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常識から1ミリでもいいから一歩踏み出せ! ~アントニオ猪木名言集と今までの軌跡~




新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!

■アントニオ猪木名言集

元気が一番、元気があれば何でもできる!

この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。

死ぬエネルギーがあるくらいだったら、まだまだ生きられると思った。

「迷わずいけよ」と言っても、俺にも迷う時もある。

コンプレックスをバネに飛躍することができるのではないか。

もともとありもしない「限界」にこだわると、己れの力に疑問をもつようになり、しくじったり、できなかったとき、「ああ、これが俺の限界だ、もうダメだ」とギブアップしてしまう。

私に言わせれば、「限界」なんて言葉はこの世の中にはない。「限界」と言うから、限界ができるのだ。なぜ自分から「限界」という一線をひかねばならないのか?

私自身ブラジル移民で、力道山にスカウトされて日本に帰ってきたときから、ひどいことを言われ続けてきました。プロレスそのものだって、ずっと蔑視され、差別を受けてきた歴史があるのです。だから「てめえら、今に見ていろよ」みたいな、いつも燃えるものが私の心にあって、それは生涯変えようがないのかなと思う。

悩みながらたどり着いた結論は、やはりトレーニングしかない。

人にはいろいろ好き嫌いがある。俺にもどうしても好きになれない人間がいる。しかし、その人間がどういう情報を与えてくれるか、その人間を一度飲み込まなければ、それは得られない。人を飲み込むことのできる器というのは、人を包み込める大きさがなければならない。

派手に見えれば見えるほど、裏で地味な努力をしているのがあらゆる世界のプロだ。

新聞や雑誌で「環境がどうの……」と理屈ばかり言っている知識人と呼ばれている人たちは、一度、アマゾンのジャングルを走り回ってくるといいんですよ。パラオの海に潜ってもいいし、そうすると机上では計り知れない、自然からの知恵が黙ってても入ってきますから。

必ず人生の転機を直感し、的確に判断できるかどうかを試される時が何度かある。

「…たら」「…れば」を考えるより、どんな状況下でも 「何を、どうすれば、自分にとって最高の道となるのか」を 見つけ出す方に時間をかけるほうが、有意義ですよね

私はプロレス修業時代、誰よりも大きな欲を持とうと思い練習した。だからつらいことにも耐えられた。苦が苦ではなかった。そして、プロレスラーを決して派手な仕事だとは思わなかった。外見は派手でも、地味な、文字通り汗と血だらけの練習に明け暮れたからで、少しも楽に生きようなどと考えてはいなかったからである。

夢を持て!でかければでかいほどいい。とにかく、夢を持て。大ぶろしきをひろげておさまりがつかなくなってみろ、やらざるを得なくなるではないか。

妥協して敗れるのか、必死に闘った結果敗れるのかでは大きな違いがある。

私は色紙にいつの日か闘魂という文字を書くようになりました。それを称してある人が燃える闘魂と名付けてくれました。闘魂とは己に打ち克つ、そして戦いを通じて己の魂を磨いていくことだと思います。

寝てたいヤツは一日中寝ていろ!そのかわり、やる以上はギネスブックの記録を作るぐらいの覚悟でやれ!

自らに満足している人間は、それで終わりだ。

限界なんて言葉はこの世の中にはない、限界と言うから限界ができるんだ。どんなに慎重になっても、どんなに想像しても、行動についての結果は、やってみなければわかりません。でも、結果を恐れて行動しなければ、なにも生まれてきません。行動を起こせば、また新たな選択が生まれてきます。でも、その行動や選択には責任もついてきます。あなたの行動は多くの人にも影響をあたえます。言い訳はひとつも通用しません。それでも歩きましょう。人生逃げ道なし。

人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに、年老いていくのだと思います。

時代に出会って、時代に恋して、時代を背負って歩きたい。

何かやると、当初はいろいろ言われても、あとから必ず評価されるときが来ます。俺の歴史はその繰り返しですよ。

どん底に耐えられれば、裸になることができる。私は新日本プロレスを旗揚げした時、一軒、一軒、キップを売って歩いた。理想のプロレスをつくり上げるために、なりふり構わず頭を下げた。十年近くたっても、私はそれをやった。浅草の街頭に立って売り歩き、それでもキップが残ったので一軒、一軒まわった。なぜなら、ほかならぬ自分へのチャレンジだったからだ。

夢を持てば、燃えられる。燃えられれば、どん底にも耐えられる。ヘンにひねくれることもない。どん底に耐えられれば、裸になることができる。

落ちたら、またはいあがってくればいいだけのこと。

失敗が怖い? いいじゃないですか。私なんか失敗、誤解、つまずきといった負の部分をエネルギーに変えてきたからこそ、こうやって60歳を過ぎたいまでも元気でいられるんですから。

子供に夢を持たせたければ、大人こそ夢を持て。

俺たちは、生まれながらに偉いのではない。全力でぶつかり、失敗し、それでも立ち上がって、また失敗し、やっと何かをつかんだかと思ったら、虚しくも朝の露。しかし、まだまだくたばらない。俺には欲があるんだ、夢があるんだと向かっていく。そうして、ちっぽけながらも、自分だけができる何かをつかんできた。

花が咲こうと咲くまいと、生きていることが花なんだ。

大好きな言葉のひとつに「何にもしないで生きるより、何かを求めて生きようよ」があります。人がやらない何かにチャレンジする、猪木にしかできないことに挑戦していくということです。

人生は挑戦の連続である。

いくつになっても初めての経験をすることは楽しい。年をとると、チャレンジすることが怖くなると言いますけど私は違う。挑戦することを諦めるなんてできない。

混乱の時代、不安と恐怖の中で生きるか、何が起ころうとも何かに挑戦し続けるか。

やっぱり、行動なんですよ。どんなことでも頭の中で考えてばかりいないで、まずやってみることなんです。

出る前に負けること考えるバカいるかよ!

馬鹿になれ、とことん馬鹿になれ。恥をかけ、とことん恥をかけ、かいてかいて恥かいて裸になったら見えてくる。本当の自分が見えてくる。本当の自分も笑ってた、それくらい馬鹿になれ!

人生、一寸先はハプニング!

常識から1ミリでもいいから一歩踏み出せ。

道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ!

■アントニオ猪木とは?

アントニオ猪木。

日本のプロレスラー、参議院議員。

新日本プロレスの創業者。

横浜市生まれ。

13歳で祖父に連れられ母・兄弟とともにブラジルへ渡る。

コーヒー豆農場などで肉体労働を経験し、身体と精神の基礎を身につける。

ブラジル遠征中の力道山の目に留まりスカウトを受け日本プロレスに入団。

その後、アメリカ武者修行や東京プロレス入団、日本プロレス追放などを経て新日本プロレスを設立。

日本の異種格闘技興業の基礎を作った。

【生い立ち】

神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。

父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。

父親は猪木が5歳の時に死去。

実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。

13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。

幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮。

その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。

【プロレス】

1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。

力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。

上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。

デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた。

ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木寛至として、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)。

デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。

1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。

この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。

西海岸、中西部、南部をサーキットし、2年後に帰国。

この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している。

1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場や吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱。

帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表。

10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。

しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。

「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる。

日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、ジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。

NET(現:テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始した際、日本テレビとの取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、UNヘビー級王座を獲得した。

また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。

しかし、馬場との対戦要求が容れられなかったことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から1971年(昭和46年)に追放処分を受ける。

同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した。

日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。

当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。

また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。

タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。

WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。

その後のプロレスに大きな影響を与える。

猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。

日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された。

【猪木監禁事件】

1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。

同年、漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。

梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、銃を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。

後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。

「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。

ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。

1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。

第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した。

この頃、猪木が自身のビジネスに新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。

1986年(昭和61年)6月にはプロボクシング団体日本IBFと業務提携開始。

1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。

そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤と観客なしのノーピープルマッチを敢行。

1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。

猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。

これが猪木最後のIWGP挑戦となった。

引退

1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。

1996年(平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したフォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたWBU世界ヘビー級王座戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。

1998年(平成10年)、東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。

引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。

2005年(平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。

2006年(平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。

2007年(平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足、6月に両国国技館にて旗揚げ戦を行った。

2013年2月、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。

2017年10月、両国国技館での『INOKI ISM.2』において自身の生前葬を行う。

【政治家】

1989年(平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。

第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる。

キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」。

史上初のレスラー出身の国会議員となった。

政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。

1989年(平成元年)10月14日、福島県会津若松市の体育館で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。

会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院した。

この時の猪木はマスコミのインタビューで「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。

1990年(平成2年)8月、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸危機)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクに連行・国外移動禁止処分にする。

猪木が12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。

猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。

このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。

これを追い風に、その後1992年(平成4年)7月の第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得した。

1994年(平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反」、「収賄」、「右翼(日本皇民党)との癒着」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題」などの問題を告発するいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。

これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。

また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。

一連の「猪木スキャンダル」もあり、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選。

なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。

選挙後、江本は離党した。

なお、スポーツ平和党は2004年(平成16年)4月を以て解散した。

2013年6月、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。

獲得票数35万6606票(同党内最多得票)で当選し、18年ぶりの国政復帰を果たした。

2013年7月より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された。

2013年7月北朝鮮の朝鮮戦争休戦60年の記念行事に出席。

平壌で金永南最高人民会議常任委員長と会談した。

参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された。また、維新から党としての処分として、党員資格と党副幹事長職それぞれ50日間停止を言い渡された。

2014年1月北朝鮮に訪問。猪木の訪朝はこれで27回。

2014年4月には同じ維新の会の松浪健太、石関貴史、阪口直人(衆)、清水貴之(参)の4議員とともにゴールデンウィーク中の再度の訪朝を計画した。

猪木と上記の4議員にみんなの党の山田太郎参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、平壌市内の各施設や開城市などを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党の姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った。

2014年8月の日本維新の会分党に際しては石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に参加。

2015年1月に政党「日本を元気にする会」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。

2016年6月、日本を元気にする会代表の松田公太の辞任と共に、猪木の代表就。

2016年7月に会派「日本を元気にする会・無所属会」は解散し、猪木は会派「無所属クラブ」に異動。

2019年2月に国民民主党の院内会派である「国民民主党・新緑風会」に入会。



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