淡谷のり子の「大切な」言葉たち
ブルースの女王?それ、安っぽくてイヤな言葉。ねぇ、『のりちゃん』と呼んで。ジャズもシャンソンも好きだし、クラシックだってもう一度勉強し直したいな、って思ってるのよ。
レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ。
歌屋は歌だけをちゃんとやればいいのよ。
今の若い歌手のひどいこと。のど自慢で「かね1つ」といったようなものが、恥も外聞もなく盛んに歌っている。テレビのスイッチを思わず切りたくなるような歌手が多いんで、嫌になっちゃいますよ。
歌手は自分が酔うのではなく、聞き手を酔わせるもの。
自分の中に光を持っているのに、「私はダメかもしれない」ってね。
それはせっかく懐中電灯を持ちながら、眼をつぶって歩くようなものです。尊いものを持っているのに、その有り難さに気付かない。
贅沢ですよ。
夢は演歌歌手を束にして火をつけるということなんです。
わかりますでしょう。クラシックから流行歌へっていうのは、本当にどん底に飛び降りたみたいな気持でしたね。何しろ流行歌手というのは、八等技芸職ですものね。知らないわよね。技芸職に8つのランクがあって、流行歌手は一番下の8番目なの。そういう鑑札をもらうのよ。
舞台に上がるときはドレスもさることながら、最高にゴージャスなパンティをつけて、天下の美女って気持ちで歌うのよ。
奥さん ダンナはおだてて使いなさい。
美空ひばりさんの真似だったり、私の真似だったりしたら、それは物真似で、歌ではありません。自分の歌を大切にして、自分でなくては歌えないような歌が、たとえ下手のように聞こえても、ほんとうの歌です。
嫌いなことはくたびれるが、好きなことをするのはくたびれない。
あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ。
ブルースというものは、だれかが書いて、だれかが曲をつけて歌うもんじゃないの。黒人たちが自分の思いを自分の言葉で、自分のメロディーで叫んだ歌、それがブルースよ。
勉強するしか道は無い、苦しみ悩み努力が無い歌はインチキだ。
あまりヨレヨレになって生きているっていうのは…。でも、そうかといって、じゃ華々しいうちにステージをやめればいいじゃないかって言われるけど、そんなものじゃないんですよ。最後まで見きわめたいでしょう。
つきつめれば すべてが歌。
せっかく兵隊さんたちが夢を求めているのに、きたならしいもんぺをはいて、化粧もしないで「別れのブルース」歌えますか。そういったら、「歌は歌、服装は服装じゃないか」っていうのね。服装が歌につながってるってことがわからないのよ。それでまた始末書。化粧しちゃいけない、なんていったって、私の顔、化粧しなきゃ見られないですよ(笑
歌手は舞台で泣くものではありません。ただそういう私も一回だけ泣いたことがあります。戦争中に兵隊さんを慰問した時、楽屋に十人くらいの若い兵隊さんがやって来て、私たちは特攻隊員だから、いつ席を立つかわからない、その時は歌の途中で出て行くこともある、その無礼を前もっておわびに来た、というんです。で、私が舞台で一番を歌い終わると同時に、その十人くらいの兵隊さんがいっせいに立ち上がり、私に向かって敬礼をして出て行ったのです。ああッ出撃命令が出たのだ、もうあの人たちは帰って来ないかと思うと涙が次から次へと出てきて、とうとう歌えなくなりました。その一回だけです。
ドレスは私の戦闘服よ!
自分から逃げれば逃げるほど、生き甲斐も遠ざかる。
淡谷のり子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
1907年、青森市の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。
1910年の青森市大火によって生家が没落。
10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立青森高等女学校を中退し母と妹と共に上京。
東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。
後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。
オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。
しかし家がだんだんと貧しくなったため、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを務めるなどして生活費を稼いだ。
その後、柴田稲子の指導を受け首席で卒業。
春に開催されたオール日本新人演奏会では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い十年に一人のソプラノと絶賛される。
世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。
母校の研究科に籍を置き、母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動、クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。
1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。
1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。
映画館の専属となりアトラクションなどで歌う。
淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された。
1931年コロムビアへ移籍。
古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。
1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。
日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。
ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。
その後も数々の曲を世に送り出し名をとどろかせる。
その当時に淡谷のピアニストを務めていた和田肇と1938年に結婚するが、翌年離婚。
その後は生涯独身であった。
戦時下で多くの慰問活動を行い、第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。
戦後はテイチク、ビクター、東芝EMIで活躍。
やがて、ファルセット唱法になる。
1953年に『第4回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たす。
初出場ながらいきなり紅組トリを務め、紅白で第1回を除いて初出場でトリを務めたのは淡谷のみである。
テレビのオーディション番組の審査員やバラエティ番組などに出演する。
大物とされるような歌手であっても嫌いな歌手に関してテレビ番組等で堂々と公言していた。
晩年までテレビやコンサートで精力的に活動を続けてきたが、長年の音楽仲間で戦友ともいえる藤山一郎・服部良一が死去した1993年に脳梗塞で倒れる。
軽度ではあったが言語症や手足にマヒが残るなど体調は悪化し、この頃から急速に仕事への意欲を失い始めた。
寝たきりとなり療養生活を送っていた1996年、後輩たちによって淡谷の米寿記念コンサートが行われ、久々に姿を現した。このコンサートの際に森進一に「別れのブルース」を、美川憲一に「雨のブルース」を、「それぞれ形見分けではないですが差し上げます、歌っていって下さい」と発言し、話題を呼んだ。
このコンサートのフィナーレで全員合唱の中、口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が人前で歌った淡谷最後の歌唱となった。
1998年10月、故郷の青森市名誉市民の推戴式に車椅子姿で姿を現したのが、生前公の場に立った最後になった。
翌1999年9月22日、老衰により死去。