私は中学を卒業してすぐに社会人バレーの世界に飛び込みました。高校生活には楽しいことも多くあるでしょうが、それを捨ててバレーボールを選んだので、ケガを直そうとする努力をせずに引退を迎えてしまったら、何年か後に絶対に後悔すると思ったのです。そのときは楽かもしれない。でも、ゆくゆく自分で自分をかわいそうに思ってしまうんじゃないかと。だから再起不能を告げられても、簡単には諦められなかった。
勝ちにこだわり続け、伝説に残るチームをつくりたい。
私は親に「勉強しなさい」って言われたことないんです(笑)。必要性を感じたら、自発的にやるようになりますよね。いやいやしていることって身にならないと思うんですよ。今の親御さんには、子どものやることを信じて見守ってほしいなと思います。私自身は、何をするにしても、親に反対されたことがありません。「やめなさい」とも「続けなさい」とも言われたことないんです。ただ、父から「自分の人生なんだから、好きなように進めばいい。ただし責任を持つこと。他人には迷惑をかけてはいけない。」とだけ言われました。それだけだったので、いい意味でプレッシャーでしたね。
母からは、「自分が10個の発言をしたら、1個でもいいから人の言葉に耳を傾けなさい」と。すべて聞けとは言わないけれど、聞く耳を持っておきなさいということですね。
何の仕事をしても、”元バレーボール選手・中田久美”じゃないですか。だから、バレーボールを取っちゃったら私の中には何もないと思ったし、それが一番自分らしいかなと思って。やっぱり強い日本になってほしいと思うし、バレーには一生関わっていきたいですね。自分を育ててくれた場所なので。
答えを人に求めるんじゃなくて、自分で答えを探してもらいたい。指示を待ってる選手はケンカできないです
私は、現役中はスポーツ馬鹿でいいと思うんですよ。少なくとも、私の現役時代は、何かを片手間にやりながら、競技を追求していくことが難しい時代でした。私も普通の高校には通ってないですし、学歴という部分では無ですよ。でも、今困ったことってそんなにないんですよね。私はバレー一筋でやってきてよかったし、悔いもありません。
常識の延長線上に勝利はありません。
いろんなことをやってみることじゃないんですか、興味を持ったもの。私もそうしてきたし。私はたまたま(バレーボール界に)帰ってきましたけど、違う方向に行く、行ける人間もいるわけです。帰ってくることだけが必ずしも幸せなことだとは思わない。でも、いろんなことを片っ端からやってみるというのは、どっちの方向に進むにしても、無駄になることは何一つないと思うんですよね。
できないっていうところから始めてるじゃん!
100のサインを使い分けていました。だから、常にそのアタッカーが何を考えているのか、どういう精神状態でいるのかを把握しないと、まず使えないんですよね。それから、人それぞれ、性格がありますから、その性格も含めて使っていかなきゃいけない。なおかつ、私は私のイメージでゲームを組み立てることを考えるわけです。だから自然と、「その人の良いところを引き出してあげよう」と考えるわけです。だって、そうしないと勝てないんですから。そして、人を動かすためには、その人の人間性がわかっていなければいけないわけです。
頭ごなしに「ああしなさい、こうしなさい」と言うのではなく、じっと見守りながら、もし間違った方向へ行きそうになったら、一言二言「気にしているよ」と、子どもたちに伝えられれば、子どもたちも感じることがあるんじゃないかと思うんですけどね。
核になる選手には条件があります。性格からいうと 「挑む選手」 ですね。どんどんチャレンジしていく選手と言ってもいいでしょう。加えて、核になる選手は監督と選手との中間管理職みたいな立場で、監督が描いているイメージをコート上で体現しなくてはいけません。ですので、プレーにおいても、人間的にも、他の選手に対する説得力がなくては務まりません。こういう選手がチームを引っ張っていくんです。
スポーツでも何でも、チームを引っ張っていく立場の人に求められる要素は人間力だと思います。周囲のことをよく理解して、常に周囲を活かそうとする気持ちを持っていることでしょうね。バレーボールは、めまぐるしく動くゲーム展開の中でいろんな情報をキャッチし、チームメイトの動きを予測し、どういう場面で使ったらいいかを瞬時に判断し、ゲームを組み立て、点数をとっていくスポーツです。常に頭をフル回転させて人を観察しつづけないと勝利へは導けない。鈍感では務まりませんよね(笑)。
多分、アスリートだから、ぎりぎりが好きなんだと思うんですよ。チャレンジャーなんですよ。私も大好きですね、ぎりぎり。多分、もう壁が高ければ高いほど越えたくなっちゃうタイプですよね。
叶わなそうなものを、叶えるのが夢。自分の限界を自分で決めてしまったら、その先はない。
心なんて折れてなんぼ。
何度でも立ち上がれ!
中田久美。
東京都練馬区出身。
名前の由来は、誕生日(9月3日生まれ)から。
母親の助言もあって練馬区立練馬東中学校入学後からバレーボールを始め、2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団。
その関係からバレーボールに専念するため高校は通信制のNHK学園高校に通い卒業。
バレーボール漬けの環境で才能を開花させた中田は、1980年に大谷佐知子と共に史上最年少の15歳(中学3年生)で全日本代表に選出され、同年の日中対抗にセンタープレーヤーとして出場。
直後に山田から素質を買われ、セッターに転向する。
翌1981年に日立に進み、セッター転向わずか1年でスタメンを獲得。
同年の日本リーグでは史上初の失セット0での全勝優勝に大きく貢献し、自身も新人賞を獲得した。
1983年からは日本代表でもスタメンセッターとなり、同年のアジア選手権では当時世界一の中国を破り、優勝を飾った。
翌1984年のロス五輪でも銅メダルを獲得。
1986年9月、世界選手権で主将を務めた。
11月、練習中に右膝前十字じん帯を断裂。
再起不能ともいわれた大ケガだったが、リハビリを乗り越え10ヶ月後に試合に復帰。
1988年2月、再び右膝を手術。
しかし右膝は完治せず、試合の時は痛み止めの薬を手放せなくなる。
同年ソウル五輪出場。
1992年、バルセロナ五輪に出場。
日本女子バレー史上初となる3度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。
バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退したが、1995年に現役復帰、1996年にはアシスタントコーチに就任。
2005年、父の定年退職と共に、長野県内に新居を購入し、東京都内から両親とともに移住。
2005年から翌年まで、日本バレーボール協会の強化委員を務めた。
2008年、イタリアプロリーグセリエA・ヴィチェンツァのコーチに就任。
日本人女子として初めて海外バレーボールチームの指導者となった。
2009年、セリエA・ノヴァーラのアシスタントコーチに就任。
2011年9月、久光製薬スプリングスのコーチに就任し、2012年7月1日付で監督に就任した。
2012年12月24日、都城で行われた天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会の決勝戦では、昨年優勝の東レを下して優勝。
監督就任1年目にしての快挙となった。
その後、Vプレミアリーグと黒鷲旗全日本男女選抜大会も制覇し、女子チームで初めてとなる3冠を達成した。
2016年10月25日、日本バレーボール協会理事会にて満場一致で、バレーボール女子日本代表の監督に選出された。