幼稚園、小学生から中学生まで、ずっと「人とは違う」と言われて生きてきて、いつも疎外感がありました。中学生の時は思春期ということもあり、どんどん内省的になっていき、「なんで生きているんだろう」とか「生きるか、死ぬか」といった死生観と向き合う日々を過ごしていました。
十七で人を憎しみ、殺したいと思い、モデルの世界に入ったわたし。貧乏をのろい、バラック小屋をのろい、ふつうの家庭に育つ級友を羨ましく思い、わざと悪びれて、タバコを吸い、不良仲間とタムロし、先生に刃向ったわたし。わたしがのろいつづけた、わたしの境遇。劣悪な境遇。でも、それは、全部、必要なことだったと、空が語っている。だって、そんな不遇になかったら、今のわたしはいないから。
中学高校時代は、男の子より背が高く、“可愛い感じ”とは無縁。そんな自分が嫌いで、コンプレックスにさいなまれ、やがて“怒り”に近い感情に変わっていきました。男に生まれればよかった、とメンズの服を着ていたことも。ところが、17歳でモデルの世界に脚を踏み入れてからは、オセロが一気にひっくり返るように、弱点がすべて武器になったんです。
幼少期の父と母の離婚による寂しさ、小学校でのいじめ、中高生では自分のコンプレックスに悩んでいた時期。その後、たまたま見つけたモデルの道で、「ここで生きていくしかない」と思ったのに、海外に行ったら、アジア人として差別や偏見。モデルの表現の中に果たして自分が存在しているのか。自分という生き物がわからなくなってしまったのです。
元々、このファッションという世界でアジア人モデルが活躍できる確率はほんの一握り、いや、爪の先ほどの確率だった。それをブレイクスルーしていくのは到底困難に思えたし、そのとてつもなく低い確率の中に自分が入り込めるのか、私がそれに値する人間なのか、自分に自信もない私にそんなことができるのかも分からなかった。それが、社会に出て初めて私の前に立ちはだかった大きな壁だった。アジア人には黒しか似合わないのよね、と、自分の可能性を踏みにじるようなことも言われた。私の存在を完璧に無視するように扱われたこともあった。人としてではなく、まるで物のように手をヒラヒラとされ、あっちへ行けというようなジェスチャーをされたことも度々あり、その度に心を打ち砕かれてきた。
モデルを一生懸命やってこれたエネルギーは“怒り”だったということに気が付いたんです。自分に対するコンプレックスやアジア人の偏見に対する怒り…、その怒りのエネルギーがあったからこそコレクションモデルとして10年間やってこれた。
モデルの道で、「ここで生きていくしかない」と思ったのに、海外に行ったら、アジア人として差別や偏見。モデルの表現の中に果たして自分が存在しているのか。自分という生き物がわからなくなってしまったのです。
向こうから目をつけられる前に自分から近寄ってタイマンを張った。負けた記憶は一つもない。
ランウェイは、いくら華やかでも、先まで歩いたら、立ち止まらなければならない。ターンして引き返さなければならない。行き止まりの道。
インスタグラムのストーリズという機能を使って、フォロワーから私への質問を募ったことがある。多くの質問を寄せてもらったのだけれど、その中で最も多かったのが、「自分を好きなるにはどうしたらいいか」「自分に自信を持つにはどうしたらいいか」という質問だった。これほど自分自身が何者であるのか、と悩んでいる人が多いことに驚いた。しかし、それと同時に、かつての私も、その中の一人だったことを思い返したものだ。
誰かに手料理を作っていることが多いな、と思った時には何かしらの原因で心が疲れている時だったりする。それが分かってから、何かで落ち込んだ時には、思いっきり凝った料理を作るというのが、私の心の癒し方の一つになった。好奇心が旺盛なのも私の特徴の一つだろう。やってみたいことはできる限りやってきた。その結果、自分が何が好きで何が嫌いなのか、何が得意で何が苦手なのか、少しずつ自分のことを知ってきたように思う。それが自分を知る方法の一つになっているのは確かだ。
20代で壁にブチ当たる体験をして、本当によかった。そのときは周りから『いい体験だよ』と言われてもピンとこない、でも、後になるといい体験だったことがわかります。壁を乗り越えるにせよ、乗り越えられなくて壁に沿って歩くにせよね。壁を乗り越えることが重要なのじゃなくて、まず壁にブチ当たることが大事なんです。
若い世代が私たちのころと違うのは、彼らのせいでは全然なくて、それは時代が変わったからだし、世界が変わったから。本当にものすごく変わりましたよね。だからこそ私たち上の世代も考え方を変えなきゃいけないと、思っています。若いうちは流れに沿って変われる柔軟性があったけれど、30代以上になるとそれがだんだん難しくなってくる。大人も時代を知って、変わる努力をしないと。
日々努力して『できた!』という既成事実を積み重ねることで、一つ一つ、目の前の不安要素を消していく。学校の勉強だって最初は強制されてやるわけだけど、良い成績が取れたらそれが自信になる。頑張って取り組むうちに、跳び箱を5段飛べるようになるとかね。たとえきっかけはなんであっても『できた!』という事実だけが、未来の自分自身を形作っていくような気がするんです。
肝心なのはやっぱり自分の心。もしも、やりたいことや目指すものがあるのならば、いつかそのチャンスが回ってきた時に自分の手でつかみ取れるように、常に準備しておくことが大切だと思っています。
10代で海外に出たときから、チャンスに2度目はないとわかっていました。メイク、カメラ、衣装……すべてがその1回かぎり。だから『このチャンスを掴まなきゃ!』という思いが強かった。やらなければ“次”はない。やらないで後悔するより、やって後悔する方を選びたいと、今でも考えています。
今まで関わって下さった多くの方へ、そして自分を産んでくれた父と母への感謝が生まれました。自分がどれだけ寂しい思いをしても一生懸命育ててくれた母には愛がありました。
世界中のお母さん達へ、毎日お疲れ様!貴方の愛情があればこそ、子供は育つのですね。私も奮闘中です。正しいのか間違っているのか、悩みながら子育てしていく事に、意味があるのでしょう。
息子と暮らしていたり、仕事で若い世代に接していたりいても、時代が変わっているということは肌で感じられるんですが、社会活動に参加してみると、変化がもっと大きなものであることがわかります。何も知らない10代のとき、海外に行った方がいいと背中を押してくれたのは30代の大人たちでした。最近の若い人たちは海外に行かないとよく言われていて、日本にも独自のものがたくさんあるんだから無理に外に出る必要もないとは思いますが、やりたいことを見つけて、それをやろうとする若い人を後押しする世代に自分がなってみて、世界が変わっていることをもっと知らないといけないなぁと、本当に強く思っています。
20代前半までは、外見の美しさにこだわっていた気がします。内面からの美しさに目を向けるようになったのは20代後半になってから。人との接し方や仕事との向き合い方、例えば食事やトレーニング、どのようにしたら内側から美しさが湧き出るような人になれるのかとずっと考えていますね。長くモデルの仕事をさせていただいていますが、写真にはその人の生き方さえも写し取られているように感じる。つまり今、どう生きているかがとても大切だと思うんです。美しさの本質が何であるかを追求しつつ、できることにはどんどんトライしながら、年齢を重ねていきたいです。
服を着て歩くのは、その服に命を与えること。
人と比べて悔しい思いをしたり、素敵だなと思う人を真似する経験も、成長の糧になると信じています。私だって自信もなく不安で、自分を好きになれなかったし、そんな本音を隠して踏ん張ってきた時期がありました。今の時代、頑張らないで楽なほうに流されることを“自分らしさ”ととらえる人もいるけれど、それってどこか諦めてない? 可能性があるのにもったいない、って思うこともあります。私はいつも、今の自分のベストを目指したい。だから少しでも前に、上に進めれば、と“何かに”あらがっています。
100%、自分を理解する事はできないのだろうし、時々自分のことが解らなくなる時もある。それでも、以前より今の方が、自分のことが好きと言える。それはこうやって、自分に出来ることと出来ないことを少しでも解っているからなのかもしれない。100点満点の人なんていないし、向いていないこと、出来ないことがあるのは当たり前。でも、自分には出来ることがある。そうやって自分を知ることによって、自分を認めることができるようになるのかもしれない。
さあ、行こう!前に進め!!自分に気合いを入れると、結構効くもんだ。
私が海外に出て、挑戦して勝負して、ここまでやってこられたのも、ものすごい弱かった自分がいるから。子供の頃は、常に人と比べて、背が小さくて可愛い子になりたいなと思っていたし、みんなと一緒になりたかった。やっぱり弱い部分があるから強くなれるんですよ。悩むってとても良いこと。悩まなければ向上しないし、挫折がなければ成功もありません。悔しいとか、辛いとか、悲しいとか、とても大切だと思います。陰と陽は、表裏一体であることを、この歳になって感じますね。だから、いま悩んでいる人も大丈夫ですよ。
だいじょうぶ。これまでやってこれたんだから、これからだって、わたしはだいじょうぶ。
私が目を向けてきたのは、“内面からの美しさ”だ。どうしたら内面から美があふれるような人間になれるのか、つねに考えている。これは写真撮影でも同じ。長い間モデルをやっていると、写真にはそのモデルの生き方さえも写し取られているように感じる。カメラの前では嘘はつけない。何を見てどう感じるか、人との接し方や、仕事との向き合い方、どんな部屋で暮らし、どんな日常をおくっているのか、自分を大切にしているのか……。つまり、美しさの本質を追求していくと、「今をどう生きているか」という問いにたどり着く。私は、今の自分の有(あ)り様(よう)を、つねに見つめてきたように思う。美しさは生き方からあふれ出るもの。これに尽きると思えるから。
人間という生きものはじつに生もの。だからこそ、傷つき、傷つけ、腐り、そして、這い上がる。
冨永愛。
1982年生まれ、神奈川県相模原市出身。
相模原市立橋本小学校、相模原市立旭中学校、神奈川県立橋本高等学校卒業。
幼少期から背が高く、当時はコンプレックスだったという。
「背の高さを生かせる仕事をしてみたい」と思い、15歳の時に姉が読者モデルに応募(当時は175cm)。
ボン・イマージュに所属し、雑誌『プチセブン』のモデルとなった。
17歳の時に高校の制服を着た写真が雑誌『ヴォーグ』に掲載された。
その写真を見た海外のファッション関係者に誘われ、本格的に世界で活動を開始。
2001年にニューヨークコレクションでランウェイモデルとしてデビューを果たす。
2001年 第45回FEC モデルオブザイヤー受賞
2003年 第46回FEC 特別賞受賞
2003年 日本タンナーズ協会レザーニスト賞受賞
2003年 第32回ベストドレッサー賞受賞
2004年 Intercoiffure Awards Tokyo 2004 受賞
2004年秋にパリ在留の日本人パティシエと結婚し、2005年3月には男児を出産。
2005年に出産し、半年間の休業を経て、2006年春夏コレクションで復帰した。
2009年3月、写真週刊誌に極秘離婚を報じられ本人は報道内容を否定するも、4月20日、同日付で離婚したと自身の公式ブログで報告した。
冨永が長男の親権を引き取り、養育も行っている。
2012年 国際社会で顕著な活動を行い世界で『日本』の発信に貢献した業績をもとに、外国人プレス関係者により構成される、世界で活躍し『日本』を発信する日本人プロジェクトより、内閣府から世界で活躍し『日本』を発信する日本人の一人に選ばれた。
WFP国連世界食糧計画のオフィシャルサポーターや、国際協力NGO ジョイセフ (公益財団法人)のアンバサダーとして2011年度から、社会貢献活動を行っている。