「もしかして、テストって100点を取っちゃダメで70点ぐらいに合わせるルールがあるの?」って。その時の同級生の反応、奇妙な生き物を眺めるような表情を、たぶん一生忘れないでしょう。私って、やっぱり変なんだ。脳がどこかおかしいんだろう。だから、みんなが感じている空気みたいなものを、私だけが理解できない。そう思うと非常に焦りを感じました。
脳科学を研究して安心しました。データを見てみると、私のように変だと言われそうな人が一定数いること、そして彼らは脳のこのあたりの機能が未発達であるとか、過剰に活動しているようだとかがわかりました。普通の人がある領域をより使っているのであれば、自分はそこをうまく使えないとしても、他の部分でなんとかカバーし、同じように振る舞うことも可能になりますね。
他人の尺度でなく自分の尺度で行動すること。他人がどう思うかではなく自分が心の底から「心地よい」「気持ちよい」と思える行動をすること。
同調圧力によって、集団の意思決定は個人の意思とかけ離れたものになりやすいんですね。その判定基準として大きな軸になるのは、正義の感覚です。何が正しくて何が正しくないかを決めるとき、“集団のために何かをするのが正しい”と思ってしまう。反対に、“自分のためだけにエゴイスティックに何かをすることは悪”と思ってしまう。そんな不思議な性質を人間は持っているのです。そのように、善悪は度外視して集団の秩序を守ったり、集団の利益になることを追求する行動に、オキントシンが大きく関係していることがわかっています。
自己愛もサイコパスも自己演出が上手でプレゼン能力がとても高い。ですから、一見さわやかで魅力的。イケメンで如才がなく、口が達者な人は要注意です。
自分では変なことをしたつもりなどまったくないのに、私が何かすると、なぜか、まわりの人がサーッと引いていく。幼い頃から、そんな経験を重ねてきました。例えば学校で、「夏休みにラジオ体操したほうが良いと思う人は?」 と尋ねられたら、「体操するのは良いことなんだから、当然やるべきでしょ」と、周りの反応も見ずにサッと手を挙げてしまう。みんなは、朝早くから体操なんかやってられないよと思ってるのにね。要するにまわりの空気を読めないのです。勉強はできるんだけれど、親からも扱いにくい子どもと思われていたようで、どうも話がかみ合いませんでした。なんか私は違うんだなって意識し始めたのは、5歳ぐらいからだったでしょうか。まわりを観察していると、みんなが私に違和感を持っているのはわかるんです。けれども、私としては、違和感を持たれる理由がわからない。相手の感情を読んだり、相手がどのように感じているかを把握する能力が極めて低かったのでしょう。
やる気がないときは、きっと姿勢も悪くうなだれているはずです。そんなときは姿勢を正すだけでも効果的です。それから、親はいつも笑いかけてあげる。するとミラーニューロンの働きで、お子さん自身が笑顔になったように感じて、気分も上向きます。
愛車をていねいに扱うように、自分自身にも心を配る。ピカピカなクルマなら他人も大切に扱ってくれるように、自分を大切にしている人には、ていねいに接してくれるもの。
人の悪口を言うと、ブーメラン効果によって悪口を言った自分の評価まで下がるといわれていますから、人の悪口はこらえる。そのかわり同じ噂話でも、誰かを褒める話をしてみるという戦略。すると人は直接褒められるより第三者を介して褒められた方が嬉しいというウィンザー効果によりあなたの株が上がるかもしれない。
たとえ今の収入が低かったとしても、男性は女性に立てられたら頑張る生き物。あなたの応援で稼ぎがよくなるかもしれませんし、お互いの共感能力が上がれば、離婚はしにくくなります。こちらもとある研究の結果ですが、男性が妻の不満を15~18%解消するだけで、年収120万円分の価値があると言われています。これは男性が食後の後片付けを日に1~2回に増やすのに相当します。男性の優しさは収入と違って一生モノですよ。
一般的に運・不運は誰の身にも公平に起きていることです。運のいい人は単に恵まれているのではなく、運をキャッチするのがうまい。それと同時に不運を防ぐような行動や考え方をしているのです。その第一条件が自分を大事にしている、という点ですね。
なりたい人物の考え方に近づく。成功している人やこういう人になりたいというロールモデルがいたら、話し方や考え方、ファッションや持ち物までありとあらゆることを真似してみるといい。やっていることを真似しているうちに、脳の回路も似てくる。
人とより良いコミュニケーションをとるために行うアサーショントレーニングというものがあるんですが、これは知っておくと役に立つかもしれません。何か望ましくないことをされた時、人間は相手に対して3パターンの行動をとります。一つは攻撃、一つは沈黙、そしてもう一つはアサーションです。これができるようにしていくのがアサーショントレーニング。耳慣れない言葉でしょうが、あえて日本語に訳すなら、アサーションとは「さわやかな主張」です。具体的には、“I”つまり「私はこう思う。こう感じる」と自分の中に起きた感情を出来事としてしずかに相手に伝える。これは相手に対して「あなたが悪い」「あなたはどうしてそんなことをいうのだ」という攻撃的な主張とは異なります。アサーションと呼ばれる対応は「私はこう思う。こう感じる」と伝えることです。相手を責めているわけでも非難しているわけでもないので、波風は立たないし、攻撃してしまった場合に被る不利益を回避しながら自分の思いを伝えることができるのです。
気が利かないとお悩みの方は、気が利くと思われたい相手の普段の様子をじっくり観察してみてください。そうすれば自然と行動パターンが見えてきて、一歩先回りすることができるはずです。言われてからやるのと、言われる前にやるのでは、印象は全く違います。社会人としての評価も、そういうところで大きな差がついてくるのではないでしょうか。
はみ出した人間は叩かれやすい。それなら、たとえば太っているとか、変なメガネをかけてるといったアラをわざと演出し、攻撃側のはけ口を作っておくのです。もちろん、攻撃されてもOKなものに限ります。名づけてトカゲのしっぽ作戦です。
完全に人目を気にしないというのは現実的ではないので、適度に人目を気にする。それが世の中を強くしたたかに生きる、重要なコツと言えます。
人は違ってあたりまえ。たとえば同じ会社の人間でも、出世を第一に考えている人と、人生の充実感を最も大切にしている人では全く違います。良し悪しではなく、それをきちんと認め合う。その意識が過度の同調を回避させてくれます。
世界で通用する人は断られたくらいであきらめない情熱をとにかくどんどんぶつけていく。
親自身が誰かの決めた「正解」に合わせた生き方ではなく、自分で選んだ答えを「正解」だと言える人生を歩んでいるかによるのではないでしょうか。人生に何一つ後悔のない人など、いないはずです。ただ、人生のさまざまな場面で選択してきたことが「いろいろあったけれども、やはりこれで正解だった」といえる人を、私は幸運だと思います。いわゆる運のいい人と悪い人を比べても、人生で遭遇している事象にあまり違いはないことが多いもの。一方で、その事象に対する捉え方、考え方が両者では大きく違う。「正解を選んでいる」と思える人は、何かうまくいかないことがあっても、自分に至らないことがあったのではないかと考えて、変わろうと努力をします。
世界で通用する人はどんな仕事でも楽しいものに変えてしまう。
「気が利く」能力は、努力次第で大きく伸ばすことができるんです。すごく気が利く子供というのはあまりいませんよね。これは、この能力が大人になってから完成すること、つまりは後天的に伸ばせることを示唆しています。伸ばすことでメリットが得られるし、大人になってからでも伸ばすことができる。こんなに伸ばしがいがある能力は、ほかにないのではないでしょうか。
世界で通用する人は楽観主義者。「なんとかなるさ」ではなく「やればできる」。
これは無駄な努力をしている人が多いので、正しい努力をしてほしいと思って書いた本です。というのも、多くの人は努力の目的を出世とかお金儲けに設定しています。しかし、生物の観点から見るとそれは間違っていて、本来の目的は「生存と生殖」です。脳は生殖に最適なパートナーを探し出して、どこに行ったらおいしいものが食べられるかなど、生存確率を高めるためにいつも意思決定しています。人間の大きな目的が生存である以上、今生きている人の人生は、いいことも悪いことも含めてみんなボーナスみたいなものなんです。それならば、苦しい思いをして出世しようとか、お金儲けをしようとか考えずに好きなように人生を楽しんだほうがいいのです。
仕事上のミスである以上、誰か1人が100%悪いなんてことはありえない。自分の責任、上司の責任、組織の責任。その割合を冷静的確に分析することができれば、自分だけを過剰に責めずにすみます。そもそも失敗をフォローするために上司や先輩がいるんだし、自分のミスが取り返しのつかない大失敗にまで至ったとしたら、それは組織上に大きな欠陥があると思った方いい。それくらいの気持ちでいた方が、心の安定を守る上では大事なんですよ。
世界で通用する人は自分が好きなことと得意なことを貫く。
ホモ・サピエンスは、集団をつくることで弱い個体を守ってきたのです。それが、次世代への貢献だったのです。長い間かけて進化してきたこのシステムが、どうして、現代日本では崩壊してしまったのでしょう?こんな種は、生物として狂っています。次世代を育む行動が妨害されれば、その集団はいずれ滅びる。私が書くまでもないことです。この冷たい狂気の裏側に、努力へのすがりつくような思い、努力に対する過剰な期待があるのです。
人間は実力のある人よりも、確信のある人のほうにひかれるのです。
一般的に努力というと多くの人が注目するのは野蛮な部分になるわけです。結果が出るかどうかに目を向けてしまう。お金儲けをしよう、勉強できるようになろう、というのも同じです。野蛮さしか持たない人を信用すべきではありません。あなたが、その野蛮さの犠牲になってしまうからです。無駄な部分への視線がない人は、人を傷つけることを厭わないものです。無駄な部分というのは、じつは、ヒトが仲間を思いやるという行動を可能にするために生まれた、長い目で見ると役に立つ無駄なのです。
共同体の外に存在するものだからです。距離があるからこそ憧れ、そういった人の生き様を見ることで自分も生きているという実感を抱く。もし、社会のなかで生きづらさを感じるのなら、自分は迷惑をかけない存在だとわかってもらうことです。そうすれば排除されません。あるいは、あらゆるメリットを捨てて共同体から飛び抜け、あの人はあの人だという存在になるか。ただ、ひとつ言えるのは、普通であれクレイジーであれ、劣等感をもつことはないんです。40億年の生物の歴史を受け継いだ勝者としていまここに生きているのですから。それでいいんです。
自分を大事にする姿は他人に伝わる。
人間には、「展望的記憶」といって、これから将来に向かって何をするかという予定を記憶としてインプットしておく機能があります。「今日はお昼にラーメンを食べよう」というのも展望的記憶なのですが(笑)、もっと広く、「将来に備えてしっかり資産をつくりたい」というビジョンを持って人生を歩むことができるのも、展望的記憶の能力があるからです。そうして人が未来を生き生きと思い描くときに、記憶をつかさどる「海馬」の活動が活発になることもわかってきました。私が「祈り」という行為が面白いと感じたのは、それが自分と向きあう作業だからです。本当に何が欲しくて、どうしたいのか。自分は何を求めていて、どうしたらそれが達成できるのか。それを祈る「対象」に、伝えなければなりません。日本ではお伊勢参りや富士登山、キリスト圏ではサンティアゴ・デ・コンポステーラなどの巡礼路、イスラム圏ではメッカ巡礼など、祈りのために長い旅をするというのも、それだけの苦労をして自分は何を祈りたいのかを考える時間を持つためだったと思います。今はそうした旅も便利になりましたが、目的地に向かうまでは仕事を忘れ、スマホも切って(笑)、自分と向きあう時間を持つ。そこから、新しい「展望的記憶」が見えてくることもきっとあると思います。
神経質はリスクに対応できる才能。
日本人は人目を気にすることで生き延びてきた民族です。日本は地震をはじめとにかく災害が多い国。日本の国士面積は全世界の0.25%しかないのに、自然災害の被害総額ではなんと全世界の15~20%にものぼるのです。そんな国なので昔から生き延びるには人々が互いに協力し合うことが不可欠でした。だから脳の構造的に、みんなのために何かしなくちゃという気持ちが高まりやすい反面、1人だけ得しているような人には厳しい目が向きます。それは自分に対しても同様。要は「自責感情」も強いのです。災害で助かったのに「なんで自分だけ生き延びてしまったんだろう……」と悩み苦しむ方が多いのは、その一端でしょう。協力し合うことで生き延びてきただけに、日本人にとって仲間から排除されることが大きなリスクとなってきました。だから人が自分をどう思っているかにも、とても敏感なのです。
人に寄り添ったり、共感をもって人の話を聞いたり、誰かに対して温かい気持ちでい続けたり。これらはいつの時代も言われてきた人間性です。でも、未来の社会ではそういった行為はAIの方がより上手にできるようになるかもしれません。未来の社会では逆に空気が読めなかったり、怒りっぽかったり、エラーを起こすことこそが一番人間らしいといわれるかもしれませんね。
得意なことだけを貫く。これは一見自己中なようですが好結果を残すには大事な要素。
集団でいるときはそのルールに従うけれども、一人の世界もしっかりと持っている子どもの方が、多様な社会で生きる力は強い。森鴎外の娘で、作家の森茉莉さんのエッセイにとても印象的な一節があります。鴎外は41歳のときの子どもである彼女を溺愛し、「お茉莉の髪は上等、顔も上等、性質は素直だ」と褒め、多少いけないことをしても「おまりがすれば上等よ」と眼を細めたというのです。後年、繊細な美意識に彩られた素晴らしい小説や、辛口の人物評など個性的なエッセイを書き続けた原動力は、「何をしても上等」と親から認められた経験が大きかったでしょう。周囲はどうあれ、「私は私」と思える健やかな自己肯定感。それを与えてあげられるのは、子どもをいちばん近くで見守ってきた親ならではの役目でしょう。いくつになっても脳は成長できるとはいえ、大人の場合は細いストローで一滴ずつ貯めていくのに対して、子どもは大きな蛇口からざっと注ぐくらいの違いがあります。子どもを取り巻く未来を考えると、不安や悩みもあるとは思いますが、ぜひ子どもの脳が秘める可能性を信じて、ポジティブに子育てを楽しんでもらえたらと願っています。
運がいい、悪いは自分で決めること。自分にとっての幸せはなにかというものさしがなく、世間の評判に流されて生きていると、いつまでたっても幸福感に満たされない。運がいい、悪いは自分の幸せのものさし次第。定義が決まれば心は乱されない。
不安は楽しむしかないということ。不安なんていくら準備しても消えないし、時が過ぎ去って振り返ってみればジタバタしていた自分が懐かしく思えるもの。むしろもっとあがくことを楽しんでおけば良かったと思うくらいです。だから、見えない不安をどうか存分に味わってほしい。不安を味わうことをメタ認知と呼ぶのですが、脳科学的にも前頭前皮質を鍛える良いトレーニングになります。しっかりトレーニングをしておけば、次第に不安感情の取り扱いにも慣れてきますよ。
正しいかどうかで判断するよりも面白さで判断したことのほうがやる気をもって行えるのです。
利他行動を現在のところ、AIは理解できません。他人のために自分を犠牲にできるのは人間だけです。しかもそうした行為を人は、なぜか美しいと感じる。これは高度な認知機能で、不要なようにみえながら、人類が進化する上では重要な役割を果たしてきた独特の機能といえます。利他的な行動を、なぜ脳が「美しい」と判断するのか。その理由はおそらく、他人を助けて共同して物事に当たる方が、厳しい環境のなかで生き残る確率が高かったからだろうと考えられます。何を美しいと思うかは人それぞれですが、これはその可塑性が高いことを意味します。適応力の高さ、と言い換えてもいいかもしれません。進化の歴史から考えても、一人ひとりが、自分の置かれた場所において、自分なりの「美しさ」を求めることはとても大切だろうと思います。空気を読む日本の文化の中では、まわりの空気なんか読まない、という選択が、社会の多様性を保持し、豊かにしていく戦略として機能します。まず、自分なりの美しさを追求することから、はじめてみてはいかがでしょうか。
世界で通用する人はグチをまったく言わない。周りの人や環境のせいにしない。
中野信子。
1975年生まれ、東京都出身。
認知神経科学者、評論家。
東京大学工学部応用化学科を1998年に卒業。
東京大学大学院工学系研究科修士課程、東京大学大学院医学系研究科医科学専攻修士課程を2004年に修了。
東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程を2008年に修了。
博士論文「高次聴覚認知における知覚的範疇化の神経機構 fMRI・TMSによる複合的検討」で博士(医学)の学位を取得。
フランス国立研究所ニューロスピン(NeuroSpin。高磁場MRI研究センター)に博士研究員として2008年から2010年まで勤務。
2011年に武蔵野美術大学・元講師で大阪芸術大学アートサイエンス学科・准教授の中野圭と結婚。
2013年、東日本国際大学客員教授。
横浜市立大学客員准教授(2015年10月まで)。
2015年、東日本国際大学特任教授(脳科学基礎論)に就任。