健康ですよね。今も撮影が始まってから終わるまでは絶対に休まない。病気はしないぞと。それが今はかなっているからやれている。
日本全体を見ても、最近はこれまで考えられなかったような犯罪が起きています。そんな時代だからこそ、もっと心を重ね合わせることの大事さを知ってほしいと思った。皆がパソコンばかりに向かって、機械だけにしか会話をしなくなっていくのは怖いことだと思います。
習うことが好きなんですよ、私。教えてもらって、何かが出来るようになると、それで自分が少し成長できるかなと思って。
ご自分の好きなこと、スポーツでも手芸でも何でもいいから見つけてやってみることが、精神的にストレスがなくなっていいのではないかと思っています。
体験していないことを伝える、私の職業というのは常にそういうことをしているので。いろいろな役をやってその中で学べるというのが、一番私の仕事のいいところだと思っています。朗読は演じるのとは違って伝えるということです。私は俳優だから言葉で表現することをしている。それだったら伝える手段として私は言葉で伝えようとやっているので。こういうことがあったんですよ、と子供に昔の話をするような感じで、なるべく自分が力まずにやれたらいいと思っています。
『故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る』。私の好きな言葉です。
年を重ねるごとに図太くなって、挫けそうになることが少なくなってきているんですけれども、それでもやっぱり芝居をしていて、失敗しちゃった、上手くいかなかったって思うことがありますし、作品の選択を間違えてしまったこともありました。でもやはり家族がいて、家族に自分が今できることをやればいいんだよって励ましてもらえますので、それが一番力になりますね。
武器を持って戦うことでは何も解決しないんだってことを、70年間私たちは少しずつ学んできたんだと思うんです。だからこれからも、むしろ日本がリーダーになってそういうことを言い続けてほしいと思うし、私たちひとりひとりがそういう思いになったらいいと切望しているんです。みんなができる小さなことをつなげていけば、きっと希望が出てくるんじゃないかと思っているんです。
ラグビーをしている彼らが一生懸命頑張ってそして“ONE TEAM”っていう言葉を皆さまモットーってやったということはとても素敵なことだったと思いますし、私達も映画を作るのに“ONE TEAM”でやりましょう!という気持ちになりました。だから彼らチームに感謝したいです。
(私自身も)父親が戦争に行き、たまたま病気になって船を下ろされ、帰って来たから私が生まれたのです。若し戦争に行っていれば戦死していたと思うし、私という人間はこの世に存在しなかった。生まれてきたことへの感謝をいつも持っていないといけないと思っています。
私は若いころ、母に「なぜ戦争は起こったの?反対はできなかったの?」と質問したことがあるのです。そしたら母は、ひとこと「言えなかったのよ……」って。言えないって、どういうことなんだろうと、そのときは理解ができなかった。けれど最近、母の言っていた意味がわかります。
満足したら、次の日からお休みですよ。そこで終わっちゃう。
大変なこともあるから、逆に充実感を抱けるんでしょうね。なんとなくフワフワして終わってしまったら物足りないだろうし、満足したらそこで終わってしまう。俳優というよりアスリートに近いかもしれないですね。体力勝負(笑)。それであまり自分の昔の作品を観たりはしません。どんな作品をやれるのかはわかりませんが、次に向かって歩きたいのです。
過去の素敵な映画や評価していただいたことは横に置いて、前を向いて行きたい。過去のことに酔っちゃうと、もう仕事はできないですよ。牛歩でも半歩でもいいから、一歩でも前を向いて行きたい。
一生生徒。
今日を生きる。今日を精一杯生きれば明日につながる。
自分に正直に生きたい。
吉永小百合。
1945年(昭和20年)生まれ、東京都渋谷区代々木西原町(現・西原)出身。
本名、岡田 小百合(おかだ さゆり)。旧姓、吉永。
父の吉永芳之(鹿児島県出身)は、東大法学部卒業、九州耐火煉瓦、外務省嘱託を経て、出版社「シネ・ロマンス社」を経営。
飯島正、双葉十三郎らと映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行。
母の和枝は大阪に生まれ、宍粟郡(現・兵庫県宍粟市山崎町)で小学生の頃まで育ち、「潮音」に所属する歌人であった。
母方の祖父に、英文出版社の大観社社長の川田友之。
叔母に『婦人画報』編集長、「アムネスティ・インターナショナル日本支部」の創設メンバーの川田泰代が名前を連ねるなど、執筆の世界とも所縁が深い。
1957年(昭和32年)渋谷区立西原小学校6年生の時、ラジオ東京(現 TBSラジオ)の連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビュー。
10月、ラジオ東京制作のテレビドラマ『赤胴鈴之助』でテレビデビュー。
1959年(昭和34年)に松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー。
1960年(昭和35年)渋谷区立代々木中学校卒業、東京都立駒場高等学校全日制普通科入学。
同時に日活撮影所に入社。
翌年、私立精華学園女子高等学校(現在の 東海大学付属市原望洋高等学校)に転入学。
1962年(昭和37年)高校在学中、『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)にヒロイン役で出演。
また、ビクターから『寒い朝』でレコードデビューし20万枚のヒット。
橋幸夫とのデュエットで歌唱した『いつでも夢を』も30万枚の大ヒットとなった。
『キューポラのある街』のヒロイン役で第13回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞(17歳での受賞は2012年時点で史上最年少記録)。
橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』で「第4回日本レコード大賞」受賞。
また、この頃から日活の清純派女優として浜田光夫とコンビを組む。
1964年(昭和39年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)と、ブロマイドの年間売上実績で女性部門1位に光輝く。
1965年(昭和40年)大学入学資格検定に全科目合格は出来ていなかったが早稲田大学に高卒と同等以上の学力があると認められ早稲田大学第二文学部西洋史学専修に入学(俳優業多忙のため、精華学園女子高校は中退していた)。
1969年(昭和44年)多忙な中、早稲田大学を次席で卒業。
1973年(昭和48年)フジテレビディレクター岡田太郎(後の共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任)と結婚し、京王プラザホテルで披露宴を執り行う。
1982年(昭和57年)ドラマ『続 夢千代日記』に対して、第19回ギャラクシー賞・選奨を受賞。
1985年(昭和60年)『おはん』、『天国の駅』の演技で、「日本アカデミー賞最優秀主演女優賞」初受賞。
以降、1989年(平成元年)『つる -鶴-』・『華の乱』、2001年(平成13年)『長崎ぶらぶら節』、2006年(平成18年)『北の零年』と、最優秀主演女優賞を計4度受賞(歴代1位)している。
1988年(昭和63年)『つる -鶴-』(市川崑監督)に主演し、映画出演は通算100作品となる。
1997年(平成9年)朗読CD『第二楽章』で「第39回日本レコード大賞企画賞」受賞。
2000年(平成12年) – 『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」でも同じく第2位になった。
2003年(平成15年)平和記念資料館のナレーションや、同じくボランティアである原爆詩の朗読などの平和活動が評価され、「第15回谷本清平和賞」受賞。
2006年(平成18年)紫綬褒章、受章。
2008年(平成20年)2月に主演映画『母べえ』がベルリン国際映画祭出品のためベルリンへ往く。同年、『母べえ』『まぼろしの邪馬台国』等長年の功績により、第2回HIHOはくさい映画賞(『映画秘宝』主催)生涯功労賞、受賞。
2010年(平成22年)文化功労者に選出。
2014年(平成26年)自身初のプロデュース作品『ふしぎな岬の物語』がモントリオール世界映画祭で審査員特別大賞を受賞。同作で第38回日本アカデミー賞優秀主演女優賞受賞。
2014年(平成26年) 2014年12月発売の映画雑誌『キネマ旬報』創刊95周年記念『オールタイム・ベスト 映画遺産 日本映画男優・女優100』にて女優20位に選出された。
2015年(平成27年)第63回菊池寛賞を受賞。
2016年(平成28年)第25回日本映画批評家大賞・実写部門 ダイヤモンド大賞を受賞。
また、原爆詩の朗読に対し、第1回澄和(とわ)フューチャリスト賞(市民目線の平和関連活動に地道に取り組んでいる個人や団体を表彰する賞)を受賞。