜劇場『時間ですよ』(TBS)で不動の人気を得る。
1974年にTBSで放送されたドラマ『寺内貫太郎一家』で、小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じた。
1977年、『日本教育テレビ』(NETテレビ)から『全国朝日放送』(テレビ朝日)への局名・会社名称変更を記念して放送された、特別番組『テレビ朝日誕生記念番組・わが家の友だち10チャンネル・徹子のナマナマ10時間半完全生中継』の中のオークションコーナー「にんげん縁日」で、「売る物がない」との理由で、特に思い入れが無かったという自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけた。
その後芸名を「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めた。
ちなみに、「悠木千帆」という芸名は、競り落とした飲食店店主から2004年、女優の山田和葉さんに無償で提供され、現在も(2代目)悠木千帆として活動されてます。
1978年、ドラマ『ムー』『ムー一族』で共演した郷ひろみとのデュエットで「お化けのロック」「林檎殺人事件」をリリース、大ヒットした。
私生活では、1964年に俳優の岸田森と結婚するが、1968年に離婚、1973年10月に内田裕也と再婚するが、1年半で別居し、その後別居生活を続けていた。
1981年、内田が無断で離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、離婚無効の訴訟を起こし勝訴した。
その後は1年に1回連絡を取り合う程度の関係となったが、2005年1月、乳癌が判明して摘出手術を受けたことを機に連絡は1か月に1回となり、以降毎年1月は一緒にハワイで過ごすようになったという。
内田との間に1人娘の内田也哉子がいる。
1979年から出演したピップエレキバンの広告での横矢勲ピップフジモト会長(当時)との掛け合いは人気を集めた。
また、1978年からフジカラーのCMに出演していたが、1980年に放送された『フジカラープリント お名前篇』では、お見合い写真を現像しにきた客(綾小路さゆり)役の樹木と写真屋の店員役の岸本加世子との「美しい人はより美しく、そうでない方は…」「そうでない場合は?」「それなりに映ります」というやり取りが流行語となった。
フジカラーのCMには40年にわたって出演し続け、2002年には消費者の好感度が最も高い女性CMタレント1位に輝いた。
2003年に網膜剥離で左目を失明。
2008年、紫綬褒章を受章。
2013年3月8日の第36回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。
そのスピーチにおいて、全身がんであることを告白したが、2014年1月に1年半ぶりのガン治療が終了したことを会見で公表。
樹木希林さんは、独学で癌のことを勉強し、放射線をピンポイントで照射する治療法を選択していました。
2018年8月、大腿骨を骨折したため緊急手術を行った。
2018年9月、東京都渋谷区の自宅で家族に看取られ、死去。
75歳没。戒名は希鏡啓心大姉。